2021年1月24日 『霊的な盲目』(ヨハネ9章35~41節) | 説教      

2021年1月24日 『霊的な盲目』(ヨハネ9章35~41節)

 去る1月20日にアメリカでバイデン大統領の就任式が無事執り行われました。その就任式の中で詩の朗読がありました。朗読した人はアマンダ・ゴーマンという22歳の黒人女性の詩人です。その詩の中で、彼女は、現在のアメリカの分断が将来一つになれるという希望を力強く語りましたが、その中に聖書からの引用がありました。それは、「人々はみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座るようになる」という言葉です。この言葉は旧約聖書に2回出て来ます。一度目は第一列王記4章25節ですが、ソロモン王の時代にはユダとイスラエルはともに自分のブドウの木の下やいちじくの木の下で安心して暮らしたと書かれています。イスラエルの民は12の部族で構成されていますが、実は、いつも一つの民として歩んでいたわけではなく、現在のパレスチナに定着した後、しばしば部族の間で争いがありました。ソロモンの死後、ダビデ・ソロモンが築いた帝国は南ユダと北イスラエルに分かれますが、この事実が示しているように、ユダ・ベニヤミンからなる南ユダとそれ以外の10部族からなる北イスラエルの間には絶えず緊張があったのです。それがソロモンの時代には安心して暮らすことができたと列王記1の4章25節は記しています。もう一つは預言書ミカの4章4節に出て来ます。今回の詩では、こちらが引用になっています。こちらは将来、神様がこの世界を支配される時の状況が語られています。その時には、国と国や民族と民族が争うことなく、人々は剣を鋤に変え、槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。とミカは預言しました。彼女は、アメリカが、今後、お互いが努力することによって、このような分断を助長するような社会ではなく、様々な異なるものを持った人々が一つになれると社会を作り上げようと訴えました。そして、最後に彼女はこう言いました。「そこにいつも光はあるのだ──私たちにそれを見ようとする勇気さえあれば。私たちがそれになろうとする勇気さえあれば。」この個所を、私は勝手に、この光を主イエスの光、そして、私たちがなるべき世の光」として解釈しました。私が今いる場所を、よりよいものへと変えていくために、いつもそこに光はあるのです。主イエスの光があります。私たちがイエスの光を見る勇気があれば、そして、私たちが主イエスに命じられているように世の光になる勇気があれば、私たちの周りの世界もより良い方向へ進んでいくのだと思わされました。彼女の詩は、私自身にも励みになりました。

 さて、本題に入りますが、ヨハネの9章は、生まれつき目の見えない人が見えるようになったという素晴らしい主イエスの奇跡で始まりました。その人は、生まれた時から生きて来た暗闇の世界から解放されて、まったく新しい生活が始まりました。彼は、今見ているすべてのものが新鮮であり、子供のころから分からないでいた多くのことが今、目が見えることで分かるようになって、どれほど喜んでいたことかと思います。これまでは誰かの世話を受けないと生きていくことができませんでした。しかし、今は、自分一人で好きなことをすることができる、行きたいところへ行くことができる、私たちにとって当たり前のことができるようになって、彼は大興奮していたはずです。しかし、彼は自分に起きた奇跡を心から喜ぶことができないでいました。当時のユダヤ人社会で大きな影響力を持っていたパリサイ人たちが、彼に起きた奇跡を喜ばなかったからです。なぜ、彼らは、こんな素晴らしい出来事を喜ぶことができなかったのでしょうか。生まれつきの盲人の目を開くことなど、神にしかできないことであり、この出来事を喜べば、自分たちがイエスを神だと認めることになるからです。彼らはイエスを神と認めないために、この人やこの人の両親にしつこく質問したり、つじつまの合わないことを言ったり、自分が持っている権威をつかって相手を脅したりしています。パリサイ人の言葉や行いの中には、人に対する思いやりや憐みはまったく感じられません。当時のユダヤ人たちは、動物のいけにえを捧げることで自分は神を礼拝していると思っていました。しかし、旧約聖書の預言者は何度も、彼らの形式的ないけにえを喜ばないと言っています。ホセア書6章6節でも神様はこう言われました。「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない。」パリサイ人は、自分の目を開いてくれたイエスを神から来た方だと信じているこの男の人を会堂から追い出しました。彼は、目が開かれて初めて、パリサイ人たちの本当の姿を知り、自分が生きている社会がどろどろしていることを知りました。喜んで生きるはずの人生に、彼はひどく失望したかもしれません。

