2021年3月21日 『苦しみに打ち勝つ祈り』(マルコ14章32-42節) | 説教      

2021年3月21日 『苦しみに打ち勝つ祈り』(マルコ14章32-42節)

(1)主イエスの大きな苦しみ
 イエスと11人の弟子たちは、最後の晩餐を終えると、エルサレムの町の外に出てゲッセマネと呼ばれる場所に向かいました。エルサレムの町の東側にはケデロンと呼ばれる谷があり、その谷のさらに東側にオリーブ山という小高い山があります。そのオリーブ山のふもとに「ゲッセマネ」と呼ばれるオリーブ園がありました。「ゲッセマネ」とはヘブル語で「油しぼり」という意味ですが、それは、そのオリーブ園の中に、オリーブをしぼってオリーブオイルを作る作業所があったからだと思われます。これは、個人が所有するオリーブ園でしたが、おそらく、その持ち主は主イエスを信じる者で、主イエスがいつでもそのオリーブ園に入れるようにその場所を提供していたのだと思います。ルカの福音書の22章40節では、ゲッセマネの園が「いつもの場所」と言われているので、主イエスは、エルサレムの群衆や雑踏を避けて、しばしば弟子たちを連れてゲッセマネに来て、弟子たちと祈ったり、彼らに教えたりしておられたのでしょう。ゲッセマネの園に着くと、主イエスは弟子たちに言われました。「わたしが祈る間、ここに座っていなさい。」そして、主イエスは、11人の弟子のうち8人を見張りのために入口近くに残して、ペテロとヨハネとヤコブの3人を連れて、園の奥に入って行かれました。この3人は12弟子の中でもリーダーのような存在でした。この時は、主は、この3人に彼らの弱さを認識させること、また誘惑を受ける時に祈ることが絶対に必要であることを教えるために、園の奥まで連れて行かれたのだと思います。
 33節の後半を読みましょう。「イエスは深く恐れもだえ始められた。」主は、これから自分が行おうとしていることを考えて、非常に強い感情を持たれました。主イエスが今から味わおうとしている苦しみがそれほど大きく深いものだったのです。主イエスは、何によって苦しんでおられたのでしょうか。人々から、特にユダヤ教指導者たちから拒絶されたことでしょうか。ユダに裏切られたことでしょうか。それとも、3年も生活をともにした弟子たちから見捨てられることでしょうか。この後、受けようとしていた十字架の恥と屈辱でしょうか、それとも十字架に掛けられた時の肉体的な苦しみでしょうか。もちろん、これらすべて、主イエスにとって大きな苦痛を与えるものではありますが、主が一番苦しんでおられたのは、これから自分が人々の罪を背負って、父なる神の怒りを受けなければならないことでした。旧約聖書の中に、イスラエルの民が神に対して罪を犯した時に、非常に恐ろしい裁きが下ることが何度もありました。神の怒りは、人間の怒りとはまったく比べ物にならないほど恐ろしいのです。しかし、三位一体の神、御子イエス・キリストにとっては、神の永遠の時間の中で、はじめて、父なる神から怒りを受けて常に一体であった父なる神から見捨てられることが恐ろしかったのです。その苦しみは、私たちの罪をすべて背負って、神殿で捧げられるいけにえのようになって、自分のいのちを犠牲にすることであり、私たちを永遠の罪のさばきから救い出すために支払う犠牲でした。全能の神であるイエスにとって、十字架の苦しみなど何でもないと考えるのは、見当違いも甚だしいものです。罪とはまったく関係のない、罪を最も嫌うイエスが、すべての時代のすべての人々の罪を背負うのですから、その苦しみは、私たちの頭では理解できません。主イエスは弟子たちに言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(34節)主イエスの心は、ちょうどオリーブの実がオイルを作るために石臼で押しつぶされるのと同じように、つぶされそうになっていました。

