2021年4月18日 『主を信じる者は死んでも生きる』(ヨハネ11章17-36節) | 説教      

2021年4月18日 『主を信じる者は死んでも生きる』(ヨハネ11章17-36節)

 聖書には、人には必ず一度死ぬことと、死んだ後裁きを受けることが定まっていると書かれています。誰もがいつかは、この死を経験するのですが、やっかいなことは、誰も自分の死をコントロールすることができないことです。また、死んだらどうなるのかが分からなくて悩み苦しむ人も多いです。知恵者で有名だったソロモンも伝道者の書の中でこう言っています。「風を支配し風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。」しかし、聖書にはすばらしいメッセージがあります。死は人間の夢の終わりでもなく、人間の存在そのものの終わりでもありません。復活された主イエスを信じる者にとっては、死は恐れるのではなく、喜んで待つものです。今日の聖書の中の中心の言葉が語っています。「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」ヨハネの福音書の11章に記されている主イエスの奇跡、死んだラザロが死から生き返ったという奇跡も、主イエスが死を討ち滅ぼす力を持っていることを証明するものなのです。先週お話ししましたが、この11章全体にラザロの生き返りという奇跡が描かれていますが、4つの部分に分けられます。先週読みました1~16節は、ラザロが死んでその知らせがラザロの二人の姉から主イエスに届いたという出来事が記されています。そして今日の個所17節から36節には、主イエスがラザロが住んでいた村に到着されたことが記されています。37節~44節には、イエスの奇跡そのものが記されており、45~57節には、その奇跡が行われた後のことが記されています。今日の個所には、主イエスがラザロがいたベタニヤという村に来られたことが記されていますが、そこには、主イエスのラザロと二人の姉マルタとマリヤに対する深い愛情が現れています。

(1)主イエスの到着
主イエスが弟子たちとともにヨルダン川近くの村から、ラザロと二人の姉が住んでいたベタニヤに着いたとき、ラザロが死んですでに4日が経過していました。実は、ユダヤ人は、人が死んだ後、その人の魂は、もう一度死んだ人の体内に入ることを期待して、三日間その人の近くに漂っていると考えていました。しかし、4日も経つと、遺体が腐り始めるので、魂は離れて行くと信じられていました。そのため、ユダヤ人は死んで4日目にその人が確かに死んだと認めていました。ラザロと姉たちが住んでいた村ベタニヤは、都エルサレムから3キロしか離れていない小さな村でした。エルサレムにはイエスを殺そうとしているユダヤ教の指導者たちが大勢います。従って、イエスにとっては、ベタニヤに来ることは、危険いっぱいの場所に自分から飛び込んでいくようなものでした。しかし、主イエスが10章で言われたように、だれも、イエスからいのちを取ることはできません。主イエスは自分からいのちを捨てられるのです。主イエスはエルサレムに行くことを恐れてはいませんでした。19節を見ると、マルタとマリアのところには彼女たちを慰めるために大勢のユダヤ人が集まっていました。これほど多くの人がマルタとマリアを慰めようと集まっていたのは、恐らく、彼らが非常に人々から好かれていた名前の知られた人物であった空でしょう。彼らは、二人を慰めようと集まっていたのですが、神様のご計画の中で、彼らは、イエスが行う素晴らしい奇跡を目撃する人となるのでした。彼らの中には、ユダヤ教関係者もいたかもしれません。しかし、彼らがラザロが死から生き返るという奇跡を目撃すれば、イエスが行った奇跡を否定することはできなくなります。

