2020年11月15日 『新しい天と新しい地』(ヨハネの黙示録21章1-7節) | 説教      

2020年11月15日 『新しい天と新しい地』(ヨハネの黙示録21章1-7節)

 子どものころに読む物語は、ほとんどがハッピーエンドです。王子様と女性が恋に落ちて、様々な試練や悪者たちの妨害を乗り越えて、ついに二人は結婚しました。このような物語は、必ず、最後に、そして二人はいつまでも幸せに暮らしました。という言葉で終わっています。素敵な言葉のようですが、この言葉には、何か、「人生のドラマはもう終わりました。これからは特に大きな出来事もなく、特別に話すこともありません。」といったニュアンスがあるようにも感じます。私たちは、年を取るにつれて、「自分の人生のピークは越えてしまった。後は、特に期待できることもなく、終わりを待つだけだ。」と感じます。もはや、私たちの人生には、大きな期待とわくわく感を持って待ち望むようなものは何一つないのでしょうか。聖書は、私たちの人生は、体が死んで、すべてが終わってしまうとは教えていません。新約聖書が書かれた時代のクリスチャンは、当時、激しい迫害を受け、多くの苦しみや悲しみを経験していました。しかし、彼らは決して絶望していませんでした。それは、イエス・キリストを救い主と信じる者には、この世の人生がどのようなものであれ、その先には栄光に輝く世界が待っていると約束されているからでした。彼らは、現実には苦しみのただ中にいましたが、彼らの目は将来に向けられていました。ナチスの収容所生活の体験を持つオーストリアの精神科医ヴィクター・フランクルという人は彼の収容所体験を基にいろいろな本を書いていますが、ある本の中で彼は次のような言葉を述べています。「収容所で、動物以下の扱いを受けていた私は、寒さ、空腹、苦痛、しらみ、極度の疲労感の中で、死人として生きろと命じられているような感じでした。しかし、私には、希望があったので、生き残ることができました。収容所では、体力が強い、弱いに関係なく、希望を失った人たちは死んで行きました。」このように、将来への希望が、今の生活に大きな影響を与えます。私たちは、今、コロナウィルスによって、閉じ込められたような生活をしており、これからどうなるのか将来への不安もあります。しかし、聖書は、この地上の生活の先に、はるかに素晴らしい世界が待っていることを教えています。多くの日本人は、死ぬことは忌むべきこと、不吉なこと、隠しておくことのように感じます。しかし、復活の主イエス・キリストを信じるクリスチャンにとって、死ぬことは決して忌むべきことでも、不吉なことでも、隠しておくことでもありません。それはまったく新しい時代とまったく新しい生活に入ることを意味するものだからです。誰でも、小学校の時の遠足は、楽しい思い出です。遠足が近づくと、それだけでうれしくなり、リュックサックに入れるものを用意したり、持って行くお菓子を買ったり、遠足の2,3日前からすっかり遠足モードに入り、前の晩は興奮して眠れない、そのような楽しみでした。クリスチャンにとって、死ぬことは、子どもの頃の遠足のように、楽しみにするべきことなのです。今日の箇所は、イエスの弟子ヨハネが見た天国の幻です。それは、私たちが住む世界の最終的な姿です。そこに到達するまでにはいろいろなことがあり、クリスチャンにとっては苦しみをともなうこともあると記されています。しかし途中経過がどのようなものであっても、私たちが最後に落ち着くところがどうなっているのかが大切です。今日は、黙示録から、私たちの世界の最終的な姿について学びたいと思います。

 聖書の最初の本、「創世記」には、神様が人間が生活をするために素晴らしい宇宙とその中にあるすべてのものを造ってくださいました。宇宙船から見る地球は本当に美しいです。今、宇宙の他の星に生物がいるかもしれないと、いろいろな探索が行われていますが、地球のように美しく、人間が生きて行くのにふさわしい場所はありません。これは決して偶然現れたのではなく、神様が人間のために準備してくださった場所です。天地創造のわざが終わったときに、神様は、自分が作った世界を見て「とても素晴らしい」と思われました。しかし、残念なことに、最初の人間のアダムとエバが神様の命令にそむいて罪を犯したために、人間の体は死ぬ体になってしまいましたし、神様が造られた美しい世界も大きく傷つきました。神様が造られた世界は、人間が住む世界として永遠に残るように造られたのですが、永遠に続かないものになってしまったのです。その後も、私たちは、自分たちの生活の便利さばかりを求めて来たために、神様が造られた世界は傷み続けています。地球温暖化の問題、オゾン層破壊もそうです。しかし、神様は、この世の終わりの時に、それまでの世界が過ぎ去って、新しい天と新しい地を与えると約束してくださいました。新しい天と新しい地とはどのようなものなのでしょうか。それを知るヒントとなるのが、1節の終わりの「もはや海もない」という言葉です。これは、今私たちが住む地球の三分の二が海であることを考えると、新しい世界がまったく異なっていることが分かります。全宇宙で、水があるのは地球だけです。人間の体も65%は水からなっていますし、人間を含めてすべての生き物は水に依存しています。また、地球の気候も海があることによって雲ができ台風ができます。海がない世界というのは、これまで人間にとって良い意味でも悪い意味でも依存していた海から人間が解放されることを意味しますので、新しい世界は、人間に本当に自由を与える世界と言えるでしょう。
 