 この男の人の目を癒した後、どこかに潜んでおられた主イエスは、男の人がパリサイ人たちによって会堂から追い出されたことを知って、彼を捜しに行かれました。そして、彼を見つけ出しました。神様は、私たちを探して、見つけ出してくださる神様です。そのことを人々に教えるために、主はある時、たとえ話をされました。それは100匹羊を持っている羊飼いのたとえ話です。1匹がいなくなったら、その羊飼いは、そばにいる99匹をそこにおいてでも、いなくなった羊を捜しに行きます。そして、その迷子になった羊を見つけたら大喜びで、近所の人々に「いなくなった羊が見つかった。わたしと一緒に喜んでくれ」と言います。これは、神様から離れた人間を、神様はあきらめることなく、見つかるまで必死になって探してくださる神であることを教えるたとえです。価値の低いものであれば、なくなった時に少し探して見つからなかったら、「まあ、いいか」とあきらめるかもしれません。しかし非常に価値のあるものだと、それが見つかるまで、必死になって探し続けます。神様は、私たちを見つけるまで必死になって探し出してくださるのです。神様は、これほどまでに、私たちを大切な自分の子どもとして見てくださいます。会堂から追放されたこの男の人を、主イエスは探し出して、彼を見つけ出しました。パリサイ人たちの中には、この男の人のこれからの生活を心配して思いやりを示した人は一人もいませんでしたが、憐みの主イエスは、この人の将来のために彼のところに来てくださったのです。
 このことから分かることは、人が主イエスを信じるようになるためには、自分の力だけでは不可能だということです。私たち一人一人イエスを信じる信じ方、導かれ方は違いますが、確かなことは、誰の場合でも、神様が先に私たちのために働いてくださったいうことです。主イエスの有名な言葉の中に「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」というのがあります。私は、この言葉が大好きです。私たちが何も知らない時にイエス様に選ばれていたとは、なんとうれしいことではないでしょうか。誰かが自分のことを選んでくれたというのは、その人が私に何かの価値を見つけたから選んでくれたということなのですから。

(1)霊的な視力
 主イエスは男の人を見つけ出しました。そこで主は彼に質問しました。「あなたは人の子を信じますか。」主イエスが人と話をするときに、あいさつの言葉や回りくどい言い方はせず、単刀直入に、その人に今一番大切なことを尋ねたり、話したりします。ギリシャ語では、日本語と同じように、話している相手に「あなた」と言うことはありません。ここでは、主は、「あなた、あなたは信じますか。」みたいな感じで「あなたはどうなんですか?」とちょっと応答を迫る感じで言われています。主がここで自分のことを「人の子」と呼ばれたのには意味がありました。当時のユダヤ人の多くは、旧約聖書が預言している救い主は、政治的な力を持つ救い主だと期待していました。つまり、彼らは異邦人のローマ人に支配されている自分の国をローマから救い出して独立させてくれる、そんな救い主を期待していました。そこで、イエスは自分で自分を呼ぶときには「救い主」という言葉を使わずに「人の子」と呼んだのです。人々のために仕えるためにこの世に来たと言うことを示す言葉だと思います。イエスの質問に対して、この人はこう答えました。「主よ。私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」この男の人は、目の前のイエスが自分の目を癒してくれた方とは分かっていなかったのです。彼は、目が見えない時にイエスに会っただけです。しかも、彼の場合は、イエスの目の前で癒しを受けたのではなく、シロアムという池で泥を洗い落とした時に、目が見えるようになりました。その後、しばらく、主イエスは彼がいたところには現れていないので、イエスの顔を知らなかったのです。そこで、主イエスは「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」と言われました。すると、彼はすぐに「主よ、信じます。」と言って、イエスを礼拝しました。彼は肉の目でも、主イエスの姿をはっきりと見ていましたが、それだけでなく、このイエスの言葉を聞いたときに、神様が彼の霊の目を開いてくださり、目の前に立っている方こそ、旧約聖書が長年にわたって預言してきた救い主メシアだと確信したのです。彼の信仰は少しずつ成長していました。この人は、目が見えるようになってから、何度も人々から、誰が目を見えるようにしたのか、繰り返し質問を受けています。最初のころは、「イエスという方が目が見えるようにしてくれた」と答えていましたが(11)その後には、「あの方は預言者です。」と断言しています。そして、会堂から追い出されたときには「あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」(33)と答えています。そして、今、目の前に立つイエスに向かって「主よ、信じます。」とはっきり答えています。彼の霊的な目が、このように少しずつ開かれてい行って、ついにここではっきりと信仰告白をすることができました。その信仰告白の後、彼はイエスを礼拝しました。この時、彼はどれほど幸福だったでしょうか。彼は、パリサイ人たちから会堂から追い出されるというつらい経験をしましたが、その後に、主イエスが自分を捜していたことを知り、彼は主イエスの愛を感じ取ったはずです。彼は、これから、周囲がどのように自分を扱うとしても、自分を選び、自分を大切にしてくださる主イエスとともに生きることの喜びで、将来への不安は消えたと思います。それは、私たちも同じです。この世の状況がどのようになろうと、私たちは主イエスの愛の中にあり、そのイエスの愛は永遠に変わることも消えることもないことを知っていれば、私たちは何も恐れる必要はありません。

