2021年2月21日「一つになって前進しよう」(エペソ4章1-6節) | 説教      

2021年2月21日「一つになって前進しよう」(エペソ4章1-6節)

 今日は、使徒パウロが書き送った手紙の一つである「エペソ教会に充てた手紙」を取り上げます。パウロは、生涯を通じて3回伝道旅行を行いました。彼の宣教活動によって、各地に教会が生まれましたが、パウロは、教会がある程度出来上がると、その教会のリーダーに後を任せて、伝道旅行を続けました。しかし、それぞれの教会にはいろいろな問題が起きていて、教会の人々は手紙や人を送ってパウロに相談していました。そんな状況の中で、パウロはいくつかの教会に手紙を書き送っていますが、彼の手紙には一つ特徴がありました。それは、最初に、クリスチャンとはどういう立場なのか、クリスチャンとして生きることがどれほど素晴らしいのか、そのようなことを書きました。そして、その後で、クリスチャンとしてどのように生きるのがふさわしいのかということを書いています。今日取り上げたエペソ教会への手紙の場合は、全部で6つの章がありますが、前半3章後半の3章に分かれていて、4章から、クリスチャンとしてどのように生きるべきかということ記しています。
 私たちは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって罪赦され、神のこどもとなる特権が与えられました。私たちは、神の家族という人々の集まりに加えられたのです。世界中のクリスチャンとともに、神の家族という大きなグループに属する者になりました。また、毎日の信仰生活のために、私たちは、それぞれ地域にある教会に属しています。私たちは、日ごろの生活の中でも、いろいろなグループに属しています。仕事をしている人は会社という組織、学生は学校という組織、スポーツクラブに入っている人、あるいはラインのグループのメンバーになっている人、このように私たちは何かのグループに属しています。そのようなグループに入る時は、そのメンバーは、そのグループの目的、規則に従うことが求められます。日本人なら、日本の法律、会社員であれば、会社の規則、ラインのグループなら、そのグループの中で決めたことなどに、レベルの違いはあっても、一つのグループが良い状態で続いて行くためには、そのグループのルールに従うことが求められますし、また人々は、自分からすすんでそのルールを守ろうとします。ところが、クリスチャンの場合、ちょっとその点がうすいように思います。私たちは、主イエスを信じたことによって、すべての罪が赦されて、神の家族に迎えられて、永遠のいのちが与えられました。また、毎日の生活では、いつでも神様に祈ることができ、また聖書から神様の教えを受けることができます。このように、クリスチャンになると、本当に多くの恵みや将来の希望が与えられるので、そのことを喜び、満足して、クリスチャンの群れの一員としてどのように生きるべきかという、自分の責任についてあまり考えないのではないかと思うのです。パウロは、エペソ教会に書き送った手紙の中で、4章から6章の中で、同じ恵みと約束を受けたクリスチャンは、神様の御心にかなう生き方をするために、神様の栄光を現わすために、どのように生きる責任があるのかということを書いています。
私たちクリスチャンは2つの教会に属しています。一つは全世界のクリスチャンとともに、神の家族という大きな一つの群れに属しています。これを「普遍的教会」と言います。したがって、私たちは、外国に出かけて行って、現地の教会に行けば、歓迎されますし、同じ神の家族に属する兄弟姉妹として扱われます。同時に、私たちは、日ごろの信仰生活を行う場所として、それぞれ、自分の住んでいる地域にある教会のメンバーになっています。これを「地域教会」と呼びます。私たちの場合は、北本福音キリスト教会という地域教会のメンバーです。パウロは、エペソ人への手紙の4章1-6節で、クリスチャンとして生きる責任として、最初に、自分が属する群れの中で「一致する」ことを教えています。

