2020年11月1日 『真理はあなたを自由にする』(ヨハネ8章31-40節) | 説教      

2020年11月1日 『真理はあなたを自由にする』(ヨハネ8章31-40節)

ヨハネの福音書の7章、8章では、ずっと、主イエスとユダヤ教指導者たちと論争が続いています。その論争の中で、主イエスは「わたしは世の光です」と言われましたが、これは、言い方を変えると、イエスに反対していたユダヤ教の指導者たちを含めて、主イエスを信じない人は闇の中にいるということを意味していました。また、21節から30節の箇所では、主イエスを信じない者は自分の罪の中で死ぬことになると言われました。そして、さらに進んで、今日の箇所では、主イエスは罪の中に生きている人は罪の奴隷であると言われました。主イエスは「奴隷」という言葉を使われましたが、もちろん、これは、私たちの魂の問題、霊的な奴隷状態を意味していたのですが、この言葉を聞いたユダヤ教指導者たちは、完全にその意味を誤解して、自分たちが誰かの奴隷になっていると指摘されたと思いました。人は、誰でも、「あなたは奴隷です。」と言われたら、否定します。誰も、誰かの奴隷になって生きて行きたいと思う人などいません。特に、ユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた特別な人間だというプライドを持っていましたので、彼らはイエスの言葉に激しい怒りを覚えました。それで、彼らはイエスに答えて言いました「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。」確かに、彼らはイエスの言葉を誤解していますが、それだけでなく、彼らの言葉は真実ではありませんでした。旧約聖書を読むとわかりますが、旧約聖書時代のイスラエルの民は、モーセの時代にエジプトにいた時も、バビロンに征服されてバビロンに無理やり連れて行かれた時も、その後、アレキサンダー大王の時代、その後のギリシャによる征服の時代、そして、イエスの時はローマ帝国の支配を受けていて、実は、彼らの歴史のほとんどの時代は誰かの奴隷になっていました。ただ、ユダヤ人はそれを絶対に認めようとしなかったのです。彼らは、歴史の中で自分たちに実際に起こった出来事が嫌でたまらなかったので、心の中で誓いの言葉のようにして言っていました。「歴史はそう言うかもしれない、他の人がそう言うかもしれない、しかし、俺たちは絶対に奴隷なんかではない。」彼らは奴隷という言葉に対して他の民族以上に敏感だったので、このイエスの言葉は、許しがたいものだったのです。

(1)奴隷状態とは
 前回の説教では、光と闇という対立が語られましたが、今日は自由と奴隷という対立が語られています。だれもが自由という言葉を好みます。フランスの国旗は赤青白の三色の旗ですが、これは、フランス革命の時のスローガンであった「自由・平等・博愛」を表しています。今でも、多くの国で人々は自由を求めて戦っています。他の国と比べると、今の日本は自由な国です。菅首相の悪口を言っても捕まって牢屋に入れられることはありませんし、貧しい家庭に生まれたとしても、本人が努力すれば、良い生活を手に入れることができます。最近、香港は中国からの締め付けが強くなっていますが、日本語が上手な若い活動家の周庭さんが、日本のテレビカメラに向かって叫んでいた言葉が印象的でした。「日本は本当に自由な国です。日本の皆さんは自分の国が自由であることを知ってください。」確かに、日本は自由な国です。ただ、今日の箇所で主イエスが言われた自由は、社会的な自由のことではなく、私たちの心の中の自由です。多くの人は、自分がやりたいことを誰にも邪魔されずにできることが自由だと考えています。しかし、それが本当の自由でしょうか。主イエスが語られた有名なたとえ話の「放蕩息子」は、お父さんがまだ生きているのに自分がもらえる遺産をもらって、家を出て遠くの都会に行きました。これは、放蕩息子が考えていた最高の自由でした。ところが都会に出て遊んでいるうちに、あっと言う間にお父さんからもらった遺産はなくなり食べるものにも困るようになってしまいました。なぜ、こうなったのでしょうか。彼が自由だと思っていた生き方は、実は、欲望の奴隷の生き方だったのです。彼は欲望に縛られていたので、欲望を抑えることができませんでした。よく考えてみると、私たちは、無意識のうちにいろいろなものに縛られています。他人のうわさや評判に縛れている人、お金に縛られている人、プライドや見栄に支配されている人、自分の過去の傷に縛られている人、将来の不安に縛られている人、などなどです。しかし、人は、自分が何かに束縛されていることに気が付きませんから、自分が奴隷であるとは思っていません。しかし、主イエスは34節で言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな罪の奴隷です。」ここで、「罪を行っている」と訳されている箇所は、詳しく訳すと、「習慣的に罪を犯している」という意味で、一回何かの罪を犯したという意味ではありません。つまり、主イエスを救い主と信じていない人々を表しています。クリスチャンでも罪は犯しますが、クリスチャンは自分の罪を意識していますし、罪を犯したことに気づいたら、悔い改めます。しかし信じていない人は自分に罪があることも意識していませんので、自分が罪の奴隷になっていることにも気が付いていません。罪の奴隷なっている人は、罪にコントロールされているために、自分でしなければならないと分かっていることができなかったり、逆に、してはならないとわかっていることを行ってしまいます。これが罪の奴隷という意味です。

