2020年12月13日 『クリスマスの目的』(1ヨハネ1章1-4節) | 説教      

2020年12月13日 『クリスマスの目的』(1ヨハネ1章1-4節)

今日はイエスの12使徒の一人ヨハネが手紙を読みたいと思います。ヨハネは、キリスト教迫害によって殉教することなくイエスの12使徒の中で最も長生きをし、晩年はエペソ教会で過ごしたと言われています。彼がこの手紙を書いたの紀元80年から90年ごろで、その頃、すでにクリスチャンも第二世代、第三世代の時代になっていました。ヨハネがこの手紙を書いたのには目的がありました。それは、そのころ、教会の中に間違った教えを広める教師が入り込んでいたからです。当時の世界にはギリシャの文化や教養が広まっていて、多くの人が特にグノーシス主義という教えを信じていました。この教えはすべて目に見えるものは悪で、目に見えない者が善であると考え、肉体は悪、霊は善だと教えていました。この教えが、キリストに関して人々に間違ったことを教えるようになっていました。というのは、肉体が悪であるとすれば、神であるキリストが肉体を持つことはあり得ません。従って、グノーシス主義の影響を受けた人々は、イエスは、人のように見えるが、本当の肉体を持っていたわけではなく、人のように見える幽霊のような存在だったと主張しました。実は、主イエスが真の神であると同時に真の人間であると言うことは、理解することが難しく、教会の歴史を通じて論争になってきました。キリストが人であるよりも神であることを強調する教えと、キリストが神であるよりも人であることを強調する教えと、どちらか一方だけを強調する教えが次々に現われて来ました。しかし、私たちが信じる主イエスは、真の神であると同時に私たちと同じ肉体を持つ真の人間でありました。実は、この事実は旧約聖書に登場する神殿の中にあった天井から床までの垂れ幕が暗示していました。この垂れ幕は神殿の中の至聖所と呼ばれた場所を守るためのものでした。至聖所は、神がおられる場所と見なされていて、ユダヤ教のトップ大祭司が1年に1度だけ入ることが許される場所でした。神と人間を隔てる壁のようなもので、旧約聖書の時代は、人々は直接神がおられる場所に行くことはできませんでした。しかし、主イエス・キリストが十字架で息を引き取った瞬間、この垂れ幕が上から下に向かって真っ二つに裂けたのです。これは、主イエス・キリストの十字架によって、神と人とを隔てていた壁が崩れて、新約聖書の時代を生きる人々が自由に神のもとへ行けるようになったことを示す出来事でした。この神の世界と人間の世界の間にあった垂れ幕は赤、青、紫の糸で織られていました。赤は人間を表す色です。神様が作った最初の人間はアダムという名前を持っていましたが、実は、このアダムという名前には「赤」という意味がありました。また「青」は天国を表す色で、神を意味する色でした。そして、紫は神が人となられたイエスを表す色です。赤いペンキを青いペンキの缶に流し込むとどうなるでしょうか。だんだん二つの色がまじりあい、境界線が見えなくなって、最終的に紫色になります。この紫色は赤と青の二つの色が完全にブレンドされたことを意味します。それと同じように、主イエス・キリストのうちには、神の性質と人の性質が完全に溶けあって、一つになっていたのです。主イエスが、サマリヤ地方に行かれた時に、疲れて井戸端で休んでおられました。一人の女の人が水を汲みに来た時に、主は彼女に水をくれと頼みます。この出来事は主イエスが私たちとまったく同じ体を持っていたことを表しています。一方、主イエスが弟子たちと一緒に小さな船に乗ってガリラヤ湖という湖を渡っておられましたが、嵐が突然襲って、船が沈みそうになったときに、主イエスが風をしかりつけると、一瞬のうちに風がやみました。この出来事は、確かにイエスが神であったことを示しています。主イエスは、短い地上での生涯の間、つねに、完全な神と完全な人間とが融合して状態で生きておられました。クリスマスという出来事は、今は、多くの人が楽しむ季節の出来事になっていますが、実は、神が人の姿をとってこの世界に来てくださったという人間の歴史の中で最も重要な日であることを私たちは忘れてはなりません。

