2021年1月17日 『あなたの目は見えているか』(ヨハネ9章23-34節) | 説教      

2021年1月17日 『あなたの目は見えているか』(ヨハネ9章23-34節)

 パリサイ人たちは、主イエスが生まれつき目の見えない人を癒されたという事実を何としても受け入れようとしませんでした。挙句の果てに、この男の人が、本当にこれまで神殿の門の近くで乞食をしていた盲目の男なのかどうかを確かめるために、その人の両親を呼び出して尋ねました。両親は、この男の人が自分の息子であることと、自分の息子が生まれつき盲目であったことを認めました。主イエスがこの男の人の目を癒したことは否定できない事実なのです。彼の両親は、自分の息子が主イエスによって癒されたことを知っていたはずですが、それを言うとパリサイ人たちから何をされるか分からないので、息子がどのようにして見えるようになったのかは、息子本人に尋ねてくださいと言いました。そこで、パリサイ人たちは、もう一度、目が見えなかった人を呼び出して言いました。「神に栄光を帰しなさい。私たちは、あの人が罪人であることを知っているのだ。」
ここでパリサイ人たちが言った「神に栄光を帰しなさい」という言葉の意味は、「イエスが癒したなどとうそをつくのはやめて、真実を話しなさい。」ということです。これと同じ言葉は、ヨシュア記の7章に出て来ます。当時、イスラエルは神様の約束の地に入ったばかりでした。最初に征服しなければならない町はエリコという町でした。ものすごく頑丈な城壁に囲まれていたエリコでしたが、神様の奇跡が起こってイスラエルの民はエリコを征服することができました。ただ、その時に神様が一つの命令を出していました。エリコにあるものは全部滅ぼして、どんなに価値のあるものでも、絶対に自分のものにしてはいけないという命令でした。この命令を一人の男が背いて、密かに美しい着物と銀と金の延べ棒を盗んで地面に隠していました。神様は、そのことを知っておられたので、イスラエルの民が、エリコの次に征服しなければならないアイという村に攻め入ったときに、アイはエリコとは比べ物にならないほど小さな村だったのに、彼らは戦いに負けてしまったのです。すると神様がヨシュアに語り掛けて、「イスラエルの民の中に命令を破った者がいるから、それを見つけ出しなさい。」と言われました。神様が言われるとおりにくじを引くとアカンという男が見つかりました。この時に、ヨシュアがアカンに言った言葉が、7章19節に記されています。「イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。おまえが何をしたのか、私に告げなさい。」この時パリサイ人が言いたかったことは、「おまえは神様の力によって癒されたのではない。罪人イエスが悪霊を使った働きか何かで、目が見えるようになったのだ。だから、あのイエスをほめたたえてはならないぞ」ということでした。

