2021年4月11日 『主の愛と主の御心』(ヨハネの福音書11章1-16節) | 説教      

2021年4月11日 『主の愛と主の御心』(ヨハネの福音書11章1-16節)

今日からヨハネの福音書の11章を4回に分けて読みますが、11章には、主イエスが行われたもっとも劇的で重要な意味を持つ奇跡の出来事が記されています。主イエス・キリストの働きのクライマックスの時でした。主イエスにはエルサレムの近くのべタニアという村に住む3兄弟、マルタ、マリヤ、ラザロという非常に親しい友がいました。主イエスと弟子たちの3年間の活動場所は、主として彼らの出身地であるイスラエル北部のガリラヤ地方でした。しかし、ユダヤ人のお祭りの時には、必ずエルサレムに行くことにしていました。べタニアはエルサレムから3キロほどしか離れていませんので、イエスと弟子たちはガリラヤからエルサレムに来る時はいつも彼らの家に泊まっていたと思います。主イエスにとっても、自分のことを理解し、主として尊敬し愛してくれる3人の兄弟の存在をどれほど喜んでいたことでしょうか。そんな3兄弟の一人、ラザロが重い病気にかかって、死にそうになっていました。マルタとマリヤにとってかわいい弟が病気で死にかけていることは本当に辛く悲しいことでした。一方、このころ主イエスと弟子たちは、ユダヤ教の指導者たちがイエスを捕まえて殺そうとしていたので、彼らから逃れるために、エルサレムを離れて、以前バプテスマのヨハネが洗礼を授けていた場所にしばらく滞在していました。そこは、エルサレムから歩くと2日かかるほどの所でした。

 マルタとマリヤは主イエスのもとに使いを送りました。その使いは、イエスの所に来て言いました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」マルタもマリヤもこれまで主イエスが大勢の病人を癒すのを見ていたと思います。主イエスには病気を癒す力があることを知っていたはずです。この時、二人は主イエスに「あなたが愛しておられる者が病気です。」とだけ伝えています。私なら、親しい友のイエスですから、「すぐに来て、彼の上に手を置いて祈ってやってください。」とお願いすると思います。実際に、イエスにそのようにお願いした人も福音書に出て来ます。私たちがこのような状況になったとき、神様にお祈りをしますが、その時に、私たちは、「自分の考えているタイミングで、自分の考えている方法で、病気を癒してください。」とこちらから神様に注文をつけて祈ることがないでしょうか。そして、神様がその祈りに、自分が注文したとおりに答えないと、「神様は私を愛していないのではないか」と神様の愛を疑ってしまうことはないでしょうか。このような状況で私たちが焦ってしまうのは、私たちは目の前、自分の周りのことしか見えないからです。だから、例えば病気の癒しを求めて祈る場合に、自分の頭で想像できるタイミングと方法でしか癒されないのだと思い込んでしまうのです。しかし、私たちの神様は私たちはスケールが全然違う、全知全能の神様です。神様に何ができるのか、実は私たちはそのことさえ分かっていないのです。ありは人間の近くにいますが、人間を見て何ができるのか想像することはできないでしょう。そのように、私たちは神様についてすべてのことを知っているわけではないので、どうしても、自分の常識や考えに支配されて、神様が行われる奇跡も、自分の考えに沿ったものしか思い浮かばないために、時折、私たちは祈りの中で、神様にお願いしているというよりも、ほぼ命令に近いような形で祈っています。「神様、どうか、今週中に、この人のうえに聖霊の力を注いで、癒してください。そして、退院もできるようにしてください。」しかし、神様の能力も、考えも、計画も、私たちの小さな限界をはるかに超えておられるので、私たちの願いとは全然違うタイミングや方法で働かれることが多いことを、私たちは覚えておかなければなりません。
 