(1)初めからあったもの
 ヨハネが1章1節で述べている主イエス・キリストの紹介文を読んでみましょう。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」ここで、ヨハネが「私たち」と呼んでいるのは、自分自身と、他の12使徒たち、その他、実際に主イエスが地上のおられたときに、イエスとともにいた人々をさしています。使徒ヨハネは、自分たちが直接に主イエスを見た者、主イエスの教えを聞いた者、主に触った者であり、使徒と呼ばれるに相応しい者であると主張しています。そして、主イエスが確かに真の人間であったことを示すために、ヨハネは、イエスの教えを聞いた、イエスを見た、イエスをじっと見た、そしてイエスを触ったと4つの動詞を繰り返して、自分の経験を述べています。これは、ヨハネがイエスについて語っていることが、実際に起きた歴史的な事実であることを示すためです。また、「見る」ことについては、普通の「見る」という言葉に加えて、「じっと見る」という言葉を使っています。「じっと見る」とは、おそらく、ヨハネがイエスの行われた奇跡のわざなど、何か不思議なことが起こった時に、思わずヨハネはイエスをじっと注意深く見たのだと思います。そのような経験を示す言葉です。さらに、彼は私たちが自分の手でイエスを触ったと言っています。ヨハネは、この手紙が書く50年か60年ほど前のイースターの夜の出来事を思い出していたのでしょう。主イエスが復活された日の夜、弟子たちがユダヤ人たちを恐れて扉を閉めた部屋の中に集まっていましたが、突然、復活のイエスが現れました。そして、イエスを見て幽霊だと思って震えている弟子たちに向かってこのように言われました。「なぜ、取り乱しているのですか、どうして、心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」また、ヨハネは1節でイエスを「いのちのことば」と呼んでいます。ヨハネは福音書でも、イエスのことを「ことば」と呼んでいます。私たちの思っていること、感じていることは、ことばにしないと、耳に聞こえず、目で見えないままです。すると、私たちは、人の思いや気持ちを理解することはできません、しかし、その思いや気持ちに言葉を着せると、その思いや気持ちが他の人にも理解できるようになります。主イエスは、私たちに届きにくい神様の考え、神様の気持ちを、私たち人間にも理解できるように私たちに示してくれることばなのです。主イエスは、私たちに永遠のいのちを持つことができると教えてくれる神の言葉です。
 2節には、「このいのちが現れました。」と記されています。2節では、ヨハネはイエスのことをこのいのちと呼んでいます。聖書の神は、この天と地とその中にあるすべてのものを造られた神です。すべての生き物にいのちを与える神です。主イエスご自身も、「わたしは道であり真理でありいのちです。」と言われました。主イエスの本当のお姿はいのちそのものです。私たちに肉体的ないのちも霊的ないのちも与えることのできる方です。イエスが神の子として働いておられた時、親しい友人のラザロが死んで墓に入れられました。ラザロの肉体的いのちはすでに終わっていましたが、その時、イエスは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」これは、主イエスにはラザロの肉体のいのちを回復させる権威と力があることを宣言しておられることばです。さらに、主イエスは続けて言われました。「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」このことばは、霊的には罪の中で死んでいる罪人に対して主イエスは新しい霊のいのちを与えることができることを宣言されました。主イエスを信じる者には、決して死ぬことのない霊的ないのちが与えられています。このように、主イエスは、いのちそのもののお方です。主イエスは私たちの体も魂も生き返らせる力を持っておられます。ヨハネは、「そのいのちが現れた。」と書いています。ここで「現れた」と訳されている言葉は、「目に見える姿で現れる」という意味です。神様がどういうお方であり、神様は何を考え、何を喜ぶのか、それを私たちに知らせるために、「ことば」としてのイエスが、私たちに理解できる姿で、すなわち目に見える姿をとって現れてくださいました。これを「受肉」と言います。つまり、神が人となったということですが、これは良く考えると本当に大きな犠牲を伴うことでした。私たちは天国が素晴らしいところということを知っているので、死んでも天国に行けるということは私たちにとって大きな希望です。しかし、そのように素晴らしい天国から、罪と悪に満ちた人間の世界に来ることは誰も望むことではありません。罪に満ち溢れた汚れた世界だからです。それでも、御子イエスは、私たちが神様の思いを理解できるように、私たちと同じ姿をとってこの世に来てくださいました。本来は、時間的にも空間的にもまったく制限を受けずに、自由に、永遠に生きる神として存在しておられた方が、小さな体に閉じ込められて多くの自由を奪われて生きようと決心されたことは、特別な目的がなければできないことです。主イエスは、人間が永遠の滅びから永遠の命の世界に移れるように、わざわざ私たちの所に来てくださいました。日本は、多くの国に比べれば自由があります。普通に生活していれば、何も恐れることはありません。皆さんは、北朝鮮に行きたいと思いますか。拉致された人々が日本に帰ることができない、そのような国に行きたいと思うでしょうか。普通は思いません。神にとってこの世界に来ることはそれ以上に大きな犠牲を払わないとできないことなのです。それでも、主イエスは、私たちと同じレベルになって、私たちのところに来てくださいました。それは、私たちを愛しておられて、私たちのために何とかしたいという気持ちを持っておられたからです。19世紀の終わりにハワイで宣教師として働いていたダミアン神父は、ハワイのモロカイ島に住むハンセン氏病患者が悲惨な状態で放置されていることを知り、ホノルルからモロカイ島に移り住みました。当時のモロカイ島では、患者は完全に見捨てられていて地獄のような状態でした。彼は生涯をかけて患者の生活環境を改善するために懸命に働きました。しかし、彼はいつも、患者たちとの間に壁を感じていました。それは、自分は患者ではないので、本当の意味で患者たちの苦しみや痛みを理解することができなかったからです。彼は、患者に触ったりハグすることを控えるのをやめました。すると、しばらくして彼自身感染してしまいました。しかし、彼はそのことを心から喜びました。彼は兄に、こんな手紙を送っています。「私は、イエスのためにハンセン氏病にかかることを心から願っていました。そして、ついに自分も彼らと同じ病気になって、彼らの苦悩を自分の苦悩として受け取ることができるようになりました。私は、彼らの本当の友となる資格が持てたことを神に感謝しています。」主イエスも、私たちを罪から救うために、ダミアン神父と同じ気持ちでこの世に現われてくださったのです。

