2020年11月8日 『神の子と悪魔の子』(ヨハネ8章37-47節) | 説教      

2020年11月8日 『神の子と悪魔の子』(ヨハネ8章37-47節)

今日の説教のタイトルはかなり刺激的なものですが、私たちは皆、誰かの子どもとして生まれてきます。そして、どのような家庭に生まれるのかということは、自分で決めることはできませんが、それはとても大きな意味があります。信仰的に見れば、両親がクリスチャンの家庭に生まれることはとても大きな恵みだと思います。特に、日本では、普通の家庭に生まれると、イエス・キリストの福音に出会うチャンスは非常に限られていますので、クリスチャンホームの子どもであることは本当に恵まれていることです。しかし、私たちは、どんなに信仰深い先祖や両親から生まれたとしても、自分自身が先祖や両親の信仰によって生きなければ、その恵みは役に立たなくなります。最初の人間アダムとエバの家庭には、元々カインとアベルという息子がいましたが、アベルはカインに殺されてしまいました。その後、二人にはセツという男の子が生まれました。したがって、アダムとエバの子孫としては、カインの家系とセツの家系という2つの家系が並んで続いていました。創世記の4章を見ると、カインの子孫から、家畜を飼う者の先祖や楽器を奏でる先祖や道具を作る先祖たちが生まれています。しかし、その後、カインの子孫は信仰から離れてしまいます。一方、セツの子孫からはノアが生まれました。ノアの時代、地上に人の悪が増大し、人の心はいつも悪に傾くの見て、神の裁きによって、ノアの家族以外はすべて大洪水によって滅んでしまいました。今日の箇所では、ユダヤ教の指導者たちが自分たちの信仰の拠り所としてアブラハムの血を受け継いだ子孫であることを主張しています。確かに、に彼らはアブラハムのDNAは受け継いでいましたが、信仰は受け継いでいなかったことを主イエスに指摘されています。
 ユダヤ人は、自分たちが神に選ばれた民族であり、アブラハムの血を受け継いだ子孫であることを非常に誇りに思っていました。それで、先週の箇所では、主イエスが彼らに「真理はあなたがたを自由にします」と言われた時に、彼らは、「自分たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともない。」と答えています。彼らは自分たちがアブラハムの血を引く子孫なので、神の子どもになっていると思い込んでいました。主イエスがそんな彼らに反論して言われたのが37節の言葉です。37節を読みましょう。「わたしは、あなたがたが、アブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばがあなたがたのうちに入っていないからです。」主イエスは、ユダヤ人たちがアブラハムの子孫でああることによって天国に入る権利があると思い込んでいることを指摘しているのです。使徒パウロもローマ書9章7節で「アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。」と述べています。ただ単に肉体的にアブラハムの子孫だということで罪が赦されて救われることはなく、イエス・キリストを信じる信仰を持った者こそが、アブラハムの信仰を受け継いだ本当のアブラハムの子孫であるということです。アブラハムは救い主が来ることを待ち望んでいました。しかし、今イエスと論じあっているユダヤ人たちは、アブラハムが待ち望んでいた救い主を殺そうとしていました。そして、神の言葉を信じたアブラハムと違って、ユダヤ人たちにはイエスの言葉が入っていませんでした。彼らはイエスの教えを受け入れなかったのです。
 さらに、主イエスは彼らの心がかたくなな理由について語りました。それが38節の言葉です。「わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」ここで、主は霊的な世界のことを話しておられます。主は、自分は父なる神のもとから父なる神によって遣わされた者であり、父から直接聞いたこと見たことを語っていると言われました。しかし、ユダヤ人たちは主イエスの言葉を受け入れずに、自分たちの父から聞いたことを行っていると言われました。ここで主はユダヤ人の父が誰であるかは言っておられませんが、44節では、彼らが悪魔である父から出た者だと断言しておられます。アブラハムは喜んで神の命令に従いました。したがって、もし彼らが本当の意味でアブラハムの子孫であったなら、彼らは喜んでイエスの教えを受け入れたはずです。しかし、ユダヤ人たちはイエスを教えを頑固に拒否したうえに、今では、イエスを殺そうとしています。それは、彼らが神に敵対する悪魔に支配されていたからです。彼らは、自分たちはアブラハムの子どもだと思っていましたが、実際には悪魔の子どもだったのです。
