2021年4月4日『イエスの墓は空だった』(マルコ福音書16章1-8節) | 説教      

2021年4月4日『イエスの墓は空だった』(マルコ福音書16章1-8節)

 教会のシンボルが十字架であることか明らかな様に、聖書のメッセージの中心は主イエスの十字架の死です。しかし、もし、その三日後に主イエスの死からの復活がなかったら、十字架の意味はまったくなくなってしまいます。そして、私たちは罪の赦しや永遠のいのちの希望を持つことはできません。パウロがコリント教会のクリスチャンに書き送った手紙の中で、パウロはイエスの復活がなかったら、クリスチャンは世の中で最も愚かな人間だと断言しています。しかし、感謝なことに、主イエスは確かに蘇られました。そして、クリスチャンには罪の赦しと永遠のいのちが保証されました。今日キリスト教会は日曜日に集まって礼拝をささげています。ユダヤ教は土曜日に礼拝を行います。それは、創世記によると、神様は6日間で、この世界とその中にあるすべてのものを創られて7日目に休まれたからです。その日は安息日と呼ばれて、ユダヤ教の人々は、土曜日にはいっさいの仕事をせず、特別な日として過ごしています。最初のクリスチャンは、イエスの12使徒を始め、大部分はユダヤ人でした。彼らにとって安息日はいのちをかけるほど大切です。だから、主イエスが安息日に人々を癒した時に、ユダヤ人たちは激しく怒ったのです。そんなユダヤ人クリスチャンが、神を礼拝する日を、あっさりと土曜日から主が復活された日曜日に移したのは、それだけ、彼らにとって主イエスの復活は大切なことだったのです。
 主イエスの復活は歴史的な出来事ですから、科学の実験のように復活の場面を再現して復活の事実を証明することはできません。歴史の流れなど、復活にかかわる様々な状況から判断するしかありません。復活を事実だと証明するものとして挙げられることはたくさんあります。一つは、イエスの墓が空っぽであった事実です。ユダヤ教の指導者たちは、イエスが十字架に掛けられる前に、自分が十字架で死んだ後三日目に死から復活することを弟子たちに話しているという情報をつかんでいました。それで、彼らはローマ総督ピラトに頼んで、ローマの兵士にイエスの体が納められた墓を見張るよう頼みました。それでも、イエスの墓は空っぽでした。イエスの遺体を弟子たちが盗むことも可能ですが、弟子たちはイエスが逮捕された時に皆イエスを見捨てて逃げていました。また、彼らは主が復活された日、ユダヤ人たちを恐れて部屋に隠れていました。また、イエスの墓はローマ兵士によって厳重に監視されていました。これらのことを考えると、弟子たちがイエスの遺体を盗むことはほぼ不可能です。しかし、それ以上に大切なことは、弟子たちの変化です。イエスを見捨ててユダヤ人を恐れて身を隠していたような弟子たちが、イエスが復活した後、すっかり人格が変わったかのように、大胆に主イエスについて語り始めました。弟子たちの多くは、主イエスを信じる信仰のために殺されました。しかも、彼らが信じ人々に語っていた教えは「主イエスが十字架にかかって死んだ後三日目に死から復活した」という2000年前の人間にとっても、信じがたい教えでした。崇高な理想に対する信念ではなく、死んだ方がよみがえったという本当に信じがたい事実が彼らの信仰の対象でした。主イエスよりも自分の命を守るために主イエスを見捨てた彼らが、なぜ、そんなに生き方が変わったのか、この事実こそ、主イエスの復活が事実であったことを示しています。ローマ帝国は教会が生まれてから300年近く、キリスト教を消し去るために、あらゆる手段を使って迫害してきましたが、キリスト教は消えませんでした。一般の信者も、数多くの人が主イエスを信じる信仰のためにローマで処刑されました。しかし、最終的に、ローマ帝国がキリスト教の国なることによって、イエス・キリストへの信仰がローマ帝国に勝利したのです。