(1)一致を作り出す性質(2節)
パウロは、教会が一致するために必要なこととして、私たちがどのような性質を持つべきであるのかを教えています。2節にはこう書かれています。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍びなさい。」パウロはここで、教会が一致するのに必要な4つの性質を上げています。最初の二つの性質は「謙遜と柔和」です。実は、当時のローマ帝国の社会では、謙遜という性質は、奴隷に必要な性質だとして、一般の人にはマイナスイメージの強い性質でした。当時のローマ帝国で称賛されていのは、自信にあふれた堂々とした人、人々を強力に引っ張って引くヒーロータイプの人間でした。さらにパウロは謙遜に加えて「柔和」という性質を持つようにエペソ教会の人々に勧めています。「柔和」は、弱い人の性質とみられがちですが、柔和とは、常に自分の感情をコントロールする力を意味するのであって、臆病とか、根性がないのとは違います。主イエスご自身、自分のことについて次のように言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」主イエスの柔和と謙遜はどんな形で現れたでしょうか。それは、私たち罪人のために、自分から進んで十字架にかかってくださったことに現われており、また、自分を十字架に磔にした人々に対して、復讐をするのではなく、「父よ、彼らをお赦しください。」と十字架の上で真っ先に祈ったように、罪人の罪を赦すことができるという力でした。
 謙遜と柔和に加えて、あと2つの性質をパウロは挙げています。それは、「寛容を示すことと愛をもって互いに耐え忍ぶこと」でした。「寛容」と訳されている言葉はギリシャ語で、マクロシューミアというのですが、これは2つの言葉を合成して造られた言葉です。マクロは「長い」「広い」で「シューミア」は心という意味です。長く苦しむことに耐えるという意味から、忍耐、寛容と訳されています。自分にとってマイナスの状況でも、その状況に怒りや失望などの感情に流されないで、乗り越える力を意味します。例えば、アブラハムは75歳の時に、神様から子どもが与えられるという約束を受けましたが、その約束が実現するのは25年も後のことでした。ローマ人への手紙のパウロの言葉を借りれば、アブラハムは不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて神を信仰しました。その忍耐は大きな力です。しかも、寛容と一緒に言われていることは、「愛をもって互いに耐え忍ぶ」ことでした。ペテロは自分が書いた手紙の中で「愛は多くの罪を覆う」と言いました。また、旧約聖書の箴言10章12節には、「憎しみは争いを引き起こすが、愛はすべての背きをおおう」と書かれています。愛は、人間的に足らない部分をカバーするものだと教えていますが、これは、私たちが持っている人間の愛では不可能です。ギリシャ語には愛を表す言葉が3つあります。エロスとフィリアとアガペーです。エロスは、基本的に自己中心的な愛で、相手から何か得になるものを得ることができるからその人を愛するという愛です。フィリアは「同士愛」「兄弟愛」と訳されますがギブアンドテイクの愛です。相手から何かを得ることができるならこちらも相手に何かを与えようと考える愛です。それに対して、アガペーは、相手から何も得るものがないとしても、こちらから一方的に与える愛です。主イエスがマタイの福音書5章の中で「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われましたが、それがアガペーの愛です。これは主イエスが十字架で表された愛で、私たちのうちにはありません。私たちは、心を合わせて、このアガペーの愛を祈り求めるとき、聖霊が働いてこのアガペーの愛を受け取ることができます。私たちは、いつも、自分のうちにないアガペーの愛を与えてくださいと祈り続けなければなりません。その時に、私たちは「愛をもって互いに耐え忍ぶ」ことを実践できるのです。教会の中に一致をもたらす性質は、神様から与えてもらわなければなりません。

