2020年9月13日『人の思いと神の時』(ヨハネ7章1-13節) | 説教      

2020年9月13日『人の思いと神の時』(ヨハネ7章1-13節)

今日から、ふたたびヨハネの福音書に戻ります。7月は6章を読んでいました。6章は、5つのパンと2匹の魚で、大人の男性だけで5000人いた群衆のすべての人がお腹いっぱいになるという主イエスの奇跡で始まりました。主イエスは、人々の信仰の面だけでなく、彼らの日々の生活のことにも助けや導きを与えてくださる方です。主は、大勢の人々が空腹なのを見て、彼らに恵みの奇跡を行ってくださいました。しかし、この奇跡がきっかけとなって、人々と主イエスの思いが違っていることが明らかになり、この奇跡に感動していた人々も、6章の終わりのところでは、多くの人がイエスから離れてしまいました。このように、人間の考えることは、人間の自己中心の思いが入っているのでどうしても自分に都合の良いことを願います。そのために、私たちの考えや願いが、神様の計画、御心と合わないことがよく起こるのです。今日の箇所にもそのような状況が現れています。

(1)人間の思い
 1節に「その後、イエスはガリラヤをめぐり続けられた」と記されています。その後とは、6章に記されている出来事の後という意味ですが、6章の4節を見ると、「ユダヤ人の祭りである過越しが近づいていた。」とあります。過越しの祭りは私たちのイースターと同じ時ですから、3月から4月です。一方7章では2節に「仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。」と書かれています。仮庵の祭りは現在のカレンダーでは9月の終わりから10月の初めに行われるので、6章の出来事の後、主イエスは6か月の間、ガリラヤに滞在しておられました。ただ、この6か月間のことは、ヨハネの福音書には何も書かれていないので、主イエスは特別な働きは何もしていないように思われますが、他の福音書を見ると、この間の出来事が数多く記されています。多くの人々を癒されたり、悪霊につかれている人々を解放されたり、男だけで4000人の群衆に7つのパンと少しの魚で、皆が満腹なるように食べ物を与えてくださった出来事が記されています。しかし、主イエスがそれ以上に時間を取られたのは、弟子たちの訓練でした。この6か月の間に、主イエスは初めて弟子たちに自分が十字架にかけられた後復活することを明らかにされました。主イエスは、ご自分が十字架に掛けられる時がだんだんと近づいていることを知っておられたので、弟子たちと多くの時間を過ごされたのです。ただ、この6か月の間、主イエスはガリラヤ地方での滞在を続けておられて、エルサレムに行くことはありませんでした。その理由については、1節で、「ユダヤ人たちが殺そうとしていたので」と書かれています。神殿があるエルサレムでは、主イエスに対する反感がすでに強くなっていて、ヨハネの福音書では、5章ですでに一部のユダヤ人はイエスを殺そうとするようになっていました。(5章18節)主イエスは、まだ自分の時が来ていなかったので、無意味に自分のいのちや自分の働きを危険にさらすことを避けておられたのです。

 2節に、「仮庵の祭り」というユダヤ人の祭りが近づいていたと書かれています。先ほど述べたように、仮庵の祭りは9月末から10月初めに行われいたユダヤ教三大祭りの一つです。この祭りは1週間続き、最後の日には特別な集まりがありました。もともとは秋の収穫を祝い、神様に感謝する祭りでした。「仮庵」とは、仮の小屋という意味ですが、祭りの7日間イスラエルの民はいろいろな木の大枝とナツメヤシの小枝でつくった仮小屋に住むように命じられていました。それは、自分たちの先祖が、エジプトを脱出した後、荒野を40年間さまよってのですが、そのころのテント生活や厳しい生活のことを忘れないために、そのようなことをしていました。また、この祭りの時に、すべての男性は主の前に出るように定められていました。その祭りが近づいていましたので、イエスの兄弟たちは、イエスも当然、祭りに参加するために、エルサレムに行くものと思っていました。3節を読みましょう。「そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。『ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。』」イエスの兄弟たちと書かれていますが、彼らは、いわば半分兄弟でした。彼らはヨセフとマリヤの子どもたちですが、主イエスにはヨセフやマリヤの血は入っていませんから半分兄弟ということです。マタイの福音書を見ると、イエスの弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという名前でした。彼らは、この時点では、まだイエスを救い主メシアと信じてはいませんでした。彼らはこどもの頃からイエスと一緒に生活していました。イエスは30歳になって神の子としての働きを始めるまでは、ヨセフとマリアの子どもとして両親に仕えており、弟たちの面倒を見ていました。イエスが神の子として活動を始めるために30歳の時に突然家を出て行った後も、イエスが奇跡を行っている場面を見ていましたが、それでも彼らはイエスが救い主だとは信じていませんでした。主イエスが十字架にかけられ、そして三日目に復活した後になってようやく、彼らもイエスを救い主と信じるようになりました。ただ、この時のイエスの弟たちは、主イエスに向かって、「あなたはエルサレムに行って、大勢の人々の前で、ガリラヤでやっているような奇跡を行え」と言っています。当時の彼らは、イエスの周りに集まった群衆と同じ考えを持っていました。彼らは、5つのパンと2匹の魚による奇跡の後、多くの弟子たちがイエスから離れて行ったことも知っていたでしょう。彼らがイエスに言おうとしたのは、「もっと弟子を集めたいのであれば、こんな田舎のガリラヤにとどまっていないで、仮庵の祭りの期間に、大勢のユダヤ人が集まっているエルサレムに行くべきだ。エルサレムでこれまで行っていたような奇跡のわざを行えば、きっと多くの人があなたの弟子になるだろう。」また、彼らは祭りに行く予定でしたから、自分たちもエルサレムでイエスがどんな奇跡を行うのか見てみたかったのだと思います。