(1)イエスの墓は空だった
 安息日が終わって、日曜日の早朝、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメの3人の女性がイエスの遺体をきれいにするためにイエスが納められた墓に向かいました。彼女たちは、主イエスの顔も体も、むちで打たれ十字架に磔にされたため、非常に醜い姿になっていたことで胸を痛めていました。少しでも主イエスの顔と体をきれいにしたいという主イエスへの愛から、彼女たちは墓に向かっていました。彼女たちは、ガリラヤからイエスの後について来ていた女性信者でした。彼女たちは、金曜日の夕方、アリマタヤのヨセフとニコデモの二人がイエスをヨセフの新しい墓の中に収めるのを見ていたので、その墓の入口は大きな石でふさがれていたことを知っていました。ただ、彼女たちは、安息日の土曜日には墓に来ていませんから、安息日に、ユダヤ教の指導者たちが、イエスの墓の入口に封印をしたこと、ローマの兵士が墓を監視するようになったことを知りませんでした。さらには、マタイの福音書によると、主が復活された日の早朝、地震が起こって、主の使いが降りてきてイエスの墓の入口を塞いでいた大きな石はわきに転がっていました。彼女たちはその出来事も知らなかったので、お互いに「誰が墓の入口から石を転がしてくれるだろうか。」と道々話し合っていました。いずれにせよ、彼女たちの頭の中には、主イエスが復活されたという考えはまったくありませんでした。
 ところが、彼女たちがイエスの墓についてみると、イエスの墓の入口を塞いでいた非常に大きな岩がわきに転がっていて、墓の入り口は開いていました。み使いが入口の岩をわきへ転がしたのは、復活したイエスを墓から外に出すためではありません。主イエスは栄光の体をもって復活されたので、壁をとおり抜けることができるような体になっていました。入口の岩が転がされた理由は、この女性たちを墓の中に入れて、イエスが復活されたので墓が空であることを知らせるためでした。主イエスが復活された証拠の一つが、イエスの墓が空であったという事実です。もし、イエスが復活していなかったら、イエスの遺体はどこかにあるはずです。イエスの弟子たちが遺体を盗み出すことはどう考えても不可能です。彼らはユダヤ人を恐れて隠れていました。墓からイエスの遺体を盗もうとしても、墓の前にはローマ軍の兵士が見張っています。たとえ、兵士たちを襲って、墓からイエスを盗み出すことができたとしても、人に見られないようにしながら、その遺体をどこに隠すのでしょう。どうやってその場所まで運ぶことができるのでしょう。イエスの遺体を乱暴に扱うことなどできません。絶対に、彼らがしていることは誰かの目に留まるはずですし、もし万一、弟子たちがイエスの遺体を盗み出すことに成功したとしても、ローマの兵士がエルサレムの街中をくまなく探せば、必ずイエスの遺体は見つかります。しかし、イエスの遺体を見つけ出すことはできませんでした。イエスの墓が空であったことを否定できる人は一人もいなかったのです。
 びっくりしている女性たちの気持ちを静めるように、み使いは彼女たちに優しく言いました。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。御覧なさい。ここがあの方が納められた所です。」誰も、イエスの墓が空ではないことを証明することができませんでした。ここでみ使いが言った言葉は、なぜ墓が空なのかを説明するものです。み使いは、墓の中を指して、イエスの体が納められた場所を見るようにと彼女たちに言いました。彼女たちは、恐る恐る、墓の中に入ったことでしょう。他の福音書を見ると、この出来事の後、彼女たちの報告を聞いたペテロとヨハネはこの墓にやってきて墓の中に入りますが、その時二人の弟子は、イエスの体に巻かれていた包帯がほどかれずに巻かれたままの状態で残っているのを見ました。主イエスの復活の体は新しい栄光の体だったので、いわば、包帯をすり抜けるようにして、蘇られたのです。最初に墓の中に入った3人の女性も彼らと同じように、巻かれたままの包帯を見ました。彼女たちは、何が何だか意味が分からず混乱していました。