 イエスの言葉は、ユダヤ人には非常に厳しい言葉でした。彼らは反論しました。「私たちの父はアブラハムです。」彼らは、自分たちは本当のアブラハムの子孫だと頑固に言い張りました。彼らはイエスの言葉を理解していませんでした。イエスが言われたのは、もし彼らが祖先のアブラハムのように神への信仰を持ち、それにふさわしい生き方をしているならアブラハムの子どもと言えるが、彼らはアブラハムのような生き方をしていないということでした。それで、イエスは彼らに「あながたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。」と言われたのです。アブラハムは信仰の人でした。創世記の15章6節で「アブラハムは主を信じた。それが彼の義と認められた。」と書かれています。ところが、ユダヤ人たちは、神を信じる信仰によってではなく自分の行いによって自分たちは正しい人であると信じ込んでいました。彼らはアブラハムとは違い、信仰の人ではありませんでした。そのために、彼らは新しく生まれ変わる経験がなく、ただ、宗教的なことに熱心なだけだったので、自分の罪や自我の問題が解決されていませんでした。彼らはイエスに対する反感や嫉妬から、宗教家でありながら、イエスを殺そうとたくらんでいました。アブラハムには人を殺そうとするようなことはありませんでした。もしも、彼らが本当にアブラハムの子であるなら、アブラハムが行ったのと同じようなことをするはずです。それで、主は41節で、「あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」と言われました。38節の主イエスの言葉と同じです。彼らの父とは、アブラハムでも神でもなく、神に敵対する悪魔に支配される者たちでした。
 イエスが、繰り返し、彼らがアブラハムの子ではないと言うので、ユダヤ人たちは激しく怒り、主イエスに向かってののしりました。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。」彼らは、主イエスの生まれに疑問を抱いていたようです。主イエスは処女マリアから生まれました。婚約者のヨセフはイエスの父親ではありません。しかし、ヨセフはみ使いの言葉に従って、マリヤと結婚をしました。このクリスマスの出来事が当時のユダヤ人の間にも広まっていたようです。当時の人々でも、マリヤが聖霊によってイエスを産んだなど信じることができませんから、人々の間に、イエスは不貞の子どもだという噂がユダヤ人の間で広まっていたようです。ユダヤ人たちは、イエスに関する悪い噂を探し出して、イエスが不貞の子どもだと思い込んでいたのだと思います。そして彼らは「私たちにはひとりの父、神がいます。」と言いました。ユダヤ人は子供のころから旧約聖書をしっかり教えられていますから、その内容をよく知っています。例えば、出エジプト記の4章22節に「主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子、長男である』」と書かれています。確かに、ユダヤ人という民族で考えれば、彼らは神に選ばれた特別な民でした。しかし、個人的に考えるなら、神様は、主イエスを救い主として信じて罪赦された者たちだけの父親です。主イエスを信じる者だけが神の子どもになる特権が与えられているのです。彼らは主イエスが「あなたがたの父」と言ったのが神のことではなく悪魔のことを意味していることに気づいたのでしょう。それで、彼らは特に強く「私たちには一人の父、神がいます。」と言ったのだと思います。