 主イエスはこの使いの言葉を聞いて次のように答えられました。4節を読みましょう。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」主イエスは、「ラザロの病気は神の栄光のためであり、また、この病気によって主イエスが栄光を受けるためである。」と言われました。私たちは、病気は悪いもので、早く直さないと病気の人は死んでしまう、そのように考えます。しかし、神様の考えは違います。病気をとおしても、神様の栄光が現れ、病気をとおして神様が栄光を受けられるというのです。神様の栄光が現れる、また、この病気によってキリストが栄光を受けるとはどのような意味でしょうか。それは、神様がどれほど素晴らしい方であるかが人々の目に明らかになるということです。聖書は、私たちが信じる神は全知全能の神であると教えています。私たちも礼拝の中で使徒信条を告白するたびに、全能の父なる神を信じますと告白しています。しかし、私たちは本当に聖書の神が全能の神だと信じているのでしょうか。私たちが困難に直面した時に、心のどこかで、「いくら神様でも、この問題の解決は無理でしょう。」と考えたりしないでしょうか。神の栄光が現れるというのは、神様の本当の力、本当の姿が私たちの目に明らかになるという意味です。主イエスは、ラザロの死に至る病気を通して、人々にイエスの本当の姿が明らかになります。そして、人々はイエスが神であることを信じるようになります。人々がイエスを信じること、それがイエスにとっては栄光だと感じることなのです。

 5節に、「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」と書かれています。イエスにとって、この3兄弟は本当に親しい友でした。何度も彼らの家に泊まりに行っていますので、彼らのことを良く知っていました。イエスはマルタとマリヤが弟が死に至る病気でベッドに寝ている姿を見てどれほど悲しんでいるのか、よく知っておられたはずです。にもかかわらず、6節を見ると、イエスはなお二日、ヨルダン川の近くの場所にとどまっておられます。私たちは、なぜ、イエスがすぐにラザロのところに飛んでいかないか不思議です。わざわざイエスは3兄弟を愛しておられたと書いてあるのに、矛盾を感じます。それは、神様の思いと私たちの思いが違うこと、神様の計画と人間が考える計画が違うからなのです。もしも、この時、主イエスが使いと一緒にすぐにべタニヤに行って、ラザロの病気を癒したとすれば、それはそれで素晴らしいことなのですが、神様の計画とは違っています。神様は、ラザロが死から生き返るという大きな奇跡を行うことを計画しておられたからです。その奇跡によって、イエスが愛しておられたマルタもマリヤもラザロも、主イエスに対する信仰をもっと深いレベルへと導こうとしておられたのです。イエスは、彼らを愛しておられたからこそ、彼らの信仰の成長を願っておられました。私たちは、何か困難な状況や試練に直面するときに、神様から愛されていないと感じることがありますが、それは間違いです。サタンのささやきです。神様は、愛する者の信仰を成長させるために、あえて、その人の人生に試練を与えることがあるのです。困難に直面した時に、そこに何か神様の良い目的があるのだと考えることができることが、信仰の力です。

 それから二日が経ちました。すると主イエスが弟子たちに言われました。「もう一度ユダヤに行こう。」すると、弟子たちは反対しました。「先生、たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」イエスと弟子たちが都のエルサレムを離れてヨルダン川の近くに来たのは、エルサレムでユダヤ教の指導者たちから殺されそうになっていたからです。そして、ヨルダン川の近くの村に来られたのですが、10章の42節を見ると、その地方で多くの人々がイエスを信じたと書かれています。つまり、このヨルダン川の近くで、主イエスと弟子たちは非常によい働きをしていたのです。弟子たちからすると、そのような場所を離れて、わざわざ危険がいっぱいのエルサレムがあるユダヤに行くことは、理解できないことでした。主イエスはラザロを癒すためにラザロの所に行って手を置いて祈らなくても、イエスの言葉一つでラザロが癒されることも、弟子たちは知っていました。以前、そのような奇跡が起こったからです。弟子たちは、イエスの身の安全を考えて、イエスに反対したのですが、イエスにも弟子たちの気持ちが分かっていました。それで、イエスは自分にははっきりとした使命があることを彼らに話されました。「昼間は12時間あるでしょう。だれでも昼間歩けばつまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」ユダヤ人にとって昼間とは午前6時から午後6時と決まっていて、昼間の時間は1年中同じでした。そして人々はその間に働きました。これは、主イエスが地上で神の子として働く時間は決まっていることを現わしています。それは父なる神様が定めた時間なので、その間に、ユダヤ教の指導者たちが何をしようとしても、イエスを捕らえたり殺したりすることはできません。主イエスは、間もなく終わろうとしている地上で働く昼間の時間、その最後をラザロのために奇跡を行うことに使おうとしておられました。間もなく、父なる神様が永遠の計画の中で定めた主イエスが十字架にかけられる時が来ます。神のひとり子の主イエスが私たちの身代わりとなって十字架に磔にされてつまずく時です。世の光である主イエスがこの世から去る時です。いわば、その時が闇の時です。主イエスは弟子たちに、闇の時はまだ来ていないから、ユダヤに行っても自分が殺されることはないから安心するようにと、伝えておられるのです。

