2020年10月4日 『渇いている人は来て飲みなさい』(ヨハネ7章36~52節) | 説教      

2020年10月4日 『渇いている人は来て飲みなさい』(ヨハネ7章36~52節)

 ユダヤ教の秋の祭り「仮庵の祭り」の間、主イエスが神殿に突然現れたことによって、主イエスとユダヤ教指導者たちの間の対立がいっそう明らかになりました。主イエスが、何度も繰り返して「わたしは父なる神から遣わされたメシアである」と主張しても、彼らは、イエスを信じることなく、イエスを神を冒涜する者だとして殺そうとしていました。そんな中、仮庵の祭りの終わりの日に次のようなことがありました。「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」仮庵の祭りの最後の日は、それまでとは違って特別な儀式が行われました。祭りのクライマックスです。イエスが立ち上がって大きな声で説教されたのは、今から語ることは大切なことだということを示しています。ユダヤ教の教師はラビと呼ばれていましたが、ラビが人々に神の教えを語る時は、いつも座って教えていました。従って、大きな声で話されたことと立って話されたこと、この2つが、イエスの言葉の重要性を示しているのです。
(1)主イエスの招きの言葉
 仮庵の祭りは、1週間の間、人々は木々の枝やなつめやしの枝を使って小屋のようなものを造って、そこで過ごしました。その小屋のようなものを仮庵と呼びました。それは、昔、イスラエルの民が、エジプトを脱出した後、荒野を旅した時の苦労を思い出すためのものでした。このように、仮庵の祭りの中心は、仮庵で1週間を過ごすことでしたが、祭りの最後の日には荘厳な集会が開かれ、1頭の雄牛、1頭の雌羊、7頭の小羊が捧げられました。これが、37節で言われている「祭りの終わりの大いなる日」でした。ここで、主イエスは水について語っておられますが、実は、仮庵の祭りでは、水の儀式も行われていました。この儀式については旧約聖書には何も書かれていませんが、バビロン捕囚から戻って来た時から始まった伝統だと考えられています。この儀式は、イスラエルの民の先祖が荒野を旅していた時に、神様によって奇跡的に水が与えられたことを記念するためのものでした。祭りの期間中、大祭司は、エルサレムの町の南にあったシロアムと呼ばれた池から水を汲んできて、行列を作って神殿まで運びました。そして、神殿の南にあった「水の門」というところに来るとラッパが吹き鳴らされ、イザヤ書12章3節の言葉が読み上げられました。それは「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。」という言葉でした。そして、水が神殿に到着すると、神殿の聖歌隊が詩篇の113篇から118篇のいずれかを歌います。そして、祭司が祭壇の周りをまわり、運んできた水を神様への捧げものとして祭壇に注いだのです。このような儀式が行われている時に、主イエスは37節の言葉を言われました。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」仮庵の祭りの水の儀式は、イスラエルの民の先祖が荒野を旅していた時に神様に助けられたことを記念するためのものでした。彼らは荒野を旅する間、何度ものどが渇いて死にそうになりました。しかし、その都度、神様は、奇跡を用いて水を彼らに与えて、彼らの命を守ってくださいました。そういう訳で、祭りの水は、人の体の渇きをいやすための水を表していましたが、主イエスは、ここでは、一時的にのどの渇きを癒す水ではなく、心の渇きを満たす、霊的な水、いのちを与える永遠の水について語られ、その水を求める人々に向かって、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われました。主イエスの言葉は、非常に短いですが、この言葉の中に、福音のすべてが含まれています。第一に、主イエスは「だれでも渇いているなら」と言われました。のどが渇いていないと人は水を飲みません。人は体調が悪くないと医者に診てもらいに行かないのと同じように、魂の渇きに気づかない人には、主イエスの招きの言葉は何の意味もありません。人は、自分には主イエスが必要だという飢え渇きを感じない限り、イエスの言葉に心が向きません。言い換えると、人は、自分が神の前に罪人であり、その罪によって神の裁きを受けることに気が付いていないと、主イエスに対する渇きを感じないのです。信仰の第一歩は、自分が罪人であることに気づくことです。次に、主イエスは「わたしのもとに来なさい」と言われました。もし、自分が神の前に罪人だと気づいたなら、主イエスのところに行かなければなりません。というのは、聖書がはっきり示しているように、「人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっているからです。」(へブル9章27節)そのさばきとは、永遠に神から引き離されて滅びに陥るという恐ろしいものです。のどが渇いたら水のある場所をみつけなければなりませんが、同じように、魂の渇きを持つ人は、生ける水を与える主イエスの所に来なければなりません。私たちの罪を赦して、永遠の滅びから救い出すことができるのは、主イエス・キリスト以外、誰もいません。そして、3番目にイエスは「わたしのもとに来るだけではなく、飲みなさい」と言われました。イエスのもとに来る人は大勢いました。しかし、水を飲まない人が多いのです。ある時、主イエスのもとに、まじめで前途有望な若者が来ました。