(2)自由への道
 それでは、この霊的な奴隷状態、束縛状態から、どのようにして私たちは自由になることができるのでしょうか。その方法について主イエスは31節で次のように言われました。『』の中の主イエスの言葉を読みましょう。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」主イエスの答えは、「み言葉、聖書にしるされた神の言葉にとどまる」というものです。み言葉にとどまるということには2つのことがあると思います。一つは、み言葉を学ぶことであり、もう一つは、み言葉に従うことです。み言葉にとどまるときに、人は3つのステップを通して、奴隷状態から自由な状態に変わると教えておられます。その第一のステップはみ言葉にとどまることによって私たちは主イエスの本当の弟子になることです。31節でイエスが使われた「弟子」という言葉は、元々「学ぶ者」という意味を持っていました。したがって、み言葉にとどまることは、私たちがみ言葉から学ぼうという姿勢を持つことを意味します。それがイエスの弟子という意味なのです。主イエスは、マタイの福音書の7章21節で、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる父のみこころを行う者が入るのです。」と言われました。主イエスの言葉から分かることは、イエス・キリストを「私の主」と告白している人の中には、口先だけで告白している人と、本当に心から告白している人がいることが分かります。何がそれを見分けるのかというと、その人が父なる神の御心を行っているかどうかということです。このイエスの言葉からも、み言葉にとどまるとは、み言葉を学ぶことと、み言葉に従うことの両方が含まれることが分かります。この二つがそろって、はじめて、私たちは主イエスの弟子と言うことができるのです。
 第二に、み言葉にとどまるときに、私たちは真理を知ります。真理とは何かというのは、人間の歴史を通じて人々が考え続けて来たことです。まじめな人ほど真理を追究します。この宇宙は何なのか、人間とは何なのか、生きるとは何なのか、また、いろいろな学問における真理を、人間は追及し続けてきました。しかし、まだ誰もこれが真理だとすべての人にはっきり分かるかたちで解明することができていません。ただ、このような真理の探究は、人間が自分に納得できるように自分たちの知恵や経験から考え出そうとしている行為です。一方、主イエスが言われた有名な言葉に、「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」という言葉があります。人間は、優秀な学者や哲学者は、道を求め、真理をもとめ、いのちを求めています。それらについて考え、それらについて語ります。しかし、主イエスは、自分は道を知っているとか、真理を極めたとか、いのちの意味を知ったと言われたのではなく、「自分が道である。自分が真理である。自分がいのちである。」と言われたのです。もし、イエスが神でないのに、こんなことを言えばイエスは気が狂っているとしか思えません。従って、真理を知るというのは、すなわち、主イエスを知るということです。主イエスがどんなお方であり、主イエスの言葉を聞いて救い主として受け入れることによって、主イエスと個人的な関係に入ることを意味します。主イエスを知ることによって私たちは自分が誰なのか、どこから来たのか、なぜ生きているのか、そのような誰もが悩む問題にはっきりとした答えを持ちます。進化論では、私たちは自分がなぜ生きているのか答えはありません。進化論は日本では絶対的真理のように言われていますが、理論と実際の発見とが合わないことがあまりも多くて多くの学者が否定しています。進化論ではすべてが偶然に起きているので、わたしたちのいのちも偶然で、特に生きている意味はありません。しかし、私たちは、イエスを知って、自分たちが神によって造られた尊い命であることを知り、また、自分たちを束縛している罪から解放するために、主イエスがいのちを捨ててくださったころを知り、それによって、自分が誰か、何のために生きるのか、自分は神に愛されていること、肉体は死んでも永遠のいのちがあることなどを知ります。そして、イエスを知って初めて、私たちは、いのちが与えられこの世に生きていることを本当に感謝できる人になるのです。
