2020年10月11日 『罪のない人から石を投げよ』(ヨハネ8章1~11節) | 説教      

2020年10月11日 『罪のない人から石を投げよ』(ヨハネ8章1~11節)

 今日の箇所は、非常に有名な箇所なのですが、聖書を見ると分かるように、実は、この部分は新約聖書の有力な写本の多くには含まれていないので、『』の中に入れられています。この部分がヨハネの福音書にもともと含まれていたのかどうかが問題にされているのですが、8章の12節以降の流れを考える時に、ここで、この出来事が起きたと考えるのが自然だと考えられます。姦淫の現場を捕らえられて神殿にいたイエスのところに連れて来られたというショッキングな出来事から、その後の主イエスの説教が続いています。その説教の内容は、自分が闇の中で輝く光だと言われたこと、それに続いて、正しいさばきと偽りのさばきについて語られたこと、そして8章の最後は、主イエスがユダヤ教の指導者たちから石を投げられそうになるところで終わっていることなどを考えると、8章の最初の部分に姦淫の現場で捕らえられた女性の出来事が含まれていることは自然なことだと思います。7章では仮庵の祭りの時の出来事が記されていましたが、その後、8章に入って、主イエスは再びエルサレムの神殿に来られました。すると、多くの人が主イエスの教えを聞こうとしてイエスの近くに集まって来ました。特に、主は自分が神殿に来ることを人々に知らせた訳ではありませんでしたが、イエスの教えには人々を引き付ける力がありました。イエスはユダヤ教の教師らしく、腰を下ろして人々に教え始めました。

 すると、突然、主イエスの教えに邪魔が入りました。律法学者とパリサイ人たちが、姦淫の現場で捕らえられた女を連れてきて、神殿の広場の真ん中に立たせたのです。群衆は何事が起きたのかとびっくりしました。彼らは、突然どやどやとやって来くると、イエスの教えを聞いていた人々を追いやって、イエスの目の前に女を立たせて、イエス向かって言いました。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女は石打ちにするように私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」確かに、モーセの十戒の7番目の戒めは「姦淫してはならない。」ですし、レビ記の20章10節には、「人が他人の妻と姦淫したなら、すなわち自分の隣人の妻と姦淫したなら、その姦淫した男も女も必ず殺されなければならない。」と書かれています。主イエスご自身も十戒の「姦淫をしてはならない」という教えについて、実際に姦淫をすることはもちろん、情欲の目で人を見ることもいけないと教えておられます。したがって、律法学者とパリサイ人たちの訴えは正しい訴えでした。しかし、彼らがこの女性を訴えるやり方を見ると、彼らの行動には別の動機があることがまる見えです。まず、第一に、レビ記20章10節の言葉がはっきりと述べていますが、姦淫という罪は一人でできる罪ではありません。二人の人間、男と女が犯す罪です。しかし、彼らは、女だけを訴えています。相手の男はどこに行ったのでしょうか。彼らは、二人の姦淫の現場で捕らえたと言っていますから、二人とも捕まえたはずです。律法は、姦淫した男も女も殺されなければならないと教えているのに、なぜ、彼らは相手の男を連れて来なかったのでしょうか。しかも、もし、彼らが、本当に、この姦淫という罪について正しい裁きを行いたいと思っているなら、なぜ、女をイエスのところに連れて来たのでしょうか。イエスは人々から裁判官とは見られていませんでした。当時のユダヤではサンヘドリンと呼ばれた国会議員が裁判も行っていました。姦淫の現場で捕らえられた二人の罪は明らかです。彼らは、その裁判についてユダヤ教の教師として見なされていたイエスに相談する必要はまったくありません。彼らは自分たちで彼女を裁くことはできたはずです。それなのに、なぜ、彼らはこの女性をイエスのところに連れて来たのでしょうか。彼らの魂胆は明らかです。彼らは、イエスを罠にはめるために、この女性を利用しているだけなのです。彼らにとっては、この件ついて正しい裁きが行われるかどうかはどうでもよいことで、彼らは、この件を利用して何とかイエスを訴える口実を見つけようとしていました。そもそも、姦淫の現場を捕らえるということ自体、普通はありえないことです。誰も、人が不倫を行う時に、あえて、他の人に知らせることはありません。まして、宗教の専門家であり裁判官でもあるような人に知らせることなど絶対にありえないことです。これは、最初から仕組まれた陰謀だったと思われます。もちろん、この女性が罪深い生活をしていたことは間違いないですが、今回の件では、うまくだまされて利用されただけです。相手の男と組んで、この女性と不倫をするように仕向けて、そして、現場を捕らえて、相手の男を逃がしていたのです。律法学者やパリサイ人は少なくとも宗教家です。人が大きな罪を犯したなら、その人が二度と同じ罪を犯すことがないように指導し、その人が新しい生き方を始めるようにサポートするのが彼らの務めです。今でも、犯罪を犯した人を社会に復帰させるために尊い働きをしている人々がいます。ところが、彼らは女性の将来のことなど全く無関心で、ただ、イエスを罠にはめることだけしか頭にありませんでした。かわいそうなことに、何も知らないその女性は、彼らによって、神殿の広場の真ん中に立たされて、大勢の人々の前でさらし者になりました。彼らは、この女を石打ちにするのかしないのかと迫ることで、イエスがどちらに答えても、イエスを不利な状況に陥れることができると考えていました。もし、イエスが石打ちにすることに反対すれば、イエスがモーセの律法に違反したと訴えることができます。一方、もし、イエスが石打ちにしなさいと言ったら、これまで罪人に深い同情と憐みを示してきたイエスの評判がくずれるでしょう。さらには、当時は、ローマ帝国の支配を受けていたユダヤ人には、死刑を執行することは認められていなかったので、彼らは主イエスをローマ帝国の命令に違反したと訴えることもできました。彼らは、女性がどうなろうとまったく無関心で、ただ、イエスがどんな答えをするのか、それだけに興味を持っていました。そのために、7節にかかれているように、彼らは、必死になってイエスに「この女を石打ちにするのかしないのか」と問い続けてました。