 続けて主イエスは言われました。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りから覚ましに行くのです。」イエスはラザロは眠っていると言われましたが、これは比ゆ的な表現で、ラザロは死んでいるという意味です。私たちが死ぬとき、私たちの体は機能を停止します。呼吸も止まります。しかし、私たちの魂は活発に活動しています。ただ、見た目にはその人は聞くことも話すことも動くこともできませんから、眠ったように見えるので、眠っていると言われるのです。ただ、弟子たちはイエスの言葉の意味を正しく理解せずに言いました。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」弟子たちは、イエスの言葉を聞いて、ラザロは死んだのではなく、ただ眠っているだけ、つまり、病気が快方に向かっていると思ったのです。だとすれば、弟子たちからすると、イエスがわざわざ殺される危険があるユダヤに行く必要はないのだと考えました。そこで、主イエスは、弟子たちの誤解をなくすために、はっきりとラザロが死んだことを彼らに言われました。14節の後半からのイエスの言葉を読みましょう。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわち、あなた方が信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼の所へ行きましょう。」主イエスは、これから自分が何をするのか、ちゃんと分かっていました。一度死んだラザロを生き返らせることです。ラザロが重い病気にかかった時に、もし、イエスがエルサレムにいれば、ベタニヤはエルサレムから近い場所なので、すぐに行ってラザロの病気を癒されたでしょう。また、マルタとマリアの使いの言葉を聞いて、すぐにべタニアに行っていれば、その時も、主はラザロの病気を癒すことになったでしょう。弟子たちは、これまでもイエスが奇跡的に病気の人を癒す姿を何度も見て来たので、主がラザロの病気を癒したとしても弟子たちにはそれほど大きなインパクトは与えないと思います。しかし、もし、一度死んだラザロが主イエスの奇跡によって生き返るなら、弟子たちはきっと主イエスが持っている大きな力をもう一度はっきり確認することになります。主イエスは弟子たちのことを非常に心配しておられました。自分がいなくなった後、弟子たちが力強く信仰生活を送れることを主は強く願っておられたはずです。それで、彼らが信仰の確信を持つために、あえて、時間を調整して、ラザロが一度死んだ後に、生き返らせる奇跡を行うを計画しておられたのです。そういう訳で、主は、ラザロが死んだ時に、そばにいなかったことを喜んでおられるのです。弟子たちは、すでにイエスの弟子となって3年が過ぎていたのですが、彼らのイエスに対する信仰は、未だ不十分なものでした。主は、ラザロの死と奇跡によって生き返ることが、弟子たちの信仰を強めることを願ったおられました。ただ、弟子たちは、まだ、イエスの言葉の意味を正しく理解していませんでした。弟子の一人のトマスが、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」と言いました。私たちはトマスという弟子に対して、主イエスの復活を疑った疑い深い弟子というイメージを持っています。しかし、彼は主イエスを本当に愛して、主のためなら主と一緒に死にたいと思うほどでした。だから、このような言葉を言ったのですが、トマスもまた、主イエスの言葉を誤解していた一人です。

 私たちも、この時の弟子たちと同じように、神様の御心が分からずに、勝手に自分で「これが神様の御心だろう」と思い込むことがあります。私たちが病気になったり、試練を経験するとき、私たちはすぐに神様に対して否定的に考えたり、神様に怒ったりしますが、神様は私たちのために、すべてのことを働かせて私たちにとって益となるものを与えてくださると約束しておられます。私たちは、いつも、み言葉を注意深く、祈る心を持って読むならば、神様の御心が見えて来るはずです。主イエスは、いつでも私たちを愛しておられ、私たちのために最善の働きをしてくださる方であることを確信して、主に仕えて行く者でありたいと思います。

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