(2)霊的な盲目
 39節で主イエスはこう言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」ここで、主が「わたしはさばきのためにこの世に来た」と言われましたが、ヨハネの福音書3章17節には「神が御子を世に遣わしたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」と書かれています。すると、39節の主イエスの言葉と矛盾するように思えます。神のひとり子主イエスがこの世に来られた目的は、確かにヨハネ3章17節に記されているように、この世を裁くためではなく、この世が救われるためです。しかし、主イエスの教えを聞いて従う人もいれば従わない人もいます。そのため、結果として、すべての人は、主イエスを信じて救われる人と、主イエスを信じないで滅びる人とに分けられてしまいます。それで、結果的に、主イエスはこの世の人々を2種類の人々に分けることになります。39節では、主はこのことを言っておられるのです。そして、今回の目が見えない人のように、初めは主イエスのことを知らなかった人が、主イエスと出会い、主イエスの奇跡を体験し、主イエスの教えを聞いて、主イエスを救い主と信じました。この人は肉眼が見えるようになっただけではなく、霊的な目も見えるようになったのです。一方、パリサイ人たちは、自分たちはモーセを尊敬しモーセの弟子なので、聖書の教えを分かっていると思っていましたが、彼らは、本当のところは、霊的に大切なことがまったく見えていない、霊的な盲目者だったことが明らかになりました。
 このイエスの言葉を聞いたパリサイ人たちは、主イエスに尋ねました。主イエスが目が見えるようになった人を捜して出会った時に、周りにパリサイ人たちがいました。彼らは、主イエスが39節で言った言葉を聞いていました。それで、彼らは非常に腹を立ててイエスに尋ねました。「私たちも盲目なのですか。」と新改訳では訳されていますが、実際には「お前は、まさか私たちが盲目だと言っているのではないだろうね。」といった感じで尋ねたはずです。パリサイ人たちは、一般の人々を、律法が分からない人間とみていました。ヨハネの福音書7章49節に彼らの言葉が記されています。「それにしても、律法を知らないこの群衆は呪われている。」彼らは、一般の群衆が霊的に盲目で、自分たちは律法のことをよく知っていると思っていました。彼らはユダヤ人の社会ではエリートでした。しかし、今回の出来事を見ても分かるように、彼らは自分たちが作り上げた伝統の細かいことにはこだわっていましたが、律法を通して神様が何を人々に求めているのか、そのようなことにはまったく無知でした。だから、彼らは、人を苦しみから救い出すイエスを見て憎んだのです。
 彼らの質問に対して、イエスは41節で次のように答えられました。「もし、あなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。」もし、パリサイ人たちが、自分は霊的に盲目であることを認めて、霊的な光を受けなければならないと認めるのであれば、その人には罪はありません。というのは、そのように自分が見えないことを認める人の罪は赦されるからです。しかし、残念なことに、パリサイ人たちは、自分は霊的な目が開かれていると思い込んでいたので、霊的な光は要らないと思っていました。もちろん、彼らはイエスの前で悔い改めることなどまったく考えていません。その結果、彼らの罪は赦されないまま残るのです。このことはパリサイ人たちだけに限ったことではありません。この世の多くの人は、自分が霊的に見えていないことが分かりません。そして、イエス・キリストに頼るよりも、自分で何とかできると考えています。特に、この世で成功し、いろいろな業績を残している人は、自分は他の人よりも偉いのだと思っていますから、なおさら、神様の前にへりくだることはできません。主イエスは言われました。「誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」あなたは、霊的な目が開かれているでしょうか。クリスチャンであっても、一度開かれた目がまた見えなくなることがあります。もう一度、キリストの言葉を真剣に受け止めて、キリストの言葉に従って生きて行きましょう。

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