 律法学者やパリサイ人たちの悪意に満ちた質問に対して主イエスはどのように答えられたのでしょうか。6節を見ると、イエスは、周りで律法学者やパリサイ人たちがしつこく「この女をどうするのだ?」と問い続けている間、身をかがめて地面に指で何かを書いておられました。何を書いていたのか聖書に書かれていないので、分かりません。いろいろ推測する人がいますが、彼が何を書いていたのか確実なことは分かりません。主は平然と地面に何かを書き続けていて、彼らの質問に答えようとしませんでした。当然、主イエスは彼らの魂胆を見抜いておられましたから、まったく意味のない質問に答える必要はないと判断しておられました。イエスが何も答えないのを見て、彼らはイエスが答えられずに困っていると思ったようで、なお一層うるさく、「この女をどうするのだ」とイエスに迫りました。そこで、イエスは立ち上がって言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そう言うと、イエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられました。主の答えには深い意味が込められています。第一に、主は、この女性が姦淫したことを否定しておられません。主は、聖なる神であり正義の神ですから、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると裁かれます。また、「この女に石を投げてよい」と言われましたが、このように言うことによって、主はモーセの律法を守る姿勢を示されました。ただし、そこに一つの厳しい条件が付けられていました。それは、「罪のない者」がこの人に石を投げる資格があると言われたのです。人を裁く資格を持っているのは罪のない人です。自分の中に罪があるのに、人を裁く資格はありません。ところが実際には、私たちは、自分のことを棚に上げて、他の人を裁くことが多いのが現実です。また、このように言うことによって、主は、ローマ帝国からの批判も避けることができました。当時、ユダヤを支配していたローマ帝国は、ユダヤ人に死刑の宣告、死刑を執行することを認めていませんでした。主イエスが十字架に掛けられるときも、ユダヤ教の指導者たちは、ローマ総督ピラトによって死刑の決定をしてもらう必要がありました。この時、イエスは、自分がこの女性の死刑を執行するのではなく、死刑を執行することを自分には罪がないと思って女性に石を投げる人の責任にされました。申命記17章7節に「死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、それから民全員が手を下す。」と記されていますので、最初に石を投げるのは実際にその罪の場面を目撃した人と決められていました。そして、結果的に、主イエスは、この女性のいのちを救うことになりました。主イエスの言葉は、女性の罪を軽く見ているわけではありません。また、律法の要求を無視しているわけでもありません。ただ、彼女を訴えていた律法学者とパリサイ人たちの隠れた動機を見抜いて、彼らが彼女をさばいて、死刑を執行するのにふさわしくないことを明らかにされました。そして、女性のいのちを守られたのです。

 主イエスの言葉を聞いて律法学者やパリサイ人たちはびっくりしました。「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われたからです。そして、彼らは、一人一人、この場から立ち去って行きました。ある写本には、「彼らは良心の呵責を感じて」という文章が付け加えられています。彼らは、聖書の専門家として、いくらかの良心は残っていたのでしょう。自分のやってきたことを考えると、改めて主イエスから「罪のない者から」と言われた時に、自分には石を投げる資格がないことに気が付いたのだと思います。しかも、「年長者たちから始まって」と書かれています。その理由は説明されていませんが、年長者のほうが若い人よりも人生経験が長い分だけ、自分のことが良く分かっていて、神に向かって堂々と「自分には罪はない」と言えなかったからではないでしょうか。彼らは、イエスを罠にはめて恥をかかせるために入念に計画を立てて、姦淫の現場からこの女性を連れてイエスの所に来たのですが、結局は、自分たちが恥をかいて、その場を立ち去ることになりました。