 2節では、ヨハネは次の幻で、「聖なる都、新しいエルサレム」を見ています。新しいエルサレムが天から下って来るのを見ました。天というと、あまりにも広大な感じがして、私たちの生活とは無縁の場所のように思います。天国と言われてもそこがどのような場所か想像がつかないのですが、聖書は、天国から「聖なる都、新しいエルサレム」が下ってくると言っています。そこは、クリスチャンが最終的に住むために神様が用意してくださる場所です。そこは新しい都、新しい町だと言っています。都とは、実際に人々の生活が営まれている場所です。そこには人々の生活があり、いろいろな活動があり、いろいろな人間関係がある場所です。私たちが死んだ後、最終的に住む場所は、この聖なる都、新しいエルサレムです。したがって、今この世で私たちが生活している環境と同じように、毎日の生活があり、活動があり、お互いの人間関係があります。ただ、現在の町は、人間の罪が覆っているために、罪があり、憎しみがあり、悲しみや苦しみがありますが、聖なる都、新しいエルサレムは、すべての悪が取り去られていますので、聖なる者とされた人々が、完全な調和と平和の中で暮らす場所です。その新しいエルサレムが、「夫のために飾られた花嫁のように整えられている」と記されています。結婚式の花嫁さんが結婚式に備えてウェディングドレスを来てお化粧をして、髪の毛を整えます。女性にとって人生で最も美しく輝く時ですから、衣装もお化粧もヘアスタイルすべてが完璧に整えられています。つまり、私たちが永遠に住むための場所は、何一つ足りないもののない完璧な場所だということができます。テレビ朝日で、家のリフォームをする番組があります。古くて狭い家、生活が不便な家が、設計者の知恵によって劇的に変化するビフォーアンドアフターが描かれています。毎回、家が劇的に変化します。リフォームを頼んだ人は、工事の期間中は別の場所に住んでいて、完成した時に初めてリフォームした自宅を見るようになっているのですが、誰もが、劇的にリフォームされた家を見て叫んだり、涙を流して喜んだりしています。私たちの家がリフォームされるだけでも、私たちは非常に興奮して喜びます。それなら、私たちが最終的に永遠に住む場所がどれほど素晴らしいのか、今から私たちは胸を膨らませて楽しみに待つことができます。

 ただ、聖なる都、新しいエルサレムは、完璧に整えられた場所だから素晴らしいのではありません。私たちが最終的に住む場所が素晴らしい第一の理由が3節に記されています。「私はまた、大きな声で御座から出て、こういうのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」黙示録の中に何度も出て来るのですが、「大きな声が神の御座から出た。」という表現があります。これは大切なメッセージが語られることを表す言葉です。そのメッセージは「神の幕屋が人とともにある」という言葉で始まっています。幕屋とはテントのことですが、イスラエルの民にとっては、神様がおられる場所を意味しました。旧約聖書のモーセの時代に、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの人々は、モーセの働きによってエジプトを脱出して、現在のイスラエルにやって来るのですが、エジプトを脱出してから今の場所に入るまで40年もかかりました。40年間イスラエルの人々は荒野を旅していたのですが、オアシスがある場所に来ると、そこに泊まってイスラエルの12の部族は自分たちのテントを張りました。その時、必ず真ん中に幕屋と呼ばれた大きなテントがありました。そこは、神様がおられる場所でした。イスラエルの民にとって荒野を40年もの間旅をすることは大変だったのですが、いつも彼らの中央には神様がおられるシンボルとして幕屋がありました。したがって、「神の幕屋が人々とともにある」というのは、神ご自身が、私たちといっしょに住むということです。これまで、神を見たものは皆死んだのですが、イエス様が約束しておられたことが実現する日が来ます。主イエスはマタイの福音書5章8節で「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」と言われたのですが、本当に、私たちが神様を見ることのできる日が来るのです。このことは本当に素晴らしいことなので、天からのメッセージも同じことを繰り返しています。「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」主イエスは別の名前ではインマヌエルと呼ばれますが、これは、私たちとともにおられる神という意味のヘブル語です。確かに、今でも、クリスチャンは神様が自分とともにおられることを感じます。聖書の神の特徴は、天と地とその中にあるすべてのものを造られたという途方もなくスケールの大きな全能の力を持つ神なのですが、もう一つは、そのような神様が私たちの罪が赦されるために私たちと同じ人間、それが御子イエスなのですが、一人の人となってこの世に来てくださったことからも分かるように、聖書の神様は、私のような小さな一人の人間と交わりを持ってくださる神であることです。クリスチャンは目に見えない神様とともに交わりを持ってこの世で生きています。交わりをするとき、私たちはおしゃべりをします。そして、お互いの出来事やお互いの気持ちを知って、親しくなります。私たちは、神様と祈りと聖書の言葉で交わりを持つことができます。私たちが自分の気持ちを神様に伝えたいときは神様に祈ります。また、神様の気持ちや考えを知りたいときは聖書の言葉を読みます。聖書の言葉は、神様からの語り掛けなのです。このようにして、私たちは神様との交わりを持っていますから、たとえ、地上の生活の中で、いろいろ悲しいことや辛いこと、孤独を感じることがあるとしても、神様との交わりを持っていることで、乗り越えることができます。しかし、神様は目に見えないので、100%の交わりとは言えません。ところが、私たちが聖なる都で住むときは、神様もともにそこにおられて、神様と実際にお会いすることになるのです。これは、今の時とはまったく違うことで、これが新しい天新しい地の最も素晴らしいところなのです。従って、新しい天新しい地の生活は、今の生活とは大きく異なります。