 弟たちからの挑戦的な言葉に対して、主イエスは「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。」と答えられました。主イエスは、兄弟たちが間違った考えから自分にエルサレムに行くようにけしかけていることが分かっていますので、彼らの勧めを完全に拒否しています。主イエスが行動する時は、いつも父なる神の御心に従っていました。父なる神様が永遠に持っておられた計画に従って主は行動していたのです。主イエスが、カナの結婚式で最初の奇跡を行った時も同じようなことがありました。イエスの母マリヤは、結婚式の途中でぶどう酒がなくなって、イエスに助けを求めましたが、その時も、主は母マリヤに「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。主イエスにとって、「わたしの時」とは十字架にかかる時です。それは、7章の出来事から約半年後の過越しの祭りの時です。それまでの数か月間、主はユダヤ地方にも行かれましたが、人に見られる姿でエルサレムに行って何かするということはありませんでした。主イエスが自分がメシアであることを人々に見せる時は、十字架にかかる時だったからです。
 一方、イエスは、兄弟たちの時間はいつでも用意ができていると言われました。彼らは、主イエスを救い主と信じていないので、この世に属する者でした。彼らは神様の計画や神様の時というものにまったく無関心ですから、彼らには、エルサレムでの祭りに参加することを妨げるものは何もありません。彼らはいつでもエルサレムに行くことができました。神の時に従っていない人は、いつでも自分の好きな時に好きなことができるのです。また、イエスの弟たちは、イエスを信じていませんから、8節で主イエスが言われたように、彼らが世の人々から憎まれることはありません。しかし、この世は、主イエスに対して憎しみを抱いていると主は言われました。この世は、人の罪で満ちています。罪とは神を信じないで生きることです。そのため、人は自分の欲望に支配されて生きるようになりました。主イエスは、罪は罪であるとはっきり指摘されたので、人々から、特に、ユダヤ教の指導者たちから憎まれました。この世はキリストを憎みますから、クリスチャンも世の人々から批判されることがあります。私たちの傲慢さや私たちの間違った態度で批判される場合は、その批判を謙虚に受け止める必要がありますが、信仰のために批判を受けることがあった場合は、それは、私たちの信仰が本物であるという意味なので、スルーすればよいと思います。

主イエスは、兄弟たちの言葉を否定して言いました。「あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上っては行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」主イエスは、兄弟たちに祭りに行くように命じました。地方からエルサレムに祭りに参加するために出かける場合、個人でばらばらに行くのではなく、村単位で集まって大きなグループを作って出かけました。イエスが12歳の時に両親とともに祭りに参加した時、イエスは迷子になりますが、その時も、ナザレから大きなグループで出かけていたために、両親はイエスがいないことにしばらく気が付かなかったのです。この時もし主イエスがナザレの村人のグループとともにエルサレムに出かけていたら、もしかすると人々がイエスをふたたび無理やり王様にしようとするような雰囲気になる危険性もありました。あるいは、主イエスの存在が目立って、エルサレムでイエスとユダヤ教指導者たちの対立が激化して、神の定めた時よりも早くイエスが殺されることになったかも知れません。

(2)神の時
 イエスの兄弟たちの一行がエルサレムに向かって出発した後、イエスは人目につかないようにして、一人でエルサレムに向かわれました。14節を見ると、主イエスは、1週間の祭りの半分が過ぎた頃にようやくエルサレムに到着しているので、主イエスが出発した時には、祭りに参加するためにエルサレムに向かっていた人たちはほとんどいなかったと思われます。祭りが始まったエルサレムでは、ユダヤ教の指導者たちはイエスを捜していました。11節では「ユダヤ人たち」と書かれていて、12節では「群衆」と書かれているので区別されています。11節で、イエスを捜していたのは、イエスを殺すことを考えていたユダヤ教の指導者たちのことを指しています。彼らは、この祭りの間にイエスを捕らえる機会を狙っていました。一方、一般のユダヤ人たちは、イエスについていろいろ噂していました。ある人は、「イエスは良い人だ」と言い、別の人は「イエスは人を惑わしている」と言っていました。どちらもイエスについての考えは間違っています。主イエスは単なる良い人ではありません。良い人は、決して自分のことを神だとは言わないからです。また、イエスは人を惑わしているのでもありません。イエスの教えもイエスの奇跡も、真実の神を信じる信仰へと導くためのものだからです。残念なことに、結局、人々の間で優勢になったのは、イエスがユダヤの人々を惑わしているという考えでした。ただ、人々は、ユダヤ教の指導者を恐れていましたので、あえて人前でイエスに関して自分の考えをはっきり言う人はいませんでした。人々は、自分たちがユダヤ教指導者たちからの反感を買って、会堂から追い出されることをひどく恐れていました。というのは、ユダヤの社会では、会堂から追放されることは、社会から追放されることと同じだったからです。
 
 今日の箇所から分かるように、主イエスは、どんな時も、ただ父なる神の御心にだけ従っておられ、人が何を言おうと何を行おうと、父なる神様が決められた時間、スケジュールに従って行動しておられました。私たちは、み言葉をとおして、また聖霊の働きをとおして、神様のみこころは何なのか、神様のタイミングはいつなのか、ということを知ることができます。そして、それを知ることができるように祈ることが必要です。詩篇143篇10節に次のような言葉があります。「あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。」私たちが神の御心に従って生きる時、神様は私たちを平らな地、平安に満ちたところへ導いてくださることが約束されています。結局のところは、私たちは神様の御心に従って生きることが最善の道なのです。これからも、この道から離れずに、神様の御心にかなった人生を歩んで行きたいと思います。

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