(2)主イエスの涙の祈り
 主イエスは、全人類の罪を背負うことが自分にとってどれほど辛いことかを知っておられたので、極限的な苦しみに襲われていました。そして、同時に、この時、主イエスはサタンから最も大きな誘惑を受けておられました。サタンが主イエスに最後の攻撃を仕掛けていたのです。それは、「父なる神の御心よりも、人間となった自分の意思を優先しろ。おまえはおまえなんだから。」といった誘惑でした。もし、この時、サタンの誘惑が成功していれば、主イエスは、父なる神から委ねれらた人々を罪から救うという使命を果たすことはできなくなります。救い主メシアとしての働きに失敗することになり、それまでの神の言葉や約束は偽りとなります。主イエスは、その危険をはっきりと感じておられました。それで、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブの3人を連れてオリーブ園の奥に入り、地面にひれ伏して祈られました。その祈りの内容は35節に記されているように「できることなら、この時が自分から過ぎ去るように」というものでした。これは、父なる神による人々の救いの計画の中で、十字架を避けることが可能かどうかを父なる神に尋ねる祈りですが、次の36節に実際の言葉が記されています。主は、最初に「アバ、父よ。」と言われました。主イエスは父なる神に祈るときは、いつも「天の父よ」と祈られましたし、私たちに主の祈りを教えられた時も、まず、「天にいます私たちの父よ」と呼び掛けて祈りを始めるように教えられました。それは、私たちの祈りが誰か分からない人に向かって祈る空しい祈りではなく、私たちのいのちを作ってくださった神、御子イエスを十字架にかけるほどに私たちを愛してくださる父なる神様に向かって祈る祈りだからです。しかも、ここで、主は「アバ、父よ」と言われましたが、「アバ」とは父親に向けて親しみを込めて呼びかける時に使われる言葉です。日本語では相応しい言葉がみつかりませんが、英語の「パパ」とか「ダディ」に相当するような言葉です。主がこの時「アバ」と叫ばれたのは、この祈りが切なる願いの祈りであり、主が心に大きな緊張と恐れを抱いていたことを示しています。また、主イエスは、父なる神にとって不可能なことは何一つないことを言葉にしておられます。ただ、主イエスは父なる神がご自分のご性質や、ご計画、御心に反することは決して行わないこともよく知っておられました。主イエスは、父なる神の救いの計画を変えるようにと願っているのではありません。主イエスの祈りは、もし、人間を罪から救うために、自分が十字架にかかるということ以外の何か方法があるのであれば、その方法にしてほしいと言う願いでした。主は言われました。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」旧約聖書の時代、「杯」という言葉は神の怒りを表すシンボルとして使われました。例えば、詩篇11篇6節にはこう書かれています。「主は悪者どもの上に網を下す。火と硫黄、燃える風が彼らへの杯。」主イエスは、十字架のうえで、すべての時代のすべての人の罪に対する神の怒りがいっぱい入った杯を飲み干さなければなりません。罪のまったくない、罪を最も大きな敵とみなす神の御子が、罪に対する神の怒りの杯を飲み干すことの恐ろしさ、これは罪人の私たちにはわかりません。したがって、主は、もし可能ならば、何か他の方法で、人々を罪から救い出す方法がないかと父なる神に祈りました。しかし、同時に、主はあくまでも父なる神の御心に従う姿勢を崩していません。主イエスが主の祈りの中で教えられたことも、「御心が天で行われるように地でも行われますように」でした。主イエスの生涯を通じて、御子イエスは、いつも父なる神の御心を行うことに徹しておられました。したがって、「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることがおこなわれますように」という祈りは、主の決意が込められた宣言だと思います。使徒パウロがピリピ人への手紙に書いているように、主イエスは、自らを低くして、十字架の死にまで従われたのです。(2:8)