第一に、新しいエルサレムでは、神様が私たち一人一人の目の涙をぬぐい取ってくださいます。これは、私たちが天国でも涙を流すことがあるという意味で言われているのではありません。これは、私たちが天国ではもはや涙を流すようなことは存在しないという意味で言っているのです。私たちはいろいろな時に涙を流します。自分が不幸だと思う時、失望を感じる時、病気の時、後悔するとき、愛する家族を亡くす時などです。天国では、そのような経験をすることは二度とありません。また、新しいエルサレムでは、もはや死ぬことがありません。私たちが今持っている体は、人間の罪のためにいつかは朽ち果てて行きます。しかし、主イエスが復活された時に、栄光の体をもって復活されたのと同じように、私たちの体はまったく材質の異なる新しい体が与えられるので、死ぬことがなくなりました。また、そこには悲しみも、叫び声もありません。私たちが新しいエルサレムに移される時、私たちは体だけでなく、魂もすべて栄光満ちたものに変えられます。そのため、苦しみもありません。主イエスを信じていても、この世で生きているときは、苦しみを経験する時もあります。しかし、天においては、地上で悲しんでいた者には慰めが与えられ、地上で病気の苦しみを持っていた人には完全な癒しが与えられ、失望を経験していた人々には永遠の希望と平安が与えられるのです。だから、パウロは、ローマ人への手紙8章18節で、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」と言ったのです。
 この直後に、ヨハネはもう一つの声を聞きます。今まではその声が誰の声なのかはっきり書かれていませんでしたが、5節では、はっきりと御座に座っておられる方が言われたと書かれています。つまり、神ご自身が語っている言葉です。「見よ。わたしはすべてを新しくする。また言われた。「書き記せ。これらの言葉は真実であり、信頼できる。」神様は、天と地とその中にあるすべての者を造られた創造主なる神様です。聖書は、この天地が造られたという天地創造で始まっていますが、その神様が、罪のよって傷ついてしまった世界をすべて、新しくするという再創造という出来事で終わっています。イエス・キリストを信じる者には、大きな希望があります。私たちの今の生活が終わる時が必ず来ますが、私たちは、神様がすべてを新しくする世界へと移されて行くのです。今の世界とは全く異なる、涙を流すことも死ぬこともまったくない新しい世界に移るのです。収容所で、地獄の苦しみを経験したヴィクター・フランクルは、いつも収容所を出た後の世界の希望を持ち続けていました。

以前、エリック・バーカーというイギリス人宣教師がポルトガルで50年にわたって、難しい状況の中で福音を語っていました。第二次世界大戦が始まり状況が非常に深刻になったので、彼は安全のために妻と8人の子供を先にイギリスに帰国させ、自分は残った仕事を片付けてから帰国することにしていました。バーカーの家族が帰国した後の最初の日曜日、彼は会衆の前に立って、説教の前に言いました。「私の家族全員が無事に家に着いたという知らせを受けました」そして、いつものように説教を始めました。後になって、バーカー宣教師が言った言葉の本当の意味が人々に知らされました。彼は礼拝が始まる直前に電報を受け取り、家族が乗った船がドイツの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、家族全員が死亡したことを知ったのでした。しかし、彼の家族は皆クリスチャンであり、彼は家族が皆、天国の最高の幸せを楽しんでいると確信したのでした。彼は、この天国の希望のゆえに、圧倒的な悲しみにもかかわらず、この状況を乗り越えることができました。あなたは、死んだ後の最高に幸福な約束を持っておられますか。

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