2021年1月10日『人を癒す主キリスト』(ヨハネの福音書9章13-23節) | 説教      

2021年1月10日『人を癒す主キリスト』(ヨハネの福音書9章13-23節)

 先週は、生まれつき目が見えなかった人が、主イエスによって目が見えるようになったという主イエスの奇跡について語りました。今まで、目が見えず、乞食をしていた人、今まで人の世話にならなければ生活ができなかった人が、突然、目が開け、一人で歩き回っているのを見た周りの人々はびっくりしました。なぜ、その人が、目が見えるようになったのか、理解できませんでした。それで、人々は、この人をパリサイ人のところに連れて行きました。パリサイ人とは、ユダヤ教の指導者であり、聖書の専門家です。なぜ、人々はパリサイ人の所に連れて行ったのでしょうか。彼らは、この不思議な出来事には、何かユダヤ教的な意味があるのか、宗教の専門家の先生なら、この奇跡について何か説明してくれるのではないかと思い、その男の人をパリサイ人のところへ連れて行ったのでしょう。ただ、14節に「イエスが泥を作って彼の目を開けたのは安息日であった。」と書かれています。目の見えない人をパリサイ人のところに連れて行った人々は、主イエスが行われたことが安息日のルールに違反しているかと思い、パリサイ人たちがどのような反応を示すのか興味があったのかもしれません。
 安息日とは、一週間の七日目の日で土曜日です。聖書は、神様はこの世界を6日間で造られ、そして七日目に休まれたと教えています。そして、モーセの十戒の中に、「安息日を覚えて、これを聖なるものにせよ。」という戒めがあり、「七日目には仕事をしてはならない」と神様は命じられました。ただ、神様がこの戒めを与えられた目的は、その日に仕事をさせないことではありません。この戒めの目的は、一週間に一度は、私たちが日ごろの忙しいスケジュールから離れて、体と心に休息を与えて、神を礼拝する日として過ごすためということでした。神様は、私たちのことをよく知っておられ、また、私たちのことを心配してくださって、人間が心と体の健康が支えられるために、安息日を守ることが必要だと分かっておられたのです。ところが、パリサイ人たちは、安息日の戒めの本来の目的を忘れて、とにかく安息日はいっさいの仕事をしてはならない日としました。仕事にはいろいろなものがあるので、パリサイ人は、この戒めを守るための細かなルールを作り、自分たちは、そのルールをきちんと守っていることを自慢し、少しでもそのルールに違反する人がいれば、厳しく非難していました。イエス様が安息日に奇跡を行うことが何度かありました。そのため、パリサイ人はイエスを厳しく非難していました。彼らが作ったルールでは、安息日に病気の人を助けることができるのは、その人が生きるか死ぬかという状態にある時だけでした。今回、生まれつき目が見えない人の視力を回復させたという奇跡は、その人にとって命に係わることではありません。したがって、パリサイ人たちが作ったルールに従うなら、主イエスの行為はルール違反ということになるのです。しかし、このルールは神様が作ったルールではなく人間が作ったルールです。主イエスは、そんな人間が作ったルールは愚かなものであり、そのルールに縛られることはないと、助けや癒しが必要な人々のために安息日であっても働いておられました。ある時、イエスは「安息日に癒すのは律法にかなっているのか」とパリサイ人から尋ねられましたが、その時、主イエスは次のように答えられました。(マタイ12章10-11節)「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もし、その羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりもはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」イエスが言おうとしているのは、誰かを助ける最善の時は、その人が助けを必要としている時だということです。しかし、一部のパリサイ人は、その人がどんな助けを必要としているのか、そんなことには全く無関心で、ただ、安息日のルールを守ったか守らなかったかということにあくまでもこだわっていました。
パリサイ人は、目の見えない男が連れて来られた時に、その人にどのようにして見えるようになったのかと尋ねました。すると、その人は、自分が経験したことをそのまま話しました。「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。」この時、パリサイ人の前に立っていたのは、以前、神殿の門の近くで乞食をしていた人です。これまで目が見えなくて乞食をするしかなかったのが、今は目が見えるようになったので、新しい生き方ができる素晴らしい将来が与えられた人です。もちろん、癒された本人は大喜びです。見るものすべてが初めて見るものですから、私たちにとって当たり前のことにも、とても感動していたと思います。彼は喜んでいたのです。聖書は、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい。」と教えています。しかし、この時、パリサイ人の中にこの人とともに喜ぶ人はいませんでした。彼らが関心があったのは、なぜ、この人が目が見えるようになったのか、ということであり、この奇跡は神の働きなのかどうかということでした。この人が、これまでのみじめな人生から解放されて、希望に満ちた将来が与えられたことをこの人と一緒に喜ぶパリサイ人はいませんでした。
 あるパリサイ人は「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない。」と言っています。彼らの関心事は、イエスが安息日に何を行ったのかということです。イエスが唾で泥を作ったことは、彼らが作ったルールの中に「安息日にパン生地を練ってはならない」というものがあったので、主イエスはルール違反を起こしたことになります。人は、一つのことにこだわると、正しい判断ができなくなりますが、この時のパリサイ人もその典型的な例だと思います。彼らは、自分たちが安息日の細かなルールを守っていることを自慢しており、ルールをきちんと守っている自分たちこそ正しい人間だと思い込んでいました。その一方で、彼らはもっと大切なこと、すなわち、人を自分自身のように愛し、人に憐みを示すことを完全に忘れていました。主イエスは、彼らのこのような姿勢に対して、「お前たちはわざわいだ。人々には負いきれない荷物を負わせるのに、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。」と言われました。(ルカ11章46節)神様の律法は、人々にとって重荷になるものではなかったのですが、パリサイ人が、細かなルールをたくさん作ったために、人々にはそのルールが大きな重荷になっていたのです。主イエスは、パリサイ人が自分たちで作ったルールによって人々を苦しめていることを批判しておられるのです。しかし、パリサイ人の中には、別の考えを持った人もいました。彼らはこう言いました。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか。」そして、パリサイ人たちの間に分裂が起こりました。これは、おそらく、ニコデモや彼と同じ考えを持つ人々の言葉だと思います。ニコデモはパリサイ人であり国会議員でもありましたが、ヨハネの福音書の3章に登場します。彼は、イエスが誰なのかを確かめるためにイエスに会いに来たのですが、その時、ニコデモはイエスにこう言っています。「私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがたなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(3章2節)ニコデモや何人かのパリサイ人たちは、主イエスの奇跡を認めて、そのような働きは神から遣わされて者しかできないと認めていたのです。このようにして、パリサイ人たちの間で、イエスに関して意見が分かれました。

