2020年9月20日 『正しいさばきをしなさい』(ヨハネ7章14~24節) | 説教      

2020年9月20日 『正しいさばきをしなさい』(ヨハネ7章14~24節)

主イエスは私たちの心の中をすべて見抜いておられます。ヨハネの福音書6章64節にはこう書かれています。「信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。」しかし、主イエスは、人々の不信仰によってひるむことなく、ご自分が誰であるのか、どんな働きをするのかということを人々に語り続けておられました。その結果、ユダヤ教のリーダーたちはますますイエスに対する反感や憎しみを強くして行きました。先週の箇所では、主イエスは自分の弟たちから一緒に仮庵の祭りに参加するためにエルサレムに行こうと誘われましたが、それを断りました。弟たちは、主イエスが祭りの時にエルサレムに行って奇跡を行えば、多くの人が弟子になるだろうと考えていました。信仰を持っていない弟たちは、祭りに出かけることは、イエスにとって、この世的な成功を得るチャンスだと思っていたのです。それに対して、主イエスは弟たちに「わたしの時はまだ来ていない」と答えられました。主は、自分がこの世に来た目的が十字架であることを示されて、その時はまだ来ていないと言われたのです。主は、「自分は祭りには参加しない」と弟たちに言われましたが、ナザレの村の人々がエルサレムに向かって出発した後、一人で人目につかないようにエルサレムに行かれました。そして、一週間のお祭りが半分過ぎたときに、主イエスはエルサレムに着き、神殿に入って人々に向かって教え始められました。14節に記されているとおりです。ユダヤ教の指導者たちは、イエスが祭りに参加するためにエルサレムに来るだろうと考えていました。そして、できれば、祭りでエルサレムの町中がごった返している間に、密かにイエスを捕らえて殺そうと考えていました。11節に、「ユダヤ人たちは、祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた」と書かれていることからも、彼らの魂胆は明らかです。ところが、イエスが見つからなかったので、彼らはイエスは祭りに来ていないと思っていたのですが、祭りの途中に、突然、イエスが神殿に現われて教えを始めたために、彼らの計画はつぶされてしまいました。12節を見ると分かるように、群衆の中にはイエスに対して好意的な考えを持つ人たちもかなりいたので、群衆の目の前でイエスを捕らえることは難しかったのです。主イエスは、ユダヤ教指導者たちが自分を殺そうとしていることも知っていましたが、神殿の中で、恐れることなく堂々と自分が誰であるのか、自分は何をするためにこの世に来られたのか、そのようなことを語り始めました。
 
