2021年3月14日『最後の晩餐』(マルコ14章17-26節)  | 説教      

2021年3月14日『最後の晩餐』(マルコ14章17-26節) 

 今日は、有名な最後の晩餐での出来事を読みたいと思います。晩餐とは夕食のことですが、最後の晩餐はイエスと弟子たちとの最後の夕食ということで特別でしたが、それだけではなく、この食事は過ぎ越しの祭りを祝う食事でもありました。ユダヤ人は1日の始まりを日没からと見なしていますので、過越しの食事はその日の最初の食事である夕食でした。過越しの食事をする日が来て、弟子たちは、どこで食事をするのか知らなかったのでイエスに尋ねました。「過越しの食事をなさるのに、私たちはどこに行って用意をしましょうか。」それに対する主イエスの言葉は、弟子たちにとってびっくりするようなことでした。13節から15節に主イエスの言葉が記されています。明らかに、主イエスは、あらかじめ弟子たちと最後の過越しの食事をする場所を用意しておられました。しかも、弟子たちは誰もその場所がどこなのか分からないような答えでした。これには理由がありました。イスカリオテのユダにその場所を知らせないためです。10、11節に書かれているように、すでにユダはイエスを裏切り、祭司長たちにすでにイエスを銀貨30枚で引き渡すことを約束していました。もし、ユダがこの時点で最後の晩餐の場所を知ってしまうと、食事の前に彼らの所へ行って、食事をしている間に、彼らがイエスを捕らえに来るかもしれません。主イエスは、この食事で大切なことをしようと考えておられたので、食事の場所は最後まで弟子たちには秘密にしておかなければなりませんでした。
 他の福音書を見ると、イエスの指示に従ってエルサレムの町に言ったのはペテロとヨハネでした。彼らが町に入ると、主イエスが言われたとおり、水がめを運んでいる男に出会いました。私たちからすると、そんなに簡単にその男に出会うのはおかしいのではないかと思いますが、当時のイスラエルでは、水を汲む仕事は女性の仕事でした。町で水がめを運んでいる男はほとんどいませんので、結構、見つけるのは簡単だったはずです。おそらく、この男は、イエスと弟子たちが過ぎ越しの食事をする場所を提供してくれる人の家で働いていた召使いだったと思います。ペテロとヨハネがこの男について行って主人の家に着いたとき、二人は主イエスから「弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をするわたしの客間はどこかと先生が言っておられる」と言いなさいと言われていたので、そのように言ったはずです。ここで、二人が先生から遣わされた使いであることがその主人に分かるわけですが、イエスのことを単に先生と言えば通じることから考えると、この主人とイエスはかなり親しい関係であったと思われます。そして16節を見ると、彼ら、すなわちペテロとヨハネは過越しの食事の準備をしたと書かれています。あらかじめ主イエスが用意されたのは場所だけでしたので、食事の準備をしなければなりませんでした。過越しの食事は、神殿に捧げられて屠られた小羊の肉と、種を入れないパンと、苦菜を食べましたので、神殿で小羊を捧げて、そこで焼かれた肉を持って帰ってくることと、種なしパンと苦菜とぶどう酒を手に入れることが必要でした。
 ルカの福音書の22章15節で、主イエスは「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越しの食事をすることを切に願っていました。」と言われましたが、この食事は、主イエスにとって非常に大切な食事でした。というのは、この食事をとおして、主は、過越しの食事を聖餐式の食事に変えようと考えておられたからです。モーセの時代から主イエスの時代までの約1500年間、イスラエルの人々は、エジプトを脱出した夜の出来事、すなわち過越しの出来事を思いながら、自分たちのいのちを守ってくれたのが家の戸口に塗られた子羊の血であることを記念して、羊の肉を食べていました。その記念の羊の肉がメインであった過ぎ越しの食事から、主イエスは、ご自分がこれから十字架に掛けられることを思いながら、自分のからだを表すパンと自分の血を表すぶどう酒がメインの聖餐式の食事に変えることが、弟子たちとの最後の食事の目的でした。また、それだけではなく、ヨハネの福音書の13章から17章にわたって、ヨハネは主イエスの教えを書いていますが、それほどの多くの教えは、すべてこの最後の晩餐のときに語られたものでした。このように、この最後の晩餐は、主イエスにとっても、弟子たちにとっても、また、私たちクリスチャンにとっても、非常に大切な食事だったのです。