 パリサイ人にとって厄介だったのは、目が見えなかった人が目が見えるようになったという事実を否定することができないことでした。一部のパリサイ人は、これほどはっきりとした事実が目の前にありながらも、その事実を受け入れようとしませんでした。それで、彼らは、あれこれとその男に質問をし続けます。17節では、「おまえは、あの人についてどう思うか。」と尋ねました。質問したパリサイ人たちは、ユダヤの社会では、地位が高く、学識に富んだ人と見なされていました。一方、乞食をしていた人は、悪い言葉かもしれませんが、社会の底辺にいた人です。そんなパリサイ人がこの人に考えを尋ねるというのは、普通は考えられないことです。おそらく、パリサイ人たちは、この問題をどう扱ったらよいか分からず、混乱していたのではないでしょうか。すると、その人は答えました。「あの方は預言者です。」この預言者という言葉は、彼が主イエスを神から遣わされた者であることを理解していたことを表しています。彼はまだ、イエスが旧約聖書に約束されたメシアであるということを完全に理解していたわけではありませんが、イエスが神から遣わされた者であると確信していました。彼はイエスについて、「預言者だと思います」とは言わず、「あの人は預言者です」と断言しています。一方、パリサイ人たちは、旧約聖書の専門家であったにもかかわらず、イエスが神から遣わされた者であることを頑なに信じようとしませんでした。 パリサイ人たちは、もしかすると、目が癒されたと言っている男は神殿の前で乞食をしていた男とは別人かもしれないと思ったのでしょう。彼らは、男の両親を呼び出して、質問しました。「この人はあなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして、今は見えるのか。」彼の両親は、相手がパリサイ人たちなので、答えに困りました。22節に書かれているように、そのころ、イエスを救い主だと告白する人はユダヤ教の会堂から追放されていたからです。ユダヤ人の社会では、会堂から追放されるというのは社会から追放されるのと同じくらいのインパクトがあります。両親は、彼らの前にいる男が自分の息子であること、生まれつき盲目だったが、今は見えるようになったということを認めました。両親は息子から、誰にどのようにして、見えない目を見えるようにしてもらったか、その話は聞いていたはずです。しかし、ここでは、両親は、息子の癒しについては何も知らないふりをして、息子本人に聞いてくれとパリサイ人たちに答えています。彼の両親は言いました。「息子はもう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」息子は主イエスは預言者だと堂々と証言しました。息子は、人を恐れず、正直に自分の確信していることを語りました。一方、両親は、これまで目が見えなかった息子の目が見えるようになったのですから、心の中では本当にこの出来事を喜んでいたはずです。しかし、両親は、息子のいやしよりも、自分たちがユダヤ教の会堂から追い出されることを恐れて、主イエスの癒しについて、自分たちの口で語ることをせず、自分の息子に証言させようとしました。

