2021年2月7日『良き羊飼いイエス』(ヨハネ10章11-21節) | 説教      

2021年2月7日『良き羊飼いイエス』(ヨハネ10章11-21節)

イスラエルの人々にとって、羊という動物は非常に身近な動物でした。多くの羊が飼われていましたが、ほとんどの羊は、肉を食べるために飼われていたのではなく、羊毛や羊のミルクを飲むために飼われていました。羊は、力も強くなく頭もあまりよくないので、すぐ迷子になり、獰猛な獣の餌食になりやすいため、絶えず羊飼いによる世話が必要でした。聖書の中には、多くの羊飼いが出て来ます。最初の人間アダムの息子アベルは羊を飼う者でした。モーセは、40歳から80歳まで、ミデアンという場所で羊飼いをしていました。また、ダビデは、少年時代、羊飼いをして父親の仕事を手伝っていました。このように、主イエスの時代に羊飼いは身近な存在でした。羊が弱い動物で、羊飼いが羊を守るために世話をするその関係が、人間と神様との関係に似ているので、聖書の中には、神様を羊飼いに例える箇所が数多くあります。その中でも最も有名な言葉は詩篇23篇の1節です。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」です。羊は、頭はそれほど良くないのですが、とても従順な動物です。羊は、自分の羊飼いが自分を守ってくれているのを知っているので、羊飼いの声を聞くと、どこまでもついて行きます。羊は、羊飼いについて行きさえすれば、何も乏しいことがありません。この詩篇を書いたのはダビデですが、ダビデは、自分が羊飼いの仕事をした経験があったので、羊は羊飼いのそばにいる限り何も恐れる必要はないことを知っていました。今日の個所では、主イエスご自身が「私は良い牧者です。」と言っておられます。今日は、良い牧者、良い羊飼いである主イエスについて学びたいと思います。

(1)良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる
 主イエスは、11節で「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」と言われました。先週読んだ10章7節から9節のたとえの中で主は「わたしは羊たちの門です。」と言われましたが、先週お話ししたように、当時の羊飼いは、羊がいる囲いの入口に寝そべって羊たちを守っていました。羊は絶えず危険にさらされていました。羊を盗もうとする泥棒がいましたし、イスラエルには当時、ライオンやクマ、オオカミなど、羊を襲う獣がいました。そのために、羊飼いは自分のいのちをかけて羊を守っていたのです。主イエスは今日の個所で5回も繰り返して「いのちを捨てる」という表現を使っています。これは、主イエスが、ご自分の意志ですすんで十字架にかかられたことを表しています。表面的に見ると、主イエスは、敵対していたユダヤ教リーダーたちの嫉妬と憎しみによって、陰謀に巻き込まれて、殺されたという風に見えます。主イエスは殉教者だということですが、実際は、違います。人間がどのような陰謀を企んだとしても、主の御心でなければ、イエスを殺すことはできません。主は18節でこう言われました。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」主イエスの十字架の死は、私たちを永遠の滅びから救い出すために、自分から実行してくださった身代わりの死でした。誰かのためにいのちを捧げることなど、普通の人にはできません。主イエスが私たちのためにいのちを捨ててくださったのは、主が私たち一人一人を非常に大切な友として見てくださっているからです。かつてポーランドにコルベ神父というユダヤ人がいました。彼はユダヤ人ということでナチスに捕らえられ、アウシュビッツ収容所に送られます。1941年7月末、コルベ神父が入れられたいた建物の囚人が脱走しました。収容所では、1人脱走者が出ると同じ建物の10名が処刑されることが決まりになっていました。10人は座ることもできないような狭い牢に押し込められて、食べ物も水も一切与えられずに餓死するのでした。この時も、1人ずつ、選ばれた者の番号が読み上げられて行きました。すると、番号を呼ばれた1人が「私には妻と幼い子供がいます。どうか助けてください。」と泣き崩れました。すると、その時、コルベ神父が進み出て、ナチスの兵士に穏やかな声で言いました。「私はカトリックの神父です。もう若くもなく、妻も子供もいませんから、あの方の身代わりになりたいと思います。私を選んでください。」それで、コルベ神父は、その人と入れ替わって、牢に入れられました。その狭い牢屋の中で、コルベ神父は一緒に処刑される人のためにひたすら祈り、ともに讃美歌を歌っていました。1人、また1人息絶えていく中で、コルベ神父は意識を失わず生き続けました。2週間後、さすがに見かねた収容所の医師により薬剤を注射され、コルベ神父は天に召されました。その時、コルベ神父はなおも祈り続けながら自分の手を差し出した言われています。1941年8月14日没。47年の生涯でした。主イエスが言われたように、人が友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。コルベ神父は人として最大の愛を示しました。主イエスは、私たち一人一人のために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。そこに神の愛があるのです。だから、主イエス良い牧者なのです。
 一方、12節で、主は、良い牧者の反対の者として「牧者でない雇い人」について語っておられます。「牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。」この雇い人は、羊のオーナーから雇われて羊飼いの仕事をしている人です。羊は自分のものではありません。彼は羊のために働いているのではなく、自分の生活のために羊の世話をしています。雇い人にとっては羊のことよりも自分のことのほうが大切ですから、羊が危険に直面しても、自分のいのちを守るために、羊を置き去りにして逃げてしまいます。この「牧者でない雇い人」は、ユダヤ教の指導者たちのことを表しています。彼らは、目が見えるようになった男の人を大切な羊として見ていませんでした。彼らにとって大切なことは、自分たちの立場や権威が守られることであって、その人がどうなろうと、彼らは無関心でした。まして、彼らはその人を守り、助けるために何かしようという考えはまったくありませんでした。