(1)最後の過越しの食事
 準備された部屋に、イエスと弟子たちが到着しました。以前にもお話ししたように、当時、イスラエルでは、食事をするときに座卓のような低いテーブルの前で寝そべって食事をしていました。過越しの食事は決まった流れがありました。最初に主人が、かつての過越しの出来事を思い出して、神様が自分たちの先祖をエジプトの束縛から解放してくださったことへの感謝の祈りを捧げます。きよめの儀式として手を洗った後に、苦菜と呼ばれる苦みの強いハーブを食べました。それは、自分たちの先祖がエジプトで味わった苦しみを味わうためでした。その後、「賛美の詩篇(ハレル詩篇)と呼ばれた詩篇の113篇と114篇を朗読します。主人が共に食事をする人々に過越しの出来事とその意味を教えた後に、メイン料理の焼いた小羊の肉をイースト菌が入っていない平らなパンを食べます。続いて詩篇の115篇から118篇と136篇が朗読されて、お祈りをもって食事は終わります。この食事の流れのどこかで、主イエスが突然弟子たちに向かって言われました。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」もちろん、主イエスは誰が自分を裏切るか知っていましたが、弟子たちは、まったく想像すらできません。ユダは、自分の本性を隠して、弟子たちの間で信頼を得ていたので、彼は弟子たちの会計を任されていました。ユダは、弟子たちの間では信頼できる人間だと見られていました。彼らはびっくりして互いに言いました。「まさか、私ではないでしょう。」ユダも、表情を変えずに、他の弟子たちと一緒に「まさか、私ではないでしょう」と言いました。すると、イエスは言われました。「十二人の一人で、私と一緒に手を鉢に浸している者です。」と言われました。当時、過越しの食事の肉やパンは、果物から造ったペーストをつけて食べられていたので、テーブルにはいくつかペーストを入れた鉢が置いてありました。結局は、弟子たちはみなイエスと一緒に手を鉢に浸している者になります。この時、ヨハネの福音書によると、イエスは、パンを鉢に浸して、となりにいるユダに渡されました。当時の文化では、食卓のパンをとって、ペーストをつけて誰かに差し出すのは、友情を表すシンボルと見なされていました。主イエスは、これを何かの合図として行われたのではなく、純粋に、ユダへの友情を示すためにパンを彼に渡されました。この食事の前に、主イエスは弟子たちの足を洗うということをされました。その時、主イエスはすでにイスカリオテのユダが自分を裏切ることを知っていましたが、彼の足を洗いました。足を洗うというのは家の召使が主人に対して行うことです。この時も、イエスは純粋に、ユダを愛する心で彼の足を洗いました。この行為には「ユダよ。あなたは私の友だ。私はいつでもあなたの罪、あなたの裏切りを赦す気持ちを持っているのだ。」というメッセージが込められていたと思います。主イエスが十字架にかかることは、神様が決められたことでしたので、ユダの裏切りがなくても、主は自ら進んで十字架にかけられていました。イエスは最後まであきらめずにユダに悔い改めのチャンスを与えておられるのです。ここで、もしユダが自分の罪を悔い改めていれば、彼は、この後もイエスの12使徒の一人としてとどまることができたのですが、ユダは、自分の罪を悔い改めることなく、平然とイエスが差し出したパンを受け取って食べました。ヨハネの福音書13章27節を見ると、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。」ユダは、イエスの申し出を断って、イエスを裏切るという決意をさらに強くしました。それを見たイエスはユダに「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」と言われました。そこで、ユダは、部屋から出て行きましたが、悟り鈍い弟子たちはその理由が分かりません。彼は会計担当だったので、祭りの食事に必要なものを買い足しに出かけたと思ったかもしれません。
 ユダは、主イエスから与えられた最後のチャンスも拒否して、自分の願望から自分で決めたことを実行しようと部屋から出て行きました。彼は部屋から出て行っただけではなく、主イエスによる罪の赦しと神様から与えられるすべての恵み・祝福からも出て行きました。それを見届けたイエスは弟子たちに言われました。21節です。「確かに人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうが良かったのです。」主イエスが言われたのは、自分が十字架にかかることは、永遠の昔からの神様の御計画であったので、旧約聖書に、そのことは何度も預言者たちによって書かれていました。しかし、どのような流れで主イエスが十字架にかかるのかは、ユダが部屋から出て行った瞬間に最終的に決定しました。イエスの言葉「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」という言葉は、ユダへの憎しみの言葉ではなく悲しみの言葉です。彼は、イエスから直接選ばれた12使徒のひとりという本当に素晴らしい特権を与えられていました。人は、それぞれ、神様によっていのちが与えられた神様の作品です。私たちは、皆、神様のために生きるという素晴らしい使命を与えられてこの世に生まれて来たのです。ユダは、他の人が持つことのできないイエスの弟子という特権を拒否して、主イエスによる罪の赦しと永遠のいのちを受け取りませんでした。永遠の滅びに至る道を選んだユダの決断を主イエスは心から悲しまれました。主イエスは、ユダを最後まで愛していました。彼の中に大きな可能性があるのを見抜いておられたので、12弟子のひとりに選ばれたのです。そのユダが自分の愛を拒んだことが悲しかったのです。