(2)教会の一致はどこから来るのか(4-6節)
 ここまでパウロが語ったことから明らかなことは、教会の一致は、この世のグループのように、ルールを決めることで実現するものではありません。教会の一致は、神様から与えられなければなりません。それを示すために、パウロは4節から6節で教会の一致がどこから来るのかを教えています。多くの学者は、この部分は、初代教会の人々が礼拝の中で信仰告白の賛美として歌っていた言葉だと考えています。3つの節の中に7回、一つとか一人という言葉が出て来るのですが、これはすべて、三位一体の神が一致しておられるという土台の上にあるものだということを教えています。4節には聖霊の働きが記されています。「からだは一つ、御霊は一つです。」一つのキリストの体を作り上げるのは聖霊の働きです。私たちが、主イエスを救い主と信じますと信仰告白しますが、パウロはこの信仰告白は聖霊の働きがなければできないと述べています。私たちは、皆、これまで生きて来た背景が違います。当時の教会にも様々な人がいました。当時は自由人と奴隷という区別もありました。初代教会にはユダヤ人と異邦人という区別もありました。男と女の区別もありました。しかし、聖霊が働いて、私たちが主イエスを信じる信仰に導かれると、そのような区別はすべてなくなり、一つのキリストの体が生まれるのです。クリスチャンは一人一人が聖霊の宮だと言われています。その聖霊の宮である者たちが集まる時に、一つの体としての教会が建て上げられるのです。体にはいろいろな部分があって、それぞれの働きは違いますが、お互いに一つの体として動いています。各部分が脳からの指令に従って動くからです。教会の一人一人が聖霊の導きに従うときに、教会という体が一つとなって動くのです。第二に、5節には御子イエス・キリストの働きが述べられています。「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」主はひとりというのは、もちろん御子イエス・キリストのことです。クリスチャンとは、御子イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって罪赦された者であり、救われた者です。つまり、イエス・キリストが救い主であるという一つの信仰を持っている者の集まりが教会なのです。また、一つのバプテスマと言われています。ここで「一つ」と言われているのは回数のことではありません。初代教会の時代、洗礼を受けることは非常に重要なことでした。それは、洗礼を受けて救われるということではなく、
また、自分が霊的な祝福を受けるためでもなく、自分のアイデンティティを人々に知らせるためのものでした。つまり、私は、主イエス・キリストを信じる者として、イエス・キリストと結ばれていることを宣言するためのものでした。ガラテヤ書の3章27節には「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」と書かれています。一つのバプテスマというのは、教会で洗礼を受けた者は、皆、御子イエス・キリストにつながっていることを現わしているのです。コリントの教会には、分裂しそうな雰囲気がありました。パウロが始めた教会でしたが、そこにアポロという有能な指導者が現れたことで、教会の中に、「パウロにつく」「アポロにつく」さらには「ペテロにつく」と言う人々が現れて混乱していました。従って、パウロは、コリント教会の人々に、「あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたとは言えませんよ。」と言わなければなりませんでした。今、私たちは、洗礼を受けるとその教会のメンバーになります。しかし、私たちは、「北本福音キリスト教会」の洗礼を受けたのではありません。もちろん「小西直也」の洗礼を受けたのでもありません。だれもが御子イエス・キリストに結びつく洗礼を受けたのです。
そして、最後に、私たちの父なる神は一人です。兄弟同士で性格や能力が全然違う場合が多いです。私も兄とは性格も違うし、それぞれ得意なものも違います。体格や顔も違います。しかし、私たちは同じ父を持ち同じ母を持っています。最近、私たちは母を亡くしました。兄は母がいない部屋に一人で生活をするようになりました。おかげで、私は兄といっしょに過ごす時間が長くなりました。
兄の部屋に行って話したり、一緒にテレビを見たり、特に、いろいろ父や母の思い出話をするようになりました。私たちは違うところだらけですが、一つの共通点を持っています。同じ両親から生まれたということです。6節は日本語ではまどろっこしいのですが、英語もギリシャ語もすごく短いです。God the Father is one above all, through all and in all.こっちのほうが覚えやすいですね。私たちクリスチャンは皆、同じ親を持つ者なのです。

(3)教会の一致のために私たちがするべきこと
 このように教会の一致は、三位一体の神の土台の上に作り上げられるとはどういう意味があるのでしょうか。それは、その一致は壊されることなく、永遠に続く一致であるということです。しかし、現実には、教会の中に分裂があったり、実際に教会が二つの教会に別れれてしまうことも起こります。なぜ、そうなるのでしょうか。それは、私たちがしなければならないことを怠っているからです。3節にはこう書かれています。「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」キリストの体である教会を一つにするのは聖霊の働きです。しかし、私たちには、その一致を保つように、熱心に祈り求めることが命じられています。新改訳で「熱心に」と訳されている言葉は、ギリシャ語では2つの意味があります。「あらゆる努力をしなさい」という意味と「急いでやりなさい」という意味です。ここでは、両方の意味が込められていると思います。それは、教会が一致することがそれほど大切だからです。教会の一致は、私たち一人ひとりが熱心に求めなければ保たれないものなのです。私たちは、信仰によって罪は赦されましたが、罪の性質が残っています。そこをサタンがついてきて、教会に不一致をもたらして、教会をつぶそうとしているからです。教会の一致に必要なのは先ほど述べたように、アガペーの愛です。神様が持っておられる愛です。自己主張する愛ではなく、自己否定する愛が必要なのです。私たちはアガペーの愛が注がれるように祈り求めて、互いに教会の一致を熱心に保つ者でありたいと思います。

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