2021年1月31日『救いの門イエス』(ヨハネ10章1-10節) | 説教      

2021年1月31日『救いの門イエス』(ヨハネ10章1-10節)

ヨハネの福音書の10章は、ほとんどが主イエスが語られた説教が記されています。英語の聖書には、主イエスの言葉のところは赤インクで印刷されたものがありますが、10章はページ全体が真っ赤になっているように見えるほど、主イエスが多くのことを語られました。そして、その中には有名な言葉もたくさんあります。一つ注意することは、現在の聖書には、それぞれの書物に章と節が付けられていて、み言葉を探す場合に便利です。しかし、時に、章に分けられていることによって、前後関係が断ち切られて、理解の妨げになることがあります。今日の個所もそのような場所です。10章は主イエスの「まことにまことにあなたに告げます」という大切なメッセージを語る時の言葉が記されていますが、これは誰に向かって話しているのか言うと、9章の最後の部分でイエスと話していたパリサイ人です。もし、9章の出来事と10章の出来事の間に時間のギャップがあったら、10章の最初の文章は、「それからしばらくして」とか「その後」という言葉が書かれているはずです。いきなり、主イエスの言葉で始まっているので、10章は9章と時間差なく続く出来事と理解しなければなりません。今日の主イエスのメッセージは、論争していたパリサイ人たちに向かって語られた言葉であることを覚えておくことが理解するカギになります。
 パリサイ人と議論する中で、9章では、主イエスは、神を信じる者と信じない者とを、光と闇に例えて話しておられましたが、10章に入って、主イエスは、羊飼いと羊という関係に例えて話しておられます。ユダヤ人の社会では、羊や羊飼いは、非常になじみ深いものです。ただ、今日の個所は2つの部分に分けて考えなければなりません。2つのたとえ話が記されているからです。1節から5節までに最初のたとえ話が記されています。ところが、このたとえ話を聞いていたパリサイ人たちは、主イエスが語られた言葉の意味を理解することができませんでした。そこで、主は、7節から10節までのところで、もう一度違う角度からたとえ話を語っておられます。