 今日の個所には3種類の人が登場します。主イエスに目がみえるようにしてもらった人、それを目撃したパリサイ人、そして、目が見えるようになった人の両親です。ごく単純に考えると、生まれつき、目が見えなかった人が見えるようになったと言う出来事は素晴らしいことであり、誰もが喜ぶべきことです。しかし、実際はそうではありませんでした。目が見えるようになった人は、主イエスが自分の目を見えるようにしてくれたことを自分で体験しています。彼は、まだイエスのことをすべて理解していたわけではありませんが、イエスが神様から遣わされた者であることを確信していました。そして、今までとはまったく違う生活に向かって進みだそうとしています。パリサイ人は、生まれつき盲目の人が見えるようになったことをまったく喜んでいません。そして、主イエスがその奇跡を行ったことを頑固なまでに否定しようとしています。彼らは、どんな証拠を見せられても、イエスが神であることを認めません。自分の考え、自分の価値観にとらわれていると、見えるものが見えなくなってしまいます。彼らは、この盲目の人が見えたものを見ることができないのです。さらに、この人の両親はどうでしょうか。両親は息子の目が見えるようになったことを絶対に喜んでいるはずです。自分の息子がこれまで盲目のために、どれほど苦労してきたのか知っています。また、親として、子供が盲目で生まれたことで、自分を責めていたでしょうし、周囲の人からも、子どもが目が見えないのは両親に何らかの原因があるのではないかというようなことを言われて来たはずです。両親は、本当だったら、もっと喜ぶはずです。しかし、それが喜べないのは、イエスが神であることを認めると、自分たちが社会から追放されるのではないか、周りの人々から村八分にされるのではないか、それを恐れて、イエスが神であると言えませんでした。私たちの中にもそのような人がいないでしょうか。主イエスを信じていることが人に知られると自分の生活に不都合なことが起きると恐れて、イエスを救い主と告白できないでいる人がいないでしょうか。私たちは、人を恐れる時に、どんなプラスなことがあるでしょうか。しかし、主イエスを信じるなら、私たちのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。パリサイ人のように、自分の価値観にとらわれてイエスを信じることを拒む人、人を恐れて両親のようにイエスを救い主と告白できない人、どちらも、永遠のいのちを失ってしまいます。私たちは、人を恐れずに、イエスは主ですと告白できる者でなければなりません。

2021年1月
« 12月   2月 »
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

CATEGORIES

  • 礼拝説教