彼はイエスに「どうずれば永遠のいのちを得ることができますか。」と非常に大切な質問をしました。彼は、永遠のいのちを持っているという確信がなかったので、確信を得るためにイエスのところに来たのですが、結局は、イエスの言葉を聞いて、顔を曇らせ悲しみながら立ち去りました。彼は、イエスの所に来ることは来たのですが、最後のイエスから水を飲むということができなかったのです。イエスが与える水を飲むとは、イエスの教えを聞いて、イエスが教える人生を自分も生きたいと願って、イエスを信頼する信仰を持って、イエスを救い主と受け入れる決心をすることです。この水は、すべての人に対して、善い人にも悪い人にも、ただで飲めるように提供されています。「どうぞご自由にお飲みください。」と書かれているようなものです。私たちは、イエスを見ているだけではだめです。それを自分の心の中に迎え入れない限り、私たちの渇きは満たされません。イエスが、私たちの魂の渇きをいやす力を持つ方であり、罪を赦す方であり、心に平安を与えてくださる方であると信じて飛び込むこと、これがイエスを信じることなのです。
 その時、主イエスが約束しておられるように、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」のです。主イエスを信じる時に、主イエスが私たちのうちに入ってくださいます。今まで、一人で生きていたわたしたちは神様とともに生きるようになるのです。愛し合う二人が結婚して二人での生活を始めると、それまでの独身時代の生活とは大きく変わります。愛し愛される二人が一緒にいる喜びや安心感が心を満たします。それと同じように、主イエスと一緒に新しい生活を始める時に、不思議な喜びや安心感が生まれます。それが、心の渇きをいやすのです。そして、イエスが与える水は、その人の心の渇きをいやすだけでなく、その人のうちから外に向かって流れ出るようになると主イエスは約束されました。主イエスは霊的な水を与え続けてくださるので、その水は私たちのうちにとどまることはできずに、私たちの中からあふれ出るようになります。そのあふれ出た水は、私たちのまわりにいる人々の心の渇きをいやすのです。主イエスは、ここで、「生ける水の川が流れ出るようになる」と言われましたが、この「生ける水の川」は1本の川ではなく、たくさんの川と言われています。一人の人の心に主イエスが入られると、その人のうちからたくさんの神の愛や神の慰めが周囲にいる人々に向かって流れ出るのです。クリスチャンは、自分が主イエスを信じて、心が満たされて平安な心を持つことができたと、それだけで満足してはならないのです。自分が神様から受けた多くの恵みを、今度は、周囲の人々にその恵みを与えていく者にならなければなりません。先日、朝の祈り会の中で、日本福音同盟が主催した講演会を見ました。主題講演のタイトルは「コロナウィルス禍の教会にとっての宣教の課題と可能性」というものでしたが、その中で講師の先生が、コロナ時代にクリスチャンはどのように生きるべきかということで3つのことを教えてくださいました。①私たちは人々に慰めを与える存在として生きる。②私たちは、答えられることを信じて、人々のためにとりなしの祈りを捧げる者として生きる。③私たちは、行動を通して、人々に神の愛を示す者として生きる。この生き方こそ、イエスの生ける水が私たちのうちからあふれ出る人生ではないでしょうか。
(2)人々の様々な反応 
 主イエスは、祭りの最後の日に大きな声で人々に向かってメッセージを語られたのですが、聞いた人々は様々な反応を示しました。ある人々は、「この方は確かにあの預言者だ」と言い、別の人たちは「この方はキリストだ。」と言っています。あの預言者とは旧約聖書が預言している救い主キリストの意味です。この人たちは、主イエスの言葉を聞いてこのように言いました。街中でイエスについて人々が噂している言葉を聞いたり、どこかの先生の言葉を聞いて判断したのではなく、自分で直接イエスの言葉を聞いて判断しています。ここはとても大事なところで、今日でも、イエスについて、聖書から直接イエスのことを知るのではなく、この世の評判とか誰かの言葉を聞いて判断する人が多いのですが、世の中の人々の考えは間違っていることが多いので、直接イエスの言葉を聞かなければなりません。多くの人は、イエスの言葉を聞いて、この方こそ約束の救い主だと思いました。ところが、人間は、皆、何らかの先入観や偏見を持っていますので、そのような目でイエスを見る人々もいました。41,42節では、ある人が、イエスがナザレで育ったということでキリストではないと判断しています。「キリストはガリラヤから出るだろうか。」ガリラヤ地方はエルサレムと違って外国人も住んでいたので、エルサレムの人々から軽蔑されていました。彼らは旧約聖書の預言を知っていたので、救い主はベツレヘムで生まれることも知っていました。彼らの言葉は正しいのですが、彼らはイエスがベツレヘムで生まれたことを知らなかったのです。彼らは、イエスがナザレで育ったという知識だけで判断して、イエスがどこで生まれたのかを調べなかったために、イエスが救い主であると信じることができませんでした。彼らのように、偏見やちょっとした知識だけで判断すると、間違った判断になってしまいます。彼らも間違っていましたが、もっとひどい人々もいました。それが祭司長やパリサイ人たちなど、ユダヤ教の専門家たちでした。彼らはイエスを捕らえるために神殿の警備担当者を送っていましたが、彼はイエスを捕らえずに戻ってきました。