 これまで、何度もパリサイ人から上から目線で質問をされていた、この男の人は、彼らの脅しのような言葉にひるみませんでした。「あの人が罪人かどうか私はしりません。」彼が、こう言ったのは、「それは、あなたたちの宗教的、神学的な問題ですから、あなたたちにおまかせします。」そして、彼は自分の身に起こった事実を述べました。「一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼が言いたいことは、自分が体験したことは100%の確信を持って言える真実の体験だということです。パリサイ人たちは、誰も、彼のこの言葉を否定することはできませんでした。彼らは、自分たちの思い通りに、この男を言いくるめることができず、また、この男の証言を否定することができないので、彼らはこの問題をどうしたらよいか分からなくなって、また、この人に同じことを質問しています。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」また、同じ質問をされて、この人は頭に来ました。しかも、パリサイ人たちは、真実を知りたくて質問しているのではなく、イエスが罪人として訴えるための口実を見つけるために質問していることが、この人にも分かっていました。27節で彼は「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。」と言っています。これまでも、彼は、自分に起きたことを、彼らに丁寧に説明して繰り返し語っているのです。それなのに、その言葉を信じないで、イエスが罪人だという前提で、威圧的な態度で、しつこく同じことを言うのにうんざりしていました。それで、彼も彼らに皮肉を込めて言いました。「あなたがたも、こんなに何度もあれこれとあの方を質問するのは、あの方の弟子になりたいからですか。」
 ユダヤの社会では、パリサイ人たちは、表面的には尊敬されていました。人々は彼らを「先生」と呼んでいました。しかし、この男の人は、彼らの言葉に従わずに、皮肉を込めて言い返したので、パリサイ人たちは激しく怒りました。パリサイ人たちは、宗教家でしたが、本当に神を信じる信仰を持っていませんでした。彼らは、自分たちは正しい人間だと自慢していましたが、自分たちに反論する人に対して、自分の感情をコントロールできませんでした。彼らは罵ったと書かれています。「罵る」ということは激しい口調と汚い言葉を使って、相手をぼろぼろにしようとすることです。聖書には、そんなことをして良いとはどこにも書かれていません。人は、何も問題がない時は、正しい人として生きることができますが、痛いところを突かれると、その人の本当の姿が出てきてしまいます。これが罪の性質なのです。彼らの言葉「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。」の中に含まれている意味は何でしょうか。この言葉をもう少し補足を加えて詳しく訳すと、「お前のようなろくに教育を受けてもいない乞食が、あの悪霊につかれたあのイエスの弟子になりたいと言うのなら、お前の好きなようにしろ。俺たちは、旧約聖書最大の預言者モーセの弟子だ。いいか。神様はモーセに直接語られたんだぞ。知っているのか?お前が目を癒してもらった、あいつの正体が何なのか、怪しい奴に決まっている。」そんな感じの意味なのです。しかし、このパリサイ人たちの言葉は筋が通っていません。彼らは、自分たちが知っていることと、知らないことについて話しています。彼らが知っていたことは、旧約聖書によれば神様はモーセを通して語られたことです。彼らは自分たちがモーセを通して神様から与えられた律法を守って生きていることを誇りに思い、自分たちはモーセの弟子だと自慢しています。一方、彼らが知らないことは、「あの者がどこから来たのか知らない」ということでした。彼らは24節で、「私たちはあの人が罪人であることを知っている。」と言っていますが、どこから来たのか知らない人について、彼らはどうしてその人が罪人であると知ることができるのでしょうか。パリサイ人は、生まれつき盲目の人が目が見えるようになったという事実を自分の目で見ていながら、そのような力あるわざを行ったイエスを神と信じることを拒否しています。彼らは心に決めていたのです。どんなことがあっても自分たちはイエスを神とは信じない。従って、彼らはどんな事実を見ても、どんな証言を聞いても、絶対に信じようとしません。この姿は、今のアメリカのトランプ大統領支持者に似ています。彼らは、トランプ大統領の根拠のない主張を絶対的に信じています。トランプ大統領への投票が盗まれたという主張です。先進国で民主主義の国アメリカで、そんな不当な行いが起こるはずはないと思いますし、選挙管理員会も不正はなかったと報告していますが、彼らは、大統領の言葉以外、誰が何を言おうと信じません。パリサイ人もイエスに関して、どんな事実があっても信じようとはしないので、発言する言葉の中に矛盾することが出て来るのは無理もないのです。