(2)イエスの主張
 20節に「マルタはイエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。」と書かれています。二人の姉妹の性格は対照的でした。マルタは活発で行動的、一方のマリヤはおとなしく、深く考えるタイプでした。当時のイスラエルの文化では、亡くなった人の家族は、座っていて、それを親戚や知り合いの人が慰めるというのが普通だったのですが、マルタは性格的に、イエスが来られたと言う知らせを聞くとじっと座っていられなくなって、家を出て、イエスに会いに行きました。そして、イエスの顔を見るやいなや、彼女がこの数日間、あれこれと考えていた言葉が口から出て来ました。「主よ。もし、ここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」マルタは、イエスを責めている訳ではありません。イエスに知らせるために使いを送ったときはもうすでに遅すぎたということを彼女は分かっていました。ラザロが死んですでに4日が過ぎていますから、使いを送り出してすぐにラザロは死んでいたと思われます。ただ、主イエスが、ラザロが病気のときに近くにいなかったことが彼女にとっては非常に残念だったのです。ただ、彼女にはしっかりとした信仰がありました。22節で彼女はこう言っています。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」ただ、彼女はこのように言っていますが、主イエスがラザロを死から生き返らせることができるというところまでの確信はありませんでした。彼女はイエスが神と特別な関係を持っていることを信じており、主イエスが父なる神にお祈りをすると、この悲劇の中で何か良い事をもたらすことができるということを漠然と信じていたのだと思います。マルタの言葉に対して、主イエスは「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。主イエスは、これから自分が行うわざによって、ラザロがすぐに生き返ることを言われましたが、マルタは、そのように理解しませんでした。彼女が確信していたことは、ラザロは死にましたが、終わりの日に復活するということでした。実は、旧約聖書にも死んだ者が終わりの日に復活するという約束が記されています。例えば、一つの例として、ダニエル書12章2節に次のように書かれています。「ちりの大地に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と永遠の嫌悪に。」旧約聖書に記されている約束に基づいて、ユダヤ人は、終わりの日に、つまり、新しい世界が回復される時に、自分たちも新しい体で復活することを信じていました。また、主イエスも、終わりの日のよみがえりについて教えておられたので、マルタは神を信じる者は死んでも終わりの日に、新しい栄光の体をあたえられて復活することを信じていました。マルタはその信仰を言い表したのでした。彼女は、神が、遠い将来、死んだ者たちをよみがえらせるということを信じていましたが、同じ神が今すぐラザロを生き返らせることができるとは信じていませんでした。主イエスは、彼女の信仰をさらに広げるために、彼女に対して言いました。それが有名な25,26節の言葉です。25節を読みましょう。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」主イエスは、これまでにも、何度も繰り返して、「わたしは~~だ。」と宣言して来られました。ただ、これまでは、すべて例えとして言われました。「わたしはいのちのパンです。」とか「わたしは羊の門です。」とか、「わたしは世の光です。」という言葉などです。しかし、ここでは、たとえではなく、自分自身のことをはっきりと宣言されたのです。「わたしはよみがえりです。」「わたしはいのちです。」つまり主イエスはよみがえりそのものであり、主イエスはいのちそのものです。主イエスにとって、時間が今であろうと、終わりの時であろうと関係ありません。主は、いつでも、ラザロを蘇らせることができるのです。主イエスは、マルタが主イエスの本当の力を理解するようにと彼女にチャレンジを与えています。26節で主はこう言われました「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」25節と26節は同じことを言っているのではありません。25節は、イエスを信じる者は、肉体は死んでも、霊的いのちは生き続けるということを教えています。26節は、生きていて主イエスを信じる者には、すでに永遠のいのちが約束されているので、その人の魂は、決して死ぬことはないと教えているのです。主イエスは、マルタに「このことを信じますか。」と尋ねられました。すると、マルタは答えました。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子、キリストである、と信じております。」この言葉の中でマルタは主イエスについて三つのことを証言しています。1)「世に来られる」とは父なる神様に遣わされて、神の世界から人間の世界に来られた方という意味です。2)「神の子」そして3)「キリスト」とは、ユダヤ人の言葉であるヘブル語では「メシア」と言います。つまり、聖書に永遠の昔から預言されていた、世の人々を罪から救い出す救い主であると彼女は信仰を告白しました。マルタは、マリヤと比べられて、イエスの話をゆっくり聞かずに、いろいろ忙しく働く女性というイメージが強いですが、それだけはありません。マルタも、マリヤと同じように、主イエスの教えをちゃんと聞いていたのです。彼女は12人の弟子たち以上にイエスがどういう方であるのかを理解していました。