(2)最初の聖餐式
 ユダが出て行き、11人の忠実な弟子だけが残った時、イエスは、過越しの食事を最初の聖餐式に変えられました。これは、律法に基づく神様と人間との間の古い契約から新しい契約に代わることを意味しています。22節で、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われました。「取りなさい。これはわたしのからです。」過越しの食事では種なりパンを食べました。それは、かつてイスラエルの民がエジプトから脱出するときに急いでいたために、イースト菌を入れたパンを作る時間がなかったことを思い出すためでしたが、同時に、イースト菌は、パン生地に少し入れるだけでパン生地が大きく膨らむので、イースト菌は罪のシンボルだと考えられていました。したがって、過越しの食事で種なしパンを食べるのには、自分自身を、罪、偶像礼拝、この世の生き方から離れて生きる決意を表す意味もありました。しかし、ここで、主イエスは、この同じパンに新しい意味を与えられました。主は、このパンを、ご自分がまもなく十字架で自分のいのちを捧げる時の自分の体を表すシンボルとされたのです。
 主は、パンを配り終えると、ぶどう酒の杯を取り、感謝の祈りを捧げてから、弟子たちにその杯を回しました。弟子たちはみな、その杯からぶどう酒を飲みました。そして言われました。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」パンが主イエスの体を表したのと同じように、ブドウ酒は主イエスが十字架で流す血を表しています。旧約聖書の歴史を通じて、神様は、アブラハムやモーセをとおして人間との契約を結ばれました。日本で契約を結ぶ場合に、お互いが自分の責任を果たす決意を示すために印鑑を押しますが、神様とイスラエルの民の間では、いけにえとして捧げる動物の血が、印鑑の役割を果たしていました。これが古い契約の血でした。しかし、この食事を通して、ブドウ酒は、いけにえの動物の血ではなく、罪のない主イエスご自身の血を表すものに変えられました。旧約時代は、人間の罪はいけにえとして捧げる動物に負わせていたのですが、主イエスが、私たちのすべての罪を、ご自分で背負って自分から進んで十字架にかかって血を流してくださったのです。しかも、主イエスの血は、動物の血と違って、完全な身代わりの血であったので、ただ一度、十字架で流されただけで、すべての時代のすべての人の罪を完全に赦す力があります。従って、主イエスが、過越しの食事のテーブルで新しい契約を私たち人間と結ばれた時、旧約時代に行われていた、動物をささげることは行う必要がなくなりました。
 そして、このように聖餐式を制定された後、主イエスはこう言われました。「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」この言葉から、最後の晩餐という言葉が生まれました。弟子たちとこの後、地上では一緒に食事をすることがないと言われたからです。ただ、地上では最後の食事になりましたが、本当の最後の食事ではありません。主イエスは、これから十字架という大変な苦しみを受けに行かれますが、イエスは弟子たちに、将来があり希望があることを伝えられました。主イエスは、十字架の苦しみの後に、復活があること、十字架は敗北ではなく勝利であることを伝えておられます。そして、将来、主イエスと弟子たちが天において再び食事をするとき、イエスとイエスを信じる者たちの勝利が最終的に完結することを伝えておられます。弟子たちは、この後、主イエスの十字架を目撃します。しかし、それから三日目に復活の主イエスと再会します。それだけでなく、主イエスが天に帰られた後、彼らは主イエスが約束しておられた聖霊が与えられる経験をし、彼らは、人を恐れて隠れるような弱い弟子から、福音を伝えるためには死をも恐れない強い弟子たちに変えられ、福音が一気に広がって行くことを見るようになるのです。彼らは、この後、地上でも、主イエスの勝利を確信します。しかし、それだけでなく、この世を去った後には、新しい世界で、永遠の希望と栄光に満ちたときを再び主イエスとともに過ごすことになるのです。この時には、弟子たちは、まだイエスの言った言葉の意味を完全に理解していなかったでしょうが、彼らが地上の生涯を終えて主のもとに映された時に、彼らはこの言葉の意味を確かに理解したことでしょう。この後、彼らは過越しの食事でいつも行うことなのですが、詩篇の115篇から118篇までを歌って、主に導かれながら、ゲッセマネの園へ歩いて行きました。いよいよ、主イエスが十字架につけられるときが近づいていました。

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