(2)目撃者たちによるイエスの復活の証言
 7節で、み使いは女性たちに「ですから行って、お弟子たちとペテロに『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」と言いました。ここで、み使いが「弟子たちとペテロ」とペテロだけ名前を挙げているのは、ペテロが3回イエスを知らないと言ったことでひどく落ち込んでいるのを知っていて、彼を特別に励ますためであったと思います。女性たちは、み使いたちから弟子たちイエスの復活を知らせるという大切な役割を与えられました。彼女たちは墓から出て、そこから逃げ去ったと書かれています。彼女たちは震え上がっていますが、これは、自分たちのいのちが危ないという意味での震えではありません。まったく訳が分からないというひどい当惑、不思議な気持ちが強かったかったためです。マタイの福音書には、「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去った。」と書かれています。彼女たちは喜びに満ちあふれていたのです。前日の土曜日までは、彼女たちは、主イエスが復活することを理解していませんでした。イエスが復活した朝も、彼女たちの心は悲しみと寂しさに満ちていました。しかし、み使いの言葉を聞いて、主イエスが死から復活したことを知った彼女たちの心は悲しみから喜びに変わりました。彼女たちはイエスが復活したことを11人の弟子たちに伝えました。その後、その日のうちに、復活の主イエスは、マグダラのマリヤ、ペテロ、トマスを除く弟子たち、エマオという村に向かっていた2人の弟子たちなどに現れ、その翌週にはトマスを含む11人全員が復活の主に出会っています。これらはすべてエルサレムで起きた出来事です。その後、主イエスは、弟子たちの故郷であるガリラヤに行き、そこで、再び弟子たちと会われたほか、パウロが書いたコリント人への第一の手紙によると、イエスはそこで、同時に500人以上の人々に出会っています。イエスが捕まった時に全員逃げ去った弟子たちは、主イエスの復活を知る前は、自分たちもユダヤ人たちから殺されるのではないかと部屋に隠れて集まっていましたが、復活のイエスと出会った後はすっかり変わり、彼らは、人々を恐れることなくイエスの十字架と復活のメッセージを大胆に語り始めました。そのため、弟子たちの多くは殺され、殉教しました。もし、彼らがイエスが復活したことは嘘であることを知っていたら、自分のいのちをかけてまで、イエスが死から復活したというメッセージを語り続けたでしょうか。2000年前の人々にとっても、一度死んだイエスの復活は馬鹿げたメッセージでした。しかし、弟子たちはこのメッセージにいのちをかけました。その結果、ローマ帝国のあちらこちらで多くの人がクリスチャンになりました。彼らはローマ帝国から激しい迫害を受けたのですが、それでも、彼らは信仰を貫きました。ローマ帝国は300年間キリスト教を撲滅しようと迫害を続けましたが、教会は亡くなりませんでした。それどころか、ローマ皇帝がクリスチャンになったことによって、最終的に、ローマ帝国の宗教はキリスト教になったのです。12人の弟子たちを中心とした本当に小さな教会が、当時世界で一番権力を持っていたローマ帝国との戦いに勝利したのです。主イエスの復活が嘘だったら、こんなことが起きるでしょうか。

 復活が私たちに与える最も大きな約束は、主イエスが死から復活されたように、私たちも肉体は死んでも、やがて終わりの時に、主イエスと同じように栄光の体をもって復活するということです。最近、眞浦あい子さんや渋谷一雄さんが突然神様のもとへ召されました。地上でお二人に会えないことはとても寂しく残念です。しかし、二人は今、この世の苦しみや悩みすべてから解放されて、主イエスの顔をはっきりと見ながら永遠の平安の中にいるのです。それは、主イエスが復活されたことによって実現したことです。誰でも、主イエスの十字架と復活を信じる人は、この約束を自分のものにすることができます。永遠のいのちが私たちを待っています。主イエスは言われました。「たとえ、この世で全世界の財産を手に入れたとしても、永遠のいのちを失ったとしたら、何の良い事がありますか。」あなたは、今、永遠のいのちを持っておられますか。あなたも復活の主イエスを信じて、永遠のいのちを受け取りませんか。

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