 パリサイ人の言葉を聞いて盲人だった人は驚きました。30節で彼はこう言っています。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがた知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。」この人は、自分が生まれつき盲人でしたので、そんな自分が今見えるようになっているのはイエスのおかげであることを知っています。そして、そのような業はトリックでできるようなことではないので、彼はイエスが神であることを確信していました。ところが、これほどはっきりした証拠があるにも関わらず、イエスが神なのかどうか分からないと主張しているパリサイ人たちの態度に彼は驚きました。今でも、主イエスが神であることを示す証拠はいくらでもあるのに、頑なに、イエスを神と信じようとしない人がいますが、本当に残念なことです。この盲人は、何度も言っていますが、生まれつきの盲人でしたから、教育を受けていません。当時は、目の見えない人のためのケアという考えさえない時代ですから、盲人のための特別な教育というものもありませんでした。したがって、彼は、知識も乏しい貧しい乞食をしていた人にすぎないのですが、彼は、イエスによって目が見えるようになったことで、主イエスについてはいろいろなことを知るようになりました。したがって、主イエスに関しては、この男のほうが、宗教家であり旧約聖書の教師であったパリサイ人たちよりもはるかに良く理解していました。31節から34節まで、この人がイエスについて語っていることには、イエスに関する神学的な内容が含まれています。人間的に見ればまったく立場が逆転しています。この元乞食がパリサイ人たちにイエスに関することを教えています。31節で彼はこう言いました。「神は罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。」何と、立派な信仰の言葉でしょうか。ユダヤ教の専門家に対する堂々とした信仰教育です。実は、詩篇の66篇18節に「もしも不義を私が心のうちに見出すなら、主は聞き入れてくださらない。」という言葉があるのですが、この人が言ったことは、まさにこのみ言葉そのものでした。さらに、彼は次のように言いました。「神を敬い、神のみこころを行う者があれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられなかったら、何もできなかったはずです。」彼は、生まれつき盲人の目がイエスによって開かれたという事実を自分の体で体験しています。これはだれが何と言おうと否定できないことです。人間にそのようなことができるというような話は聞いたことがないので、これは神の働きに違いない。イエスは父なる神を敬い、父なる神の御心として私の目を開かれた。イエスに盲人の目を開く力を与えたのな神に違いない。神から出ていなかったら、絶対にイエスが私の目を開くことはできなかったはずだ。これが彼が言おうとしたことです。この人の言葉は、パリサイ人の言葉とちがって、ちゃんと筋が通っています。彼は、貧しい乞食でしたが、イエスと出会って、イエスを神から来た救い主であることを正しく理解して信じるようになりました。彼は、肉眼が見えるようになっただけでなく、信仰の目、霊的な目もだんだんはっきり見えるようになっていました。

 一方、パリサイ人たちはどうでしょう。この男の理路整然とした言葉に反論することができませんでした。しかも、今まで乞食をしていたような人間が、自分の専門である信仰について、教師のような口ぶりで語ったことに大きな憤りを感じました。彼らには、人から教えられる耳がありませんでした。傲慢だったのです。自分たちは、神について、聖書について、信仰について、何でも分かっていると思い込んでいました。彼らが行ったことは、この人を罵ることでした。彼らは言いました。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼らはこの人を会堂から追い出しました。宗教的に言えば、彼を破門にしたのです。今でも、多くの人は、イエスが行った奇跡を信じていません。聖書に記された超自然的な出来事はすべて作り話だと言います。人々は罪に支配されているので、信仰に関することは、聖霊をとおして神の力が働かなければ、この時のパリサイ人たちのように理解できないのです。生まれつきの盲人が見えるようになったという生ける証拠が目の前にいても、信じようとしません。しかし、主イエスと出会って、この盲人のように人生をまったく変えられた人がこれまでに数えきれないほどいるのです。有名な作曲家のベートーベンもその一人です。彼は30歳のころにちょっとした風邪をこじらせたために音楽家にとって一番大切な耳を悪くし、最終的に何も聞こえなくなりました。音のない世界に絶望したベートーベンは自分の弟子宛に遺書まで書いたのですが、彼は、その苦しみの中から神を信じる信仰に導かれました。彼の作人には心の苦しみを扱った作品がたくさんありますが、信仰によって変えられたベートーベンの音楽も変わりました。彼には依然として苦しみや悩みはありましたが、自分の不幸を嘆いたり悲しんだりすることなく、ただ神のことばに従って、最善を尽くせばよいのだと思うようになりました。そのような信仰から生まれたのが第九交響曲で、その中に、あの有名な「歓喜の歌」「喜びの歌」という合唱が作られたのです。これもまた、彼に神様の力が働いた結果でした。神には、このような大きな力があるのですが、生まれながらの人間は、そのことを理解することができません。あなたの目は見えているでしょうか。

2021年1月
« 12月   2月 »
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

CATEGORIES

  • 礼拝説教