(1)真の羊飼いのたとえ(1-5節)
 主イエスがこのたとえ話をパリサイ人たちに語られたきっかけになったのは、主によって目が見えるようになった人が、パリサイ人たちによって会堂から追い出されたことでした。パリサイ人たちは、この男の人が生まれてからずっとどのような苦しみや悲しみを経験してきたのか、いっさい関心がなく、この人に対する愛もなく、ひどい扱いをしています。彼らが関心があるのは、自分たちの立場が守られること、自分たちが主張している考えを押し通すことでした。彼らの主張はただ一つ、主イエスがこの人を目を癒したのが安息日であったことから、イエスは神ではなく悪魔から来ているという点でした。彼らの考えを良く表しているのが9章16節の言葉です。主イエスが安息日に生まれつきの盲人の目を癒したということについて、あるパリサイ人はこう言いました。「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない。」彼らの考えは、安息日には何もするなということでした。その考えを基にしてすべてのことを判断していました。そんな彼らへのメッセージがこの第一のたとえ話です。
 イスラエルでは、羊は夜は囲いの中に入れられて、オオカミや泥棒やまた、悪天候から守りました。この囲いは、石を積み上げて造られていますが、2種類の囲いがありました。一つは田舎にある素朴なもので、四角い石垣の1か所が開いているもので、そこに扉はついていません。そのような囲いの場合は、羊飼いが羊を守るために、その開いているところで横になって自分が羊の門になって羊を守ろうとしていました。この囲いは、一人の羊飼いが自分の群れのために作るものでした。もう一つは、町の近くにあった囲いで、サイズも大きく、羊が出入りする場所は、オープンになっているのではなく、そこには扉がついていました。このような規模の大きな囲いの場合は、一人の羊飼いの群れだけではなく、何人かの羊飼いが共同で使用していました。各羊飼いは、夜になると自分の群れをこの囲いに連れ戻します。そして、羊を囲いの中に入れると、羊はその囲いの門番に預けて、自分は家に帰りました。そして、次の日の朝、羊飼いは、自分の羊を連れ出すために囲いに来て、羊を呼びます。羊は自分の羊飼いの声を知っているので、集まって来ます。羊飼いはこのようにして自分の羊を集めて外に連れ出し、その日にすることを終えると、また、自分の羊を囲いに連れてきて、門番に預けて、自分は家に帰ります。  
 このたとえ話で、羊飼いは主イエスを表しているのは明らかですが、他のものは何を表しているのでしょうか。まず、囲いですが、これは主イエスご自身が10章16節で言われた言葉から、イスラエルの国、特に、パリサイ人たちが支配していたユダヤ教の社会を表しています。しかも、今、主イエスはパリサイ人たちとの論争の中でこのたとえを話しておられるので、この囲いは、パリサイ人たちが教えていたユダヤ教に支配された社会を指しています。主イエスは「門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」と言われましたが、ここで、盗人とか強盗と言われた人は誰を指しているのでしょうか。本物の羊飼いは壁を乗り越えて中に入ることはしません。必ず、正しい者として門から入ります。門番も、羊飼いを知っていますから、扉を開けて羊飼いを中に入れます。羊飼いは自分の羊を集めるために羊を呼ぶと、羊は自分の羊飼いの声を知っていますから、走って羊飼いのところに集まってきます。そこから、羊飼いは、羊に食べ物や水を与え、羊に運動をさせるために、囲いから連れ出します。他の羊飼いたちも同じようにします。しかし、偽物の羊飼いは門から入ることはできません。門番に見つかると追い返されます。それで、彼らは、門番をだまして、ひそかに壁をよじ登って囲いの中に入ります。ただ、彼らが囲いの中に入って羊を集めようとしても、羊は彼らの声を知りませんから、彼らにはついて行こうとしません。そのために、偽の羊飼いは、羊を無理やり盗みだすしかありません。
 神様から遣わされた本当の救い主イエスは、本物の羊飼いと同じように、言わば、正しい道を通ってイスラエルの民のところに来られました。主イエスは、イスラエルの民を、羊を束縛している囲いの中から外に連れ出すために来られました。外に連れ出すと、主イエスは、イスラエルの民を緑の牧場や憩いの水のほとりに連れて行かれます。羊に豊かないのちを与えるためです。しかし、パリサイ人たちは、神様から遣わされた者たちではありませんでした。彼らは、羊を愛することなく、羊を世話しようとする思いもなく、ただ、羊を集めて自分たちの立場を強くしようとしていたのです。主イエスは、このたとえ話の中で、パリサイ人を盗人、強盗だと言われました。羊が盗人の声を聞いてもついて行かないのと同じように、パリサイ人たちには人々はついて行きません。しかし、主イエスは、神様から遣わされた本当の羊飼い、本当の救い主です。3節に「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」と書かれています。実際に、羊飼いは自分が世話をしている羊を一頭一頭見分けることができるそうです。私たちには皆同じ羊に見えても、羊飼いはそれぞれに名前をつけて、名前で呼ぶそうです。それと同じように、主イエスは、私たち一人一人を知っておられて、私たちを私たちの名前で呼ぶ方です。私たちは、誰かが自分のことを知っているとうれしいものです。神様はあなたのことを知っておられて、そして、あなたをあなたの名前で呼んで、「私のところに来なさい」と声をかけておられるのです。すべての人は神様から呼ばれています。しかも、神様は、私たちがどんな人間であるかすべてご存知です。もう少しはっきり言えば、私たちが神様の前には罪人であることも全部知っておられます。それでも、神様は私たちを名前で呼んでくださり、「わたしの羊になって、わたしの後について来なさい」と招いておられるのです。あの生まれつき目の見えなかった人は、イエスに出会うまでは暗闇の世界に閉じ込められていましたが、目を開いてもらって、新しい世界へと連れ出してもらいました。神様は、このように、罪に閉じ込められている私たちを、新しい世界、自由な世界、そして私たちを養う世界へと導きだしてくださるのです。

