2021年3月7日 『愛のささげもの』(マルコ14章1-11節) | 説教      

2021年3月7日 『愛のささげもの』(マルコ14章1-11節)

今年は4月4日が主イエスの復活を祝うイースターです。3月の礼拝説教は、いったんヨハネの福音書を離れて、マルコの福音書14章から、主イエスの十字架にいたるまでの出来事を見てみたいと思います。1,2節を読みましょう。過越しの祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長と律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。彼らは「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない。」と話していた。過越しの祭りは、旧約聖書の時代、エジプトの奴隷になっていたイスラエルの民が、神様の助けによってエジプトを脱出した時のことを記念するお祭りで、ユダヤ人にとって最も大切な祭りでした。この祭りはユダヤのカレンダーで1月14日に祝われていましたが、私たちのカレンダーでは3月末から4月に相当します。そして、翌日の15日から21日までの1週間「種なしパンの祭り」が続けて行われました。これもエジプト脱出を記念する祭りですが、特に、その時急いで逃げるため、時間がなかったので、人々はイースト菌を入れないパンを焼いて食料にしました。そのことを記念とする祭りでした。この2つの祭りはもともとは別の祭りでしたが、イエスの時代には1つの祭りと考えられていました。この祭りは、奴隷だったイスラエルの民が大国エジプトに勝利したことを記念する祭りだったので、祭りに参加する人々の気分は愛国心とプライドで気分が高まって、下手をすると暴動になる危険がありました。ユダヤ教の指導者である祭司長たちと律法学者たちは、イエスを捕らえて殺そうとしていましたが、一般の人々の間では、イエスの人気が非常に高かったので、祭りの時に、これを実行すると、どんな暴動に発展するか分かりません。彼らはローマ帝国が宗教に寛容であったことを利用して、ローマ帝国支配の中でも、大きな特権を握っていました。もし、暴動になれば、ローマ帝国の締め付けが厳しくなり、自分たちの特権も奪われるかもしれないので、彼らは過ぎ越しの祭りが終わり、外国から祭りに参加した人々が皆、帰って行った後にイエスを殺すのがベストだと考えていました。人間的に見れば、死刑に値するようなことを何一つしていないイエス・キリストが十字架につけられたのは、ユダヤ教指導者たちの妬みと反感を買ったために、彼らの陰謀によって十字架に掛けられたと見なされています。しかし、主イエスが十字架にかかられたのは、ユダヤ教指導者の陰謀の結果ではなく、神様が、永遠の昔から計画しておられたことだったのです。ユダヤ教指導者たちは、民衆の動きを警戒して過越しの祭りが終わってからイエスを殺そうと考えていましたが、神様は、主イエスが十字架にかかるのは過越しの祭りの時と決めておられました。それは、主が十字架にかかるのは、私たち罪人が罪の裁きを受けて滅びることがないように、私たちの身代わりになって十字架という罪の罰を受けるためだったからです。過越しの祭りが祝う過越しとは、イスラエルの民がエジプト脱出した時の出来事でした。イスラエルの民はエジプトを脱出しようとしましたが、エジプトの王ファラオは、彼らが出て行くのを妨害しました。そのため、神様はエジプトに9回様々な災いを与えました。しかし、ファラオは、頑なに、イスラエルの民が出て行くことを拒みました。それで神様が最後の災いとしてエジプトに与えたのは、エジプト人の家庭で、最初に生まれた子供や家畜が滅ぼされるというものでした。この災いの時、イスラエルの民の家は、特別な方法で守られました。彼らは、神様から、家の入口の両側と上の部分に羊の血を塗るようにと命じられました。すべてのイスラエルの民の家の入口には羊の赤い血が塗られました。そして、その夜、神の使いが送られて、エジプト人の家に最初に生まれた家畜や赤ちゃんが皆殺されました。しかし、神の使いがイスラエルの民の家に来た時、その使いは、戸口に塗られた羊の血を見て、その家を過越しました。そのようにして、イスラエルの民の家に最初に生まれた子供も家畜も皆守られました。エジプト王ファラオの長男も死にました。それで、ついにファラオはイスラエルの民が出て行くことを許したのです。過越しの祭りはその出来事を記念する祭りでしたが、イスラエルの民がみ使いから守られたのは、羊の血が入口に塗ってあったからです。羊の血が彼らを滅びから守りました。これは、まさしく、主イエスが十字架で流される血を現わしています。イエスの十字架が、私たちを永遠の滅びから守るのです。だから、主イエスの十字架の死は過越しの祭りの時でなければなりませんでした。ユダヤ教指導者たちは、それまでにも何度もイエスを殺すために捕らえようとしましたが、一度も成功しませんでした。なぜなら、神の時である過越しの祭りの時ではなかったからです。そして、彼らがイエスを殺すために最も避けたかった過越しの祭りの時に、イエスは十字架にかかられました。それは、イエスの十字架という出来事は、人間が起こした陰謀の結果ではなく、神様がすべてを支配しておられて、神様が決められた時に実行されたからです。