(3)イエスの憐み
マルタは、この後、妹のマリヤを呼んでイエスが来ていることを知らせました。すると、マリヤはすぐに立ち上がってイエスのところに行きました。主イエスはまだベタニヤの村の外に立っておられました。もし、イエスが直接彼女たちの家に行くと、そこには、二人を慰めるために大勢の人が集まっていたので、ちょっとした騒ぎになるはずです。マルタもマリヤも、その前に静かに主イエスと直接話がしたかったのだと思います。マリヤはそんな思いで家を出たのですが、慰めに来た人たちがマリヤが出て行くところを見て、ラザロが納められた墓に行くと思って、彼女の後について行きました。しかし、これも神様の計画にあったことです。この人たちは、イエスの大きな奇跡の業を見ることになるからです。マリヤはイエスの所にくるとひれ伏して、マルタと同じ言葉をイエスに言いました。そして、マリヤは姉のマルタよりも弟をなくした悲しみが強かったのか、泣いていました。また、彼女の後について行った人々も泣いていました。すると、33節に記されているように、主イエスは霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。「霊の憤りを覚えた」と訳されている言葉は、非常に強い意味を持つ言葉で、新約聖書では、他で2か所で使われているだけです。他の個所では、「厳しく警告する」とか「しかりつける」と訳されています。したがって、この言葉は、主イエスの非常に強い怒りの感情を現わしています。主イエスは、何に対して憤りを感じられたのでしょうか。一つには、罪の問題や死の問題が人間をひどく苦しめている現実に対する怒りだったと思います。それと同時に、ユダヤ社会では、葬式の時に、遺族の悲しみを盛り上げるために、わざと大きな声で泣くプロの泣き人が雇われていました。その人たちは、心から死んだ人の死を悲しむのではなく、葬式の雰囲気を盛り上げるために、わざと大きな声で泣いていました。主イエスはすべての状況を見抜いておられましたので、マリヤの周りで泣いていた人々の中に真心からではなくビジネスのためにラザロの死を泣いて嘆いている姿に対しても怒られたのだと思います。また、主イエスは心の動揺を感じておられました。この言葉も強い言葉です。福音書の他の個所で用いられている例として、主イエスが生まれる時、東の国から来た博士たちが、エルサレムの人々に、「救い主がどこで生まれるのか」と人々に尋ねていましたが、その言葉を聞いたヘロデ大王が動揺した時にも、この言葉が使われています。従ってこの時の主イエスの感情は非常に強いものであったことが分かります。35節に「イエスは涙を流された」と書かれています。主は、ラザロの体た納めてある墓を見て泣かれました。主イエスが泣かれたという記事は新約聖書にあと2つあります。主イエスは、自分が十字架にかかるためにエルサレムの町に近づいてきた時に、その街を見て泣かれました。もう一度は、へブル書5章7節に記されているのですが、おそらく十字架にかかる前にゲッセマネの園で祈られた時に、主は泣かれました。へブル人への手紙の4章に、「主イエスは私たちの弱さに同情できない方ではない」と書かれています。それは、主は罪を犯すことはなかったですが、私たちと同じように、あらゆる試練を経験されたので、一人一人の感情の動きを理解することができるからです。主イエスは、別の言い方をすると、泣く者とともに泣き、悲しむ者とともに生きる者となってくださったのです。私たちは、大きな試練や問題に直面すると、誰も自分の気持なんか分かってくれるもんか」とかなり勝手に悲観的になりがちですが、主イエスは、私たちが経験するあらゆる苦難や苦しみをすべて理解してくださるお方です。そして、すべての人に永遠のいのちを与えることのできるお方です。このいのちをしっかり握って、日々栄光のゴールを目指して歩みたいと思います。

                                     

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