彼らはこう答えています。「これまで、あの人のように話した人はいません。」彼らは自分たちで見聞きした事実に基づいてそのような報告をしたのですが、それを聞いた祭司長や律法学者たちは、「お前たちまで惑わされているのか。」と彼らを罵り、挙句の果てには、49節に記されているように、「それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」とまで言っています。彼らはユダヤ教の専門家としてユダヤ人社会で権威を持っていました。その権威をつかって、下役の人々に、今で言うパワハラをしています。イエスを救い主と信じる人が増えると、ユダヤ教の人が減って自分たちの権威が下がってしまいます。彼らはそれを恐れて、自分たちの権威を振りかざして、人々がイエスを信じないように押さえつけようとしていました。彼らにとって自分の立場と権威を守ることが第一でしたので、イエスを信じることができませんでした。しかし、そんなユダヤ教の専門家の中にも、まともな人もいました。50節にニコデモという人のことが記されています。彼は国会議員でありパリサイ人でした。しかし、彼はイエスに対する偏見を持っていませんでした。それで、彼は、仲間に向かって偏見を捨てるように言っています。51節の彼の言葉を読みましょう。「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」ニコデモは、以前、そっと、イエスに質問をしに来たことがありました。この時点で、彼がイエスをキリストと信じるはっきりした信仰は持っていなかったと思いますが、彼には、正しい判断をする心がありました。しかし、ニコデモの言葉に対して、他の専門家たちは、彼らの偏見によって、イエスが救い主でないと頑固に主張しています。
 結局、私たちは主イエスが与える水を飲まない限り、つまりイエスを信じない限り、人はたとえ全世界を手に入れたとしても、主イエスのもとに来て、主イエスを信じない限り、永遠のいのちを持つことができません。主イエスを信じる時、主イエスご自身が私たちのうちに宿ってくださいます。黙示録3章20節を読みましょう。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく、だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」主イエスを信じるとき、主イエスは私たちの心の中に入ってくださると約束しておられます。もはやあなたは一人で生きるのではなく、主イエスがあなたとともに生きてくださるのです。そして、私たちが人生でいろいろな困難や必要を経験するときに、それを乗り越えるのに必要な力を与えてくださるのです。私たちは、どこにいても、どんなときにも主イエスが与えてくださる生ける水を受け取ることができます。その時、私たちは、自分のうちにない力を経験することができるのです。
 第二次世界大戦の時、オランダにコリー・テン・ブームという女性がいました。彼女の家族は自分の家にユダヤ人をかくまったという罪でナチスにつかまり、ドイツの収容所に送られました。収容所での看守のひどい仕打ちを受けて、彼女の父親と姉は収容所でなくなりました。姉は敬虔なクリスチャンで、自分がどんなひどい仕打ちを受けても、妹のコリーに人を恨んではいけないと諭していました。コリーは事務手続きの間違いで収容所から出ることが赦されました。やがて戦争が終わりました。戦後、ドイツの教会は荒れ果てており、ドイツ人は心のすさんだ生活をしていました。姉の言葉を思い出して、彼女は、壊滅的になっていたドイツの教会をサポートするための活動を始めました。彼女はドイツ各地の教会を訪れて、罪の赦しと和解のメッセージを語りました。ある時、彼女はミュンヘンの教会で、いつものように赦しと和解のメッセージを語りました。集会が終わると、一人の男性が彼女に近づいてきました。彼女はその男性を見て凍り付きました。その男性は、収容所で自分たちの家族にひどい仕打ちをした看守だったのです。相手はコリーのことを覚えていません。男性は笑顔で近づき、彼女に言いました。「今日の赦しと和解のメッセージありがとうございました。私も、以前大きな罪を犯していましたが、神様の前に悔い改めて赦しをいただきました。今日のメッセージありがとうございました。」そう言って彼はコリーに握手を求めて手を差し出しました。彼女は自分が何をしなければならないか良く分かっていましたが、手が出ませんでした。戦時中の悲惨な思い出がよみがえってきました。1秒が何時間にも思えるほどの瞬間でしたが、彼女は心の中で必死に祈りました。「神様助けてください。どうか自分が語ったとおりの生き方ができますように。」すると心の中に、不思議な平安が与えられ、彼女は笑顔で彼に向かって手を差し出すことができました。これは、彼女の力ではありません。主イエスがともにおられて、彼女を助けてくださったのです。主イエスを信じるとき、私たちが自分では絶対にできないことでも、主イエスが助けてくださって、それを乗り越える力を与えてくださいます。主イエスは言われました。「だれても、渇いている人は、わたしのところに来てわたしから飲みなさい。」あなたにも、この招きの言葉は語られています。あなたはどのように応答するでしょうか?

2020年10月
« 9月   11月 »
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

CATEGORIES

  • 礼拝説教