 すると、イエスの教えを聞いたユダヤ人たちは驚きました。ここでも「ユダヤ人」とは一般のユダヤ人ではなく、ユダヤ教の指導者たちを指しています。彼らが驚いたのは、主イエスの教えに表された、主イエスの知識の深さでした。彼らはこう言っています。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」当時のユダヤ教の教師や祭司たちは、有名な教師のもとで聖書の教えを受けていました。そして、それらの教師から卒業証書のようなものを受け取ると、人々から正式なユダヤ教の聖職者と認められていました。例えば、使徒パウロも最初はユダヤ教の教師になるための教育を受けましたが、彼は自分のことについてこう言っています。「私は、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けました。」(使徒22章3節)ガマリエルというのは当時、非常に有名なユダヤ教の教師だった人物で、人々から非常に尊敬されていました。もちろん、主イエスは、そのような教育を受けていません。ところが、主イエスの教えの深さにユダヤ教の指導者たちはびっくりしたのです。彼らは、イエスの教えが間違っているとは一言も言っていません。彼らはイエスの教えに一言も反論することができませんでした。それは当然のことです。正しい神の御子が正しい教えを語っておられるからです。福音書には、主イエスが群衆に向かって説教する場面、ユダヤ教の会堂で説教する場面が何度も出て来ますが、いつも主イエスの教えを聞いた人々はびっくりしました。主イエスの教えに力と権威があったからです。マタイの福音書の5章から7章に有名な「山上の説教」という主イエスがガリラヤ湖の近くで群衆に語られた記事がありますが、その説教の最後のところにこのようなことが書かれています。マタイの福音書7章28,29節です。「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようではなく、権威あるものとして教えられたからである。」ユダヤ教の指導者たちは、イエスの教えの内容に反論することができなかったので、イエスがどのような資格で人々に教えるのか、どんな権威で教えるのか、そのようなことを問題にしました。
 主イエスは、ユダヤ教指導者たちの言葉に対して、4つのことを答えています。第一は、自分の教えがどこから来ているかという点について語られました。16節を読みましょう。「そこでイエスは彼らに答えられた。『わたしの教えはわたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。』」当時のユダヤ教の指導者たちは、自分の教えに権威をつけるために、自分が教えを受けた有名な教師の名前を出して、「~先生はこう言われた」と自分を指導した教師の教えを引用することが多かったのです。彼らは、このようにすることで、人間的な伝統に基づいて、自分の権威を示そうとしていました。一方、主イエスは、自分の教えは自分のものではなく、自分をこの世に遣わした父なる神の教えであると宣言されました。主イエスは、これまでにも繰り返して、自分と父なる神は一つであると言われました。主イエスの働きと父なる神の働きは一つであると言われましたし(5章17節)、また、さばきについては、「自分のさばきは正しい。わたしは自分の意志でさばくのではなく、わたしを遣わした父なる神のみこころを求めるからだ。」と言われています。そして、ここでは、「わたしの教えは、すべて直接、父なる神から来ている」と宣言されたのです。私は、礼拝の中で説教をしていますが、それは、わたしの考えを話しているのではありません。私の説教の権威はどこから来るのかというと、聖書の言葉から来ます。聖書の言葉に権威があるからです。私は、極力、聖書はここで何を語っているのかということを皆さんに語っているつもりです。しかし、時には、説教の中に、み言葉に対する私の解釈が入る場合があります。しかし、私は間違う可能性もあるので、私は自分の解釈に権威を与えることはできません。従って、私たちは、一つの問題を考える場合、必ず、聖書は何と言っているかと聖書のみ言葉の権威に頼らなければなりません。私たちは、集会やメディアを通して、いろいろな先生の説教を聞くことができますが、そのような場合も注意が必要です。中には、異端の教えが混じっている場合があるからです。大体の異端の説教者のパターンは、こんな感じです。「聖書の解釈は難しくて、一般の人には理解できない。私には、神様から特別な賜物と特別な霊的理解力が与えられているので、聖書の奥義を知っている。だから、私からしか、聖書の本当の真理は学べない。」このように言って人々を洗脳するのです。そういう訳で、私たちがいつも気を付けなければならないことは、「この先生が~と言ったから」という聖書理解は危険だということです。私たちは、ある教えを聞いたときに、必ず、その教えは聖書のどの言葉によって裏付けられるのかという証拠づけが必要です。しかし、主イエスの場合はまったく心配ありません。主イエスと父なる神とはひとつであり、主イエスは父なる神からの教えを直接そのまま教えているからです。主イエスの教えはすべて父なる神の権威によるものなので、すべての言葉が100%真理であると断言できます。
 第二に、主イエスは確信ということについて語っておられます。17節を読みましょう。「誰でも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」主イエスが神の子として働いておられる時に、よく人々から、本当に神であることを証明するために何かしるしを見せてほしいと頼まれることがありました。しかし、主イエスは、決してそのような要求に応じることはありませんでした。というのは、彼らの要求は、イエスを信じない不信仰の心から来ていたのであり、また、主イエスはそのことを知っておられたからです。不信仰の人々は、何度奇跡を見ても、決して信じないことを、主は知っておられました。しかしながら、逆に、神の前にへりくだって誠実に神の御心を行おうとしている人々に対しては、「その人たちには、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」と約束しておられます。心から神様の御心を行いたいという願いや意志を持っている人は、神からの教えを聞けばそれが神からのものであると見分けることができるということです。私たちが、信仰に関することで正しい判断ができないことには、いろいろな原因がありますが、自己中心という罪を持っている私たちは、どうしても自分に都合の良いように物事を考え、都合の良いように判断するからです。主イエスの彼らに対するチャレンジはとてもシンプルなものです。「もし、あなたがたがみ言葉の前にへりくだって、み言葉の教えに聞き従う心があるならば、わたしの教えが神から来ている教えであり、真実であることが分かります。」というものです。ユダヤ教の指導者たちが、イエスの言葉を信じることができなかった理由もここにあります。彼らは、神に仕えていると思い込んでいましたが、神の言葉の前にへりくだって聞き従う姿勢がなかったために、イエスの言葉を理解することができませんでした。