(2)わたしは羊たちの門です
 このように、主イエスは、自分を羊飼いにたとえ、パリサイ人を盗人や強盗に例えて話されたのですが、当然、パリサイ人たちにはイエスが話されたことの意味が分かりません。彼らは、自分たちが盗人や強盗だと見なされているなど想像もできなかったからです。彼らは、目の見えなかった男の人を会堂から追い出したのですが、自分たちが盗人のようなことをしていると思っていませんでした。そこで、主イエスは7節から10節まで、もう一つのたとえを話されました。この時に、主イエスが語っておられる羊の囲いは、最初のたとえの時のものとは違って、田舎にある素朴なタイプのもので、石を積み上げてつくった簡単な壁で土地を囲み、一か所が開いているタイプのものです。そこには扉はついていません。大きも、村にあるものよりも小さく、一人の羊飼いが個人的に使っていました。羊飼いは、自分が飼っている羊を夜になると、この囲みの中に入れます。ただ、この囲みの出入り口には扉がついていませんから、羊飼いは、出入口のところに横になって、文字通り、自分の体を張って羊を獣や盗人から守っていました。囲みの中にいる羊たちは、羊飼いがその囲みの門となって、入口をふさいでいる限り安全なのです。そのような囲みをイメージして、主イエスは7節で言われました。「まことに、まことに、あなたがたにいます。わたしは羊たちの門です。」そして、9節では、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」最初のたとえでは、主は、本当の羊飼いは、正しい方法で囲みの中に入り、そこから自分の羊を外に連れ出すということを語っておられましたが、2番目のたとえでは、ご自分の門を通って羊を囲みの中に導きいれるということを強調しておられます。主イエスが羊の門であることは、私たちとどのように関係するのでしょうか。
 第一に、その囲みに入る門は一つしかないということです。主は言われました。「わたしは門です。わたしを通って入るなら救われます。」聖書は、はっきりと言っています。私たちが罪赦され神の子とされ、永遠のいのちが与えられる道は一つしかありません。多くの人は死んだら天国に行くと思っていますが、その保証はどこにあるのでしょうか。本当に天国に行ったという確信をどのようにすれば持てるのでしょうか。それは希望的な願いです。しかし、聖書は、はっきりと約束しています。「主イエスを信じる者はひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つのである。」この聖書の約束の保証はどこにあるのでしょうか。それは、罪のない神のひとり子である主イエスが、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったことです。私たちは、この世界では良い人だと見られるとしても、聖なる神の前に立つ時には罪人です。罪ある者は罪のない神のもとへは行けないのですが、罪のない神の御子イエスが、私たちの身代わりになって死んでくださったことによって、私たちの罪を取り除いてくださいました。主イエス以外に私たちのために死んだ人はいません。イエスを通してでなければ誰一人父なる神のもとへ行くことはできないのです。
 第二に、その囲みに入る門は一つしかないのですが、良い知らせがあります。それは、9節で主が言われたように、「だれでも、わたしを通って入るなら救われる」のです。私たちが、人々を見る時に、その人にいろいろなレッテルはります。その人はどんな人なのか、どんな学歴を持っているのか、どんな会社で働いているのか、お金を持っているのかいないのか、どんな性格なのか、など、いろいろなチェックポイントがあって、この人はこんな人だという評価をしています。このように、私たちは周りの人を選別しています。しかし、神様は、私たちを見る時に、そのようなことをしません。その人が昔どんなことをしたのか、今はどんな生活をしているのか、そのようなことを神様はすべてご存知ですが、それによって人々に制限を与えることをしないのです。文字通り、だれでも主イエスを信じるなら救われるのです。ヨハネの福音書を10章まで読んできましたが、これまでいろいろな人が主イエスと出会って救われました。4章のサマリヤの女は街の人からは不道徳な女と見られていました。5章では38年間寝たきりの男が癒されましたが、主イエスはその人に「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」と言われました。このイエスの言葉は、その人が何か罪を犯したために体が寝たきりになったことを暗示しています。8章では、姦淫の現場を捕らえられた女の人に「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言われました。そして、9章では、生まれつき盲人で乞食をして生きていた男の人を癒されました。この世では、何の役にも立てない人でした。むしろ、神殿の入口で乞食をしていましたから、人々から追い出されることも多かったのではないでしょうか。パリサイ人たちからは会堂から追い出されました。しかし、彼は、主イエスによって救われました。主イエスは言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」イエスの門は、すべての人に開かれているのです。
 第三に教えられることは、「だれでも、わたしを通って入る人は救われる」ということです。つまり、その門は見ているだけではだめなのです。門、あるいはゲートというのは、中に入るために作られています。したがって、主が「わたしは門です」と言われた以上、私たちは、その門を通らなければならないのです。主イエスは、すべての人に対して、「わたしを通って中に入りなさい。」と招いておられます。中に入れば、私たちは罪の裁きと力から救い出されて、神と共に生きる新しい世界での生活が始まるのです。その生活とはどのようなものでしょうか。9節の後半にはこう書かれています。「また出たり入ったりして牧草を見つけます。」キリストの羊になって生きるとき、私たちは、神の愛、神の赦し、神の救いを経験します。出たり入ったりするとは、私たちは、自由にいつでも神様のところに行くことができるということを表しています。私たちは、危険な状況や困難な状況に出くわすことがあります。でも、私たちは、いつでも神様に祈ることによって、み言葉を読むことによって、さらに聖霊が働くことによって、いつでも神様の祝福や神様の守りを経験することができるのです。それが本当に豊かないのちの生活です。主イエスは、私たちにこの豊かないのちの生活を与えるために、この世界に来てくださいました。人生は一度しかありません。同じ一度きりの人生を生きるのであれば、生き生きとした人生を送りたいものです。主イエスの羊となって、イエスとともに生きる時、私たちは、豊かな人生を歩むことができます。あなたは、イエスの門を通られましたか?もしまだなら、今、通りましょう。

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