(2)この手紙が書かれた目的
 3節と4節で、ヨハネはこの手紙を書いた目的を記しています。ヨハネは、この手紙を書いた目的は「交わりを持つためである」と書いています。ヨハネは、クリスチャンにはふたつの方向の交わりがあると書いています。縦方向の交わりは、私たちと神様との交わりです。そして、横方向は他のクリスチャンたちとの交わりです。まず、私たちには神様との交わりが与えられていることをしっかりと知っておかなければなりません。私たちは生まれたときから自己中心という罪の性質を持っています。そのため、本来は、聖なる神様と交わりを持つことなどありえない話です。しかし、キリストがその問題を解決するために、私たちと同じ肉体を持ってくださり、そして、私たちの罪のすべてをご自分の体で背負って、十字架にかかってくださいました。このようにしてキリストが私たちの身代わりとなって罪の罰を受けてくださったことによって、私たちは、神様と交わりを持つことが許されるようになりました。キリストが弟子たち残した最後の言葉は、「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」でした。今、キリストは目には見えませんが生きておられます。聖書の言葉を通して私たちに語り掛けてくださり、私たちのどんな祈りもすべて聞いてくださいます。主イエスは、私たちのベストフレンドになってくださるのです。有名な讃美歌「いつくしみ深き」、日本では結婚式で歌われますが、本当は大きな悲しみの中で生まれた歌です。この歌の原題は「What a Friend We Have in Jesus」です。訳せば、私にはイエスという最高の友がいると言う意味です。作詞者のジョセフ・スクリヴェンは、カナダ人です。彼は、結婚式の日、船に乗ってオンタリオ湖の湖畔の式場に来る花嫁の到着を待っていました。しかし、その船が沈んで花嫁は死んでしまいました。彼は絶望のどん底に陥りましたが、その悲しみと孤独の絶頂の時、彼を慰めてくれたのがイエスだったのです。そして、それを歌にしました。英語の歌詞は、「イエスは、僕の最高の友だ。僕の罪も僕の悲しみも全部背負ってくれる。どんな悩みや悲しみも祈りの中でイエスのところに持って行けるとは、なんという特権なんだろう。この世が与える平安はすぐに崩れるし、僕たちは背負わなくてもいいのに、痛みを抱えている。でも、僕は、すべてのことをイエスのところに持って行く、祈りの中で」こんな風にして、彼は、計り知れない悲しみを乗り越えることができました。私たちにはこのようなキリストとの交わりが与えられています。またそれだけではなく、私たちには、同じイエスを信じる仲間との交わりも与えられています。この世での人間同士の交わりでは、会社では肩書によって上下の関係がありますし、なかなか本当に信頼できる友を見出すことはできません。しかし、クリスチャンは同じ神を信じる者という共通点があり、神様を中心とした交わりを持つことができます。私たちは、互いに見栄をはる必要はありません。キリストの前で私たちは平等です。この世の地位や肩書は関係ありません。ヨハネは、自分が神との交わりと信仰の仲間との交わりを実際に体験していることを、この手紙を読む人にどうしても伝えたかったのです。カール・マルクスは言いました。「人が幸せになるために最初にしなければならないことは宗教を捨てることだ。」と。しかし、この手紙を書いたヨハネは言います。主イエスを信じる時に、この世では決して得ることのできない喜びを味わうことができる。私自身それを体験しているし、それをぜひ世の中の人々に伝えたいのだ。」主イエスは、あなたのベストフレンドになるためにこの世に来てくださいました。それがクリスマスの意味なのです。  

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