 第三に、主イエスは、誰の栄光を求めるのかということを語られました。18節を読みましょう。「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」自分から語る人とは、自分の意見や自分の主義主張を語る人のことです。彼らは、神の言葉を語るのではなく自分の考えを語ります。そして、彼らは人々からの評判や尊敬を得ることを求めていました。結局、彼らが求めていたのは自分自身の栄光なのです。しかし、主イエスは、自分の教えを語っているのではなく、自分を遣わされた父なる神様の教えを語り、それを通して、父なる神様の栄光が現われること求めておられました。主イエスは、繰り返して、ユダヤ教の指導者たちの偽善を批判されました。例えば、マタイの福音書23章5節から7節で、イエスは次のように言われました。「彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。」彼らは、神に仕えることを誇りにしていましたが、実際には、自分自身が人々から褒められることを求めていました。しかし、主イエスは決して自分自身の栄光を求めませんでした。そもそも、自分の栄光を求めていたら、主イエスはこの世に来ることはありませんでした。主イエスは、天におられた時にはあらゆる栄光に満ちておられましたが、それらすべてを捨ててこの世に来られました。それは、すべて、私たちの罪が赦されるために、私たちの身代わりとなって十字架の刑罰を受けることが、父の御心であり、その御心を実行するために主はこの世に来られたからです。主イエスは、自分の栄光を求めることなく、常に、自分を遣わされた父なる神様の栄光を表すために働かれました。
 主イエスは、ユダヤ教指導者たちこそ神の栄光よりも自分の栄光を求めていることを示すために、彼らの偽善、今風に言えばダブルスタンダードの姿勢を指摘されました。それが主の4つめの答えです。「モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたはなぜわたしを殺そうとするのですか。」これを聞いた一般のユダヤ人はびっくりしました。群衆は答えています。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」群衆は、ユダヤ人指導者たちの一部の者がイエスを殺そうとしていたなんてことは想像もしていませんでした。だからこのように答えているのです。このイエスの言葉に指導者たちは激しく怒ったと思います。彼らは自分たちが熱心に旧約聖書の律法を守っていることを誇りに思っていたからです。しかし、それは神様の栄光のためではなく、自分の栄光を求めて行っていたことでした。そういう訳で、主イエスの奇跡や教えによって多くの人がイエスの弟子となるのを見て、妬みを感じたとき、彼らはイエスを殺そうと思ったのです。モーセの十戒にははっきりと「殺してはならない」と書かれているのです。ところが、プライドと偽善に満ちた指導者たちは、いろいろな口実を並べてイエスを殺すことを正当化していました。
 彼らがイエスを殺そうと思ったきっかけは、5章に記された奇跡です。イエスがベテスダの池にいた38年寝たきりの人を癒してあげたことでした。人生の大半を苦しみとともに生きていた人が主イエスの奇跡によって苦しみから解放されたのですから、喜ぶべきことです。しかし、これを見ていた指導者たちは、イエスに恐れを感じました。「このままイエスを放っておけば、皆イエスの弟子になってしまう。」彼らはイエスの奇跡に対しては何一つ反論できません。それは事実目の前で起こったことだからです。それで、彼らはイエスを殺す口実を捜しました。イエスがその人を癒されたのは安息日でした。安息日はいっさい仕事をしてはいけないと決められていました。そこで、ユダヤ教の指導者たちは、イエスが安息日に癒すという仕事をしたと言って彼を律法違反者と決めつけ、それを理由に彼を殺そうとしたのです。
 イエスは、彼らの矛盾と偽善を指摘しました。それが、22,23節で主が言われたことです。ユダヤ人の男の子は皆、生まれて八日目に、割礼という儀式を受けました。それは体の皮膚の一部を切り取ることですが、切り取るというのは立派な仕事になります。ところが、割礼は必ず行わなければならない儀式であったため、たまたま男の子が生まれて八日目が安息日であった場合、割礼の儀式は行われました。このように、ユダヤ教指導者たちは、自分たちには安息日の律法に例外を認めていましたが、イエスに対しては一切例外を認めませんでした。イエスが5章で行われた奇跡は、長年寝たきりの人の体を健やかにするという、素晴らしい愛情にあふれた行いであったにもかかわらず、指導者たちは律法違反だと腹を立て、イエスを殺そうとしました。彼らは聖書の専門家です。モーセの十戒にはっきりと「人を殺してはならない。」と書いてあるのに、イエスを律法の違反者だと主張して殺そうとしているのです。ここが人間の怖いところです。でも、これはユダヤ人指導者たちだけの問題ではありません、私たちも同じ過ちを犯す危険性はあります。聖書の中には、神様の御心が書かれています。神を信じる者はこのように生きるべきだという教えがたくさんあります。しかし、神様の教えは、自分のために書かれているのであって、周りの人のために書かれているのではありません。自分を戒めるために、自分の生き方を見直すために、読むべきものであって、他人を裁くためにあるのではありません。しかし、誰でも、人は自分に甘くて他人に厳しいです。自分には例外を認めておきながら、他人には例外を認めようとしないものです。私たちは、聖書を知れば知るほど、律法的になる危険性、ユダヤ教指導者たちのようになる危険性があることをいつも注意しておかなければなりません。それで、主イエスは結論のように、言われたのが24節の言葉です。「うわべで人をさばかないで、正しい裁きを行いなさい。」正しいさばきとは、自分には厳しい目で見て、他の人には愛をもって見るということです。私たちは、他の人のうわべしか見えないので、他の人に対して正しい裁きをすることが本当に難しいです。主イエスは、私たちを裁くために来られたのではなく、私たちを赦すためにこられたのです。私たちは、神様が赦しておられる人をさばく資格などありません。私たちは、互いに、愛し合い、赦し合い、神様の愛を分かち合っていくことが大切です。

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