 姦淫の現場で捕らえた女性を訴えていた律法学者もパリサイ人も、皆、立ち去って行きました。神殿の広場には主イエスとその女性だけが残りました。彼女は、神殿に連れて来られた時から、誰からも声をかけられることもなく、ずっと一人で立たされていました。二人っきりになったときに、はじめて、主イエスが彼女に話しかけられました。「女の人よ。彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」イエスは彼女に「女の人よ」と呼び掛けていますが、これは、主イエスが、母親マリヤやマグダラのマリヤに呼び掛けたときと同じ言葉で、女性に対して敬意を表す呼び方です。相手は、不倫の現場で捕らえられた女性です。周囲の人々からいつも後ろ指をさされるようなひとでしたが、主イエスは彼女を一人の人間として扱われました。彼女が、自分を訴えていた者たちは全員立ち去ったと言うと、主イエスが言われました。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」主イエスは、この女性の罪を大目に見ているのでも見逃しているのでもありません。彼女が犯したことは大きな罪であることをはっきりと言っておられます。ただ、主イエスは彼女の罪を裁くことをしませんでした。この場面で、彼女に石を投げることができたのは、主イエスだけでした。律法学者やパリサイ人たちも皆、彼女に石を投げる資格はありませんでした。しかし、罪のない主イエスには石を投げる資格がありましたが、そのイエスが「わたしもあなたに裁きをくださない。」と言われたのです。人を裁く資格のない人間は他の人の罪を裁こうとします。しかし、人を裁く資格を持っておられる主イエスは人を裁かないのです。なぜ、主イエスがこの女性を裁かなかったのでしょうか。それは、主イエスが、この女性の罪を自分が代わりにかぶって彼女が受けるべき刑罰を十字架で受けてくださるからです。主イエスは、このことを、この女性一人だけに行われるのではなく、私たち、すべての人間に、同じようにしてくださるのです。そして、主イエスは、その罪を犯した女性に対して、これまでとは違う新しい生き方をするチャンスを与えられました。そのような意味で、主は「これからは決して罪を犯してはなりません」と言われたのです。この女性が新しい生き方をするために必要なことは、まず自分には罪があることを正直に認めることです。池袋で死亡事故を起こした人は、明らかな証拠があるにも関わらず、自分の罪を認めていません。人間はどんなに頭が良くても、上級国民であっても、なかなか自分の罪を認めようとしません。しかし、神の目には、私たち人間は、皆、罪びとなのです。そのことを正直に認めることが新しい人生への第一歩です。そして、次に自分の罪を悔い改めることです。悔い改めを表すギリシャ語はUターンするという意味を持っています。悔い改めとは、自分の意思で、これまでとは違う生き方をすると決断することです。女性は、自分を訴える者が皆立ち去ったときに、イエスから逃げ出すこともできましたが、そこにとどまっていたのは、主イエスの愛と憐みを知って、自分のこれまでの生き方がどれほど愚かであったかということに気づいて、主イエスが言ったように、新しい人生を行きたいという強い思いがあったからではないでしょうか。

 律法学者やパリサイ人たちは、イエスを罠にはめるために、密かに手はずを整えて、この女性と男の間が不倫に陥るように仕向けたうえで、不倫の現場に乗り込んでこの女性をイエスのもとに連れて来ました。宗教家としてあるまじき行為です。人が罪に陥ったら、そこから立ち直るための道を開くのが彼らの務めのはずなのに、イエスに対する妬みや憎しみから、こんなひどいことをしたのです。姦淫の罪を犯した女性も罪人ですが、彼らは宗教家として、より大きな罪を犯したと言えます。しかし、罪を犯すのは彼らだけでなく私たちも同じです。ひどい犯罪が起こったときに、私たちは、犯人は何という極悪人だろうと怒りを感じます。しかし、私たちにも、ちょっとした物事の狂いから、罪を犯す可能性はいくらでもあるのです。人を裁く資格を持っているのは罪のない主イエスお一人です。その主イエスは、私たちの罪をいい加減に見逃すことはありませんが、十字架の上で私たちの罪をすべて背負って、私たちの罪の罰を身代わりとなって受けてくださいました。そのことによって、私たちの罪は赦され、刑罰を受けなくてもよいようになりました。十字架には私たちに対する主イエスの愛が示されています。「人が友のために命を捨てる、これより大きな愛はありません。」と主は言われました。そのイエスの愛は、私たちにも注がれています。この女性を許された主イエスは、同じように私たちをも許してくださいます。主イエスはあなたのために、自分のいのちを捨てられたのです。それは、私たちが主イエスの愛と赦しを受けて新しい生活を始めるためなのです。

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