 3節に「さて、イエスがべタニアで、ツァラファトに冒された人シモンの家におられた時のことである。」と書かれています。実は、他の福音書を見ると、この出来事は、過越しの祭りが二日後に迫っていた日ではなく、もう少し前の出来事であることが分かります。福音書は、人の伝記や記録と違って、時間の経過の順番通りに書かれている訳ではありません。福音書はイエスが救い主であることを知らせるメッセージなので、そのメッセージの中で強調したいことがあれば、順番を無視して、出来事を並べることがあります。この個所もその一つです。ここでは、一人の女性が主イエスに示した愛の出来事が記されていますが、直前の1,2節では、祭司長たちと律法学者たちがイエスを殺す相談をしています。また、直後の10節11節では、弟子の一人のイスカリオテのユダがイエスを裏切ろうとしています。この二つの出来事の間に、この一人の女性のイエスに対する愛情あふれる行為が書かれているのは、イエスに対して愛を表している人間と憎しみを表している人間が対比するためなのです。
 14章3節から9節の出来事は、古い病名ではライ病から快復したシモンという人の家での出来事です。場所は、エルサレムの東にあるベタニヤという村でした。その村にはイエスと親しい3兄弟、マルタ、マリア、ラザロが住んでいたので、彼らも、シモンの家に来ていました。恐らく、シモンは主イエスにライ病を完全に癒してもらったので、その感謝を表すために、イエスと弟子たちを家に招いてご馳走をふるまおうとしていたのでしょう。主イエスと弟子たちは食事をするために、低いテーブルの周りに横になっていました。当時は今のような椅子とテーブルではなく、座卓のようなテーブルの周りに寝そべって食べていました。すると、一人の女性が非常に高価なナルド油がはいった壺を持ってきて、その壺を割ってイエスの頭にその油を注ぎました。さらに、ヨハネの福音書によると、彼女はイエスの足にもナルドの香油を塗って、自分の髪の毛で主イエスの足をぬぐいました。また、ヨハネの福音書には、その女性はマルタの妹のマリアであったと書かれています。たちまち、部屋の中にナルド油の良い香りが広がりました。食事の最中に、イエスの頭や足に香油を塗るというのは、周りの人にとっては、かなりびっくりする行為です。しかし、マリヤにとっては、何とかしてイエスに自分の感謝の気持ちを伝えたいという思いから出た行いでした。この出来事の直前に、彼女の弟ラザロがいったん死んだにもかかわらず、主イエスによって奇跡的に生き返るという奇跡が起こりましたので、彼女は、その感謝の気持ちを主イエスに現わしたかったのではないでしょうか。確かに、普通の人はしないようなことをマリアは行いました。周りの人は、その行いの外側しか見ることができませんが、大切なことはその行いそのものよりも、どのような気持ちでその行いが行われたのかということです。彼女は、自分がやっていることが自分にとって経済的に損することなのかどうか、自分がやっていることは普通の人がよくやることかあまりやらないことか、そのようなことは全く考えていません。ただ、自分の気持ちを、自分で考える限りベストな方法でイエスに現わしたいと思って行ったことでした。香油の壺というのは電球を逆さにしたようなかたちで、首のところがすごく細くて、油がでる穴も非常に小さくなっています。今も、純粋なアロマオイルは、非常に高価であり、一回に使うのはほんの少しなので、容器の穴は小さくなければなりません。マリアが持っていたナルドの香油も、普通は1回にほんの少し使うものでした。しかし、マリアはその壺を割ったと書かれています。日本語では単に「割る」と訳されていますが、ギリシャ語では、「こなごなに砕く」という強い言葉が使われています。このナルドの香油は、イエスの弟子が言っているように、売れば300デナリになるほど高価なものでした。ナルドという植物からとれる香油なのですが、ナルドの原産地はインド北部で、遠くから輸入されていたため、イスラエルでは非常に高価なものでした。300デナリとは、日本円で300万円ぐらいです。それが入った壺を、思い切って割る、私にはできないことです。少しでもお金の計算をしたら、この壺を割ることはできません。しかし、マリアは迷うことなく壺をわり、惜しげもなくその香油をイエスの頭と足に注ぎました。
 部屋の中に素晴らしい香りが満ち溢れましたが、そこに居合わせたイエスの弟子たちは、喜びませんでした。4節を読みましょう。「すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。『何のために香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。』」ヨハネの福音書を見ると、この言葉を言ったのはイスカリオテのユダでした。イスカリオテとは、「カリオテの人」という意味です。彼は他の弟子たちと違って、ガリラヤ地方出身ではなく、エルサレムに近いユダヤ地方の町カリオテの出身者だったために、初めから他の弟子たちカリオテ人ユダと呼ばれていました。