(2)良い羊飼いは羊を知っている
 ヨハネの福音書の中で、「知っている」という言葉が繰り返し使われていますが、これは、単に知識として知っているという意味ではなく、神様と私たちとの間の非常に親しい関係を意味しています。例えば、ヨハネの福音書17章に、主イエスが父なる神に祈っている祈りが記されていますが、3節で、主はこう言われました。「永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」永遠のいのちとは、ただ、いつまでも生き続けることではなく、神様とともに神様の祝福の中で永遠に生きることです。誰が永遠のいのちを持っているかというと、主イエスキリストを知っている者です。その知っているとは、名前や顔を知っているという意味ではなく、一緒に生きることをによって知っているという意味です。親が子供のことを知っていて子どもも親を知っているように、夫や妻が互いに相手のことを知っている、そのように、ともに生きることで養われる親しい関係を持っている、それがここで使われた「知っている」という言葉の意味なのです。14節で、主は言われました。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」羊飼いは自分が世話をしている羊のことをよく知っていて、羊一匹一匹に名前をつけて呼ぶそうです。私たちの目にはどれも同じ羊に見えても、羊飼いにはそれぞれの違いが分かるのです。しかも、15節で、その知り方について、「父が私を知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。」と言われました。父なる神と御子イエスは三位一体の神です。父なる神、子なる神、聖霊なる神が完全に一つの神となって存在しています。その関係がどれほど密接なものなのか、私たちには理解できないほどです。主イエスは、私たちのことをそれと同じように知っていると言われました。誰かが自分のことを知っている、誰かが自分の気持ちを理解しているということは、私たちには大きな力、大きな慰めになります。では、主イエスは私たちの何を知っておられるのでしょうか。
 第一に主は私たちの名前を知っておられます。3節で、主は「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」と言われました。私たちの人間関係において、名前を知っている人と知らない人では、その親しさは全然違います。イザヤ書の中で神様は私たちにこのように言われました。「恐れるな。わたしがあなたをあがなったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」名前をつけるというのは、子どもでもペットでも、自分のものとするということを表しています。神様は、私たちを名前を呼んでくださるのは、自分のものであると宣言しておられることなのです。もし、天皇陛下が皆さんの名前を知っていたら、きっとびっくり仰天するほど、嬉しいと思います。しかし、神様は天地万物の創造主です。全知全能の神です。その神様があなたの名前を知っておられます。あなたの名前を呼んでくださいます。すごいことではないでしょうか。第二に、主イエスは私たちがどのような人間なのか、私たちの性格を知っておられます。同じ親から生まれてきても、子供は一人一人個性を持っています。動物にも性格があります。うちの家ではウサギを飼っているのですが、今のは2代目のルカちゃんです。同じネザーランドドゥオーフというウサギで、見た目は同じなのですが、1代目と2代目では性格が全然違って、飼い主に対する態度が違います。その違いは、いつも一緒にいる飼い主には分かりますが、他の人にはまったく分からないことです。良い羊飼いも、羊のことを良く知っています。ある羊は高所恐怖症だとか、ある羊は注意力散漫ですぐ迷子になるとか、ある羊は反抗的だとか、一匹一匹を知っているのです。そして、その性格に応じて、羊の世話をします。神様は、私たち一人一人の強さや弱さを全部知っておられるので、その人に相応しい対応をされます。最近よく引用される聖書の言葉に、「神様はあなたがたに耐えられない試練に合わせることはない」第一コリント10章の言葉がありますが、なぜ、そうなのかと言えば、神様が一人一人の力量を知っておられるからなのです。聖書でも、神様は一人一人に対する対応が違います。ヨブには非常に厳しい試練を与えられました。一方、ギデオンは、臆病な性格だったので、ギデオンのわがままな願いを聞いておられます。このように、神様は、私たちの性格をよく知っておられます。そして、第三に、主は、私たちの必要を知っておられます。ダビデは詩篇の23篇の1節で、「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」と言っています。羊飼いは羊が何が今必要なのかをよく知っているので、水を飲ませに出かけたり、運動をさせたり、必要な食べ物を与えるのです。羊飼いがこのように羊の世話をすると、羊も羊飼いのことを知るようになります。いつも羊は羊飼いの声を聞いています。映像で見たことがありますが、牛飼いが牧場で牛を放牧していて、牛舎に帰る時間になったので、大きな声で牛を呼ぶと、突然、牛が全速力で走って集まって来ました。ところが同じことを別の人がやっても、牛はまったく反応を示しませんでした。牛も飼い主の声を知っています。羊も同じです。いつも羊飼いの後をついているうちに、羊は羊飼いのことをより深く知るようになります。そのようにして羊と羊飼いは楽しく毎日を過ごします。それは、私たちも同じです。主イエスの言葉を聞けば聞くほど、主イエスと共に時間を過ごせば過ごすほど、主イエスのことをより深く知る者となり、神様とより深い交わりを持つようになるのです。神様と親しく交われることがクリスチャンにとって最大の特権だと思います。