(3)主イエスの優しい励まし
 主イエスは、このようにすべての力を振り絞って父なる神に向かって祈っておられましたが、その途中で、近くにいる3人の弟子たちのことが心配になったのか、彼らがいる場所に行かれました。すると、3人は眠り込んでいました。彼らは最後の晩餐の時からずっと緊張していたでしょうし、また、今は真夜中の12時ごろですから、疲れ切っていたと思います。ルカの福音書では、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいたと説明されています。彼らは、主イエスがまもなく死ぬことに気が付き、また、最後の晩餐の後、ゲッセマネの園に着くまでの間に、主イエスは弟子たちに「あなたがたはみな、私につまずきます。」と言われていたこともあって、大きな悲しみを感じていました。ただ、12弟子のリーダーと見なされていたペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人が、主イエスがもっとも弟子たちからのサポートを必要としていた時に、眠り込んでいたことに対して彼らには弁解の余地はありません。主は、彼らに34節で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて目を覚ましていなさい。」と言われていたのですから。
 37節でイエスは、眠っている3人の弟子たちを見てペテロに言われました。「シモン、眠っているのですか。」ここで、イエスは、ペテロが弟子になったときにつけたニックネームのペテロという名前ではなく、本名のシモンという名前で呼んでおられます。ペテロとは「岩」という意味で、強さを表す名前ですが、主は、彼らの弱さを見て、ペテロに対して彼がもともとはシモンという名前を持つ弱い人間であることを思い出させるためにシモンと呼ばれたのだと思います。というのは、主はペテロに対しては、この夜が明けるまでに、彼がイエスを3回知らないと言うと預言されたのに対して、ペテロは、「いっしょに死ななければならないとしても、知らないなど、絶対に言いません。」と強く言い張っていたからです。イエスは、ペテロに恥をかかせようとしておられるのではありません。3人に、自分たちの弱さを知って、注意しなければならないことを教えておられるのです。38節で主は言われました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」弟子たちは、目を覚まして祈っていたいと思っていたはずです。彼らは、主イエスから、イエスが捕まる時につまずくと言われた時、ペテロだけでなく、弟子は皆、イエスの言葉を強く否定していました。しかしどれほど、そのように彼らは心で願っていても、体の弱さに打ち勝つことはできませんでした。39節を見ると、主イエスは再び、彼らから離れて前と同じ言葉で祈られたと書かれています。マタイの福音書にはその言葉が記されています。「わが父よ。わたしが飲まなければならなければ、この杯が過ぎ去らないのであれば、あなたの御心がなりますように。」2回目の祈りでも、主イエスは、自分の願いよりも父なる神の御心を第一にされました。主イエスは、緊張した父なる神との祈りの時間を過ごした後、再び弟子たちの様子を見に来られました。すると、3人は再び眠り込んでいました。40節には説明が書かれています。「まぶたがとても重くなっていたのである。」それほどに、彼らは、肉体的に疲れていたのでしょう。主イエスに起こされて、彼らは、イエスから注意されていたにも関わらず再び眠り込んでしまったので、非常に恥ずかしい思いをしていたはずです。40節には、彼らは、イエスに何と言ったらよいか分からなかったと書かれています。主イエスは再び彼らから離れて、父なる神に向かって祈りを捧げました。主イエスは、いわば、3回サタンの攻撃、サタンの誘惑を受けておられました。しかし、3回繰り返して、父なる神に自分の思いや願いを訴え、父の御心に従う決意を言い表されました。ルカの福音書には、この3回目の祈りの時に、み使いが天から現れてイエスを力づけたと書かれています。主イエスはさらに力を振り絞って祈られたので、イエスの顔から汗が血のしずくのようになって地に落ちたとも記されています。この3回の祈りをとおして主イエスは、誘惑に勝利されました。十字架にご自身のいのちをささげる準備が整ったのです。
 主イエスは、父なる神の御心を最後までやり抜く覚悟を持たれました。主イエスが3度目に弟子たちのところに戻って来られた時は、主の様子がまったく違っていました。主が祈りによってサタンからの誘惑に勝利されたからです。主は、再び眠り込んでいた3人に向かって言われました。「まだ、眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。」世の罪を取り除く神の小羊としてこの世に来られた救い主イエスが、いよいよ、この世の罪を取り除くための使命を果たす時が来ました。彼らがいたゲッセマネの園に、イスカリオテのユダによって先導された人々がやって来ました。そこにはローマの兵士1部隊、これは600人ぐらいの数です、神殿の警備隊、ユダヤ教のリーダーたちがいましたので、相当の数の人々がイエスを捕らえるためにやって来ました。主イエスは、そのことを実際に見たかどうかは分かりませんが、そのことを知っても、ひるむことはありません。イエスはペテロとヨハネとヤコブに言いました。「立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切るものが近くに来ています。」主イエスは逃げることなく隠れることなく、自分を捕まえるために集まって来た人々のところへ出て行かれました。主イエスの心にもはや十字架という杯への恐れはありませんでした。十字架から逃げることなく、自分の使命を果たすために、確信をもってゲッセマネの園から出て行かれました。主イエスには、全能の神の力がありますから、その力を使えば、このような敵であっても簡単に倒すことができましたが、主イエスは、自分から十字架にかかるために、自ら進んで出て行かれたのです。主イエスがヨハネの福音書10章18節で言われたとおりです。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」主イエスは、ユダの裏切りによって十字架にかけられたのではありません。主イエスがご自分から、私たちを罪から救い出すためにいのちを捨ててくださったのです。ここに主イエスの私たちに対する大きな愛があるのです。私たちは、このイエスの大きな犠牲のゆえに、今、罪の束縛と裁きから解放されて、神の子として生かされています。さらには、将来的には、永遠のいのちも約束されています。私たちがこのような大きな恵みの中に生きているのは、すべて、このイエスの愛によるのだということを、私たちは決して忘れてはなりません。

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