彼は、弟子の中で会計を担当していましたので、いろいろなものの値段には詳しかったのでしょう。マリアがイエスの頭と足に香油を注いだ時に、かれは頭の中で計算機を働かせて、すぐに香油の値段を計算しました。ユダは、イエスに300万円する香油を注ぐことは無駄なことだと考えました。そして、300万円のお金で食べ物を買えば、多くの人を助けられると言いました。実際に、過越しの祭りで行われることの一つに、貧しい人のために食べ物や着る物者を配布するということが行われていましたので、ユダはをそのことを言ったのだと思います。しかし、ヨハネの言葉を借りれば、彼の頭の中には貧しい人を助けるという思いは全然なく、それだけのお金が自分たちのところに入れば良かったのにと思っていました。イスカリオテのユダだけでなく、他の弟子たちも一緒になってマリアを厳しく非難しました。
 主イエスは、マリアを厳しく責めていたイスカリオテのユダや弟子たちの心を見抜いておられました。そして、彼らに言われました。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」「良いこと」という箇所は英語の聖書では「beautiful」という言葉が使われています。弟子たちはマリアを厳しく批判しましたが、彼らに彼女を批判する資格はありません。彼女は弟子たちに迷惑をかけた訳ではありませんし、主イエスが彼女に文句を言っているわけでもありませんから。主イエスはなぜ、マリアの行いをbearutifulと言ったのでしょうか。主イエスは、彼女の行いが純粋に彼女のイエスに対する愛と感謝の心から来ていることを知っていたからです。人は、いくら立派な行いをしたとしても、もし、愛がなければ大きな迷惑だとパウロも言っています。どんなに信仰的に素晴らしいことをしても、愛がなければ何の価値もないと言われています。マリアの行いには愛がたっぷり含まれていました。愛があれば、必ずそれは人に伝わります。イエスはマリアがしたことを喜んでおられたのです。
 また、主イエスは弟子たちが言った言葉について次のように言われました。「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良い事をしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがと一緒にいるわけではありません。」旧約聖書、申命記の15章11節に「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」と教えられています。従って、貧しい人を助けることは正しいことです。ただ、主イエスは、弟子たちに、それは、これまでにも彼らにこのことを実行する機会はいくらでもあったことを思い起こさせています。今、この時に、何が一番大切なのか、それを見極めなさいと弟子たちに言われたのです。クリスチャンにとって最も大切な戒めは全力で神を愛することです。その次に、隣人を自分自身のように愛することです。しかも、主イエスは、あと数日で十字架に掛けられます。主イエスは、この時ほど、弟子たちのサポート、励ましを必要としておられた時はありません。これまでに、主は弟子たちに繰り返して、自分が十字架に掛けられること、三日目に死からよみがえることを話しておられたのですが、そのことを正しく理解している弟子は一人もいませんでした。もし、彼らが、イエスが十字架で死ぬときが近いことを理解していたら、彼女の行為を厳しく責めることはなかったでしょう。むしろ彼女の気持ちが理解できたはずです。彼らは、イエスの十字架のこと何一つ理解していませんでした。主イエスは、弟子たちの行動を見て少し寂しかったと思います。自分が教えたことを彼らが一つも理解していなかったからです。主イエスにとって、この時、貧しい人を助けることよりも、弟子たちとともに過ごす時間が残り少ない時に、少しでも弟子たちと愛のこもった時間を過ごしたいと思われたのではないでしょうか。マリアがどこまでイエスの十字架を理解していたのか、はっきりしませんが、彼女は、イエスの言葉を思い出し、イエスの様子を見て、イエスと過ごせる時間が残り少ないことをうすうす感じていたのかもしれません。だからこそ、彼女はこれほど大胆な行動をとったのです。主イエスは、マリアの心がとても嬉しかったと思います。十字架に向かう緊張感の中で、彼女の愛はイエスの心を慰め差に違いありません。主イエスは弟子たちに言われました。「彼女は自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたこも、この人の記ねんとして語られます。」この出来事からすでに2000年という時が流れました。そして、今、世界中で、聖書を読む人は、マリアという女性が、主イエスのためにこんなに美しいことをしたということを知って、多くの人が感動しています。彼女の心からの、純粋な愛にあふれた行動を見て、多くの人が、主イエスを愛するとはどういうことなのかということを学んでいます。私たちも、マリアにならって、自分にできることで主に対して愛を表すこと、何かを行いたいと思います。

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