(3)良い羊飼いは羊の群れを一つにする
16節で、主は言われました。「わたしには、また、この囲いに属さない他の羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、自一つの群れ、一人の牧者になるのです。」ここで、この囲いに属さない他の羊たちとは、神様が選ばれた民であるユダヤ人ではない、異邦人のクリスチャンたちを意味します。私たち日本人も異邦人ですから、私たちもこの囲いに属さない羊です。主イエスは、ユダヤ人たちと私たちクリスチャンを一つの群れにすると言われました。主イエスは、どんな方法で、一つの群れを作ろうとしておられるのでしょうか。それは、主イエスが、私たちの身代わりになって、十字架で死なれたことによってです。旧約聖書の時代のエルサレムの神殿には、神殿の周りにいくつかの庭がありました。そこでは、ユダヤ人と異邦人ははっきりと区別されていました。神殿の一番近くに行けるのはユダヤ人の男性でした。それでも、誰一人として、神のもとにまで行くことは許されていませんでした。神殿の一番奥の至聖所と呼ばれた場所は、神様がおられる場所と見なされていましたが、誰も入ることは許されていませんでした。そのため、至聖所の前には、天井から床まで分厚い幕が垂れ下がっていました。その幕の内側に勝手に入る者は必ず死ぬと言われていました。ところが、主イエスが十字架で息を引き取った瞬間、その神殿の幕が上から下に真っ二つにさけて、人間と神様とを隔てていたものがなくなりました。もう、主イエスの十字架の前では、ユダヤ人も異邦人も区別なく、神を信じる者はいつでも神様のところへ行くことができるようになりました。私たちは、いつでも、どこでも、神様に祈ることができます。神様とお話ができるのです。私が毎年奉仕しているケズイックコンベンションという集会のモットーはガラテヤ人への手紙3章28節ですが、こういう言葉です。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」これは、当時の人々にとって、ある意味、革命的な言葉でした。キリスト教会の中にも、最初のころ、ユダヤ人クリスチャンと、ギリシャ人をはじめとする異邦人クリスチャンの間に、「キリストにあってみな一つ」という考えを十分に受け入れられずに問題になることがありました。でも、神様は、人々が、キリストにあって一つになることを願っておられます。最終的には、世界中がキリストにあって、一つの群れになることを神様は願っておられるのですが、その第一歩は、まず、私たちの教会が一つの群れとなることです。教会には、いろいろな人が、いろいろな背景や文化から集まって来ます。そのため、私たちはいろいろなことについて異なった意見を持っています。それは当然のことです。しかし、主イエス・キリストの十字架によって、すべての人は罪を赦されるという経験を持ちました。従って、私たちは、主イエス・キリストにあって一つなのです。主イエスは、私たち罪人を罪から救うだけでなく、私たちを養い、守り導く魂の羊飼いとして来てくださいました。その羊飼いイエスの願いを、私たちも自分の願いとして、北本福音キリスト教会が一つの群れとして歩み続けることが、神様の御心です。そして、主イエスの究極の願いは、この世のすべての人がキリストにあって一つになることです。主の羊としての私たちの使命は、世界がキリストにあって一つになるという壮大な目標をに向かって前進することですが、まず、自分ができるところから、私たちのすぐそばにいる人々を主イエスの囲いに導くことではないでしょうか。今、世の中は分断の時代です。意見が異なる人を受け入れない傾向が強い時代です。しかし、私たちは主の願いを実現する群れとして歩み続けなければなりません。

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