 43節44節で主イエスは彼らに非常に厳しい言葉を言われました。「あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」ユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子であり、父は神だと主張していました。しかし、主イエスは、彼らは体について言えば確かにアブラハムの子孫だけれでも、精神的にも霊的にも主イエスに敵対していることから、サタンの子どもであると断言されました。彼らが行っていることは、悪魔の欲望に従っていることだとも言われました。肉体的に、子どもは親の特徴を受け継いで生まれてきます。親と同じような生活であり考え方であることが多いです。それは霊的なことについても言えることで、ユダヤ人たちは、霊的な面で、悪魔に似ていると言われたのです。彼らはサタンの欲望を行いたいと思っていると言われました。悪魔の欲望とは何でしょうか。悪魔には、非常に特徴的な2つの欲望があります。それは、偽りを言うことと殺人です。44節で、主イエスが言われたように、悪魔は初めから人殺しだと言われました。悪魔が最初の人間のアダムとエバを誘惑した結果、二人のたましいは死んでしまいました。そして、それは二人だけにとどまらず、二人の間から生まれてくるすべての人間は、たましいが罪によって死んだ状態で生まれるようになりました。イエスの弟子ペテロは、彼が書いた手紙の中で、「あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと捜しまわっています。」と警告しています。ライオンが餌に狙うのは弱っている動物、若い動物、あるいは警戒していない動物や群れから離れて一匹になっている動物を狙うそうです。悪魔も、私たちがそのような状況にある時に、私たちの信仰をつぶしてしまおうと襲ってくるのです。私たちも、自分の弱さを感じる時に、特に注意が必要です。悪魔は、人々の魂を滅ぼそうと狙っていることを忘れてはなりません。悪魔のもう一つの特徴は偽りです。エバが悪魔からそそのかされた時も、エデンの園の真ん中にあった「善悪を知る木」の実を食べれば必ず死ぬと神様は言われましたが、悪魔はエバに、その実を食べると賢くなって神のようになれると嘘を言って、エバを誘惑に引き込みました。44節の半ばにこう書かれています。「悪魔は初めから人殺しで真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また、偽りの父だからです。」悪魔は、今もなお、人々を偽りでだまし続けています。真理である方、人となられたイエスを受け入れないユダヤ人たちは、彼らが真理ではない生き方をしているので、主イエスを受け入れることができませんし、主イエスが語る真理をも受け入れることができないのです。主イエスを信じていない人は、神の権威を認めません。自分が一番大切です。したがって、話をするときも、自分に一番都合のいいように話します。誰かのことを噂話をするときも、「みんなそう言ってる」と言いますが、実際には一人か二人だけが言っていたということが多いです。自分の都合の良いように、事柄を曲げたり、一部自分に都合の悪いことを隠して話したり。今のツイッターとかヤフーのコメントとか、そのようなことばかりのように感じます。したがって、私たちは、キリストを信じる前は、気づいているいないにかかわらず、悪魔にコントロールされていたのです。しかし、イエス・キリストを信じるならば、すぐに完全に嘘を言わない人にはなれませんが、嘘をつくことに痛みを感じるようになります。クリスチャンは、主イエスを信じて洗礼を受けたら、それで終わったのではありません。日々の生活の中で、聖霊の助けを受けながら、神の子としてふさわしい生活を身に着けていかなければなりません。そのためには、神の言葉に耳を傾け、それに従うことです。悪魔は私たちの耳元で甘くささやいてきます。「そんなことをして何になるのだ。」「そんなこと、みんなやってるじゃないか。」悪魔の偽りのささやきは、とても心地よく流されそうになります。私たちは、どんな時も、悪魔のささやきではなく、神様の言葉に聞き従わなければなりません。時には、神様の言葉は厳しく聞こえるかもしれません。しかし、それが神の言葉であることの証拠です。悪魔の言葉はいつも甘いささやきです。クリスチャンは、毎日、み言葉を読んで、それから学び、その言葉に従って生活することをつねに続けることによって、少しずつイエスの姿に似た者に変えられて行きます。一方、主イエスを信じていない人は、悪魔の支配下に置かれています。神の言葉よりも、自分の考えや気分を第一にしています。そのままで良いのでしょうか。主イエスは、私たちを悪魔のコントロールから解放して、イエスとともに本当の自由の生活へと導くために、十字架にかかってくださいました。あなたは、本当に今のままで良いでしょうか。本当にこれがベストだという道を歩いている確信がありますか。イエスは言われました。「わたしが道です。わたしが真理です。そして、わたしがいのちです。」

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