 第三に、その真理を知ることが私たちを自由にします。自由という言葉は二つの漢字から出来ています。自分の自と理由の由が組み合わさっていますが、辞書を見ると、自分が行うことはすべて自分を理由にするという意味で、言い換えると、自分が行うこと、自分が決断することは、すべて自分が責任を負うという意味です。しかし、さきほども述べたように、多くの人は、自分がやりたいことを自分の好きなようにできる状態を自由だと考えていますが、実は、これは自分のわがままや自分の欲望などによって支配されていることを表しています。ですから、これらの人々は、自分がやりたいことを制限されると怒ったり、ふてくされたり、落ち込んだりします。彼らは、自分の要求が満たされない限り平安や喜びを感じることはできません。これこそ本当に不自由な状況です。本当に自由であるなら、あることをやりたいと思った時に、やることができてもやることができなくても、同じように心が平安であるはずなのです。このように罪は、私たちを本当に不自由にします。それが罪の奴隷の状態です。主イエスがこの世に来られたのは、神から離れて自分の罪に縛られている人々を自由にするためでした。私たちが、自分の罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じるとき、私たちは真理そのものである方を知るのです。頭で知るのではなく、知り合いの関係になるという意味です。主イエスの愛を知り、主イエスの教えを知り、その教えに従うとき、私たちは、自己中心の罪の支配から逃れることができるのです。
 主イエスは35,36節で、もう一度自由な人と奴隷のことについて語られました。主イエスを信じる者は神のこどもになる特権があたえられます。子どもはいつまでも自分の家にいることができますし、家の中にあるものはすべて触っても使ってもかまいません。家の中のどの部屋にも自由に出入りできます。しかし、奴隷にはそのような権利は与えられていません。主イエスを信じない人は罪人です。奴隷はいつまでも主人の家にいる訳ではありませんし、主人の家の中にあるものを勝手に触ったり使ったりすることもできません。いつかは家を出される時が来ます。ユダヤ教の指導者たちは、自分たちがアブラハムの血を引いているので、神の子どもだと思い込んでいましたが、実際には、彼らは神を信じるのではなく自分の信仰心を自慢していただけでした。したがって彼らは依然として奴隷のままでした。従って、彼らは、主イエスに対する嫉妬心や憎しみの奴隷になっていたために主イエスが何を語っても受け入れることができず、イエスを殺そうという思いに駆られていました。本当の自由は、真理である主イエスが与えてくださるものです。主イエスを知る時に、正しい生き方を選ぶ自由、最善の行動を選ぶ自由、悪い行いを避ける自由が与えられます。本当の自由とは、自分の罪からの解放によって与えられるのです。修行や努力で与えられるのではsりません。
 ある人が、自分の家で飼っているペットの蛇のために小さなハツカネズミを買って来ました。彼はそのハツカネズミを蛇が入れてあったガラスのケースに入れました。蛇はふかふかの木くずの上ですやすやと眠っていました。ハツカネズミは自分が置かれた危険を感じました。蛇が目を覚ますと飲み込まれるかもしれません。その時、一つのアイデアが浮かびました。それで、ハツカネズミは蛇が見えなくなるまで蛇の上に木くずをかぶせました。一生懸命がんばって蛇は木くずに埋まってまったく見えなくなりました。その時、ハツカネズミは問題は解決したと思いました。自分の力で解決したと思いましたが、蛇はいつ目を覚ますか分かりません。目を覚ませば木くずから這い出してハツカネズミを飲み込むでしょう。ネズミの助けはケースの中にはありませんでした。外にあったのです。蛇の飼い主が、ハツカネズミが必死になって自分の身を守るのを見てかわいそうになって、ケースから取り出してくれたのです。私たちが、罪から自由になろうとして、必死になっても罪を押し込めようとしても、罪はすぐに目を覚まして私たちに襲い掛かります。私たちの助けは外から来ます。主イエスから来るのです。私たちのために自分から十字架にかかってくださった主イエスの憐みの心によって私たちは罪が赦されるだけでなく、罪の束縛から解放されるのです。それが本当の自由です。

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