2021年4月25日 『いのちを与える主イエス』  (ヨハネの福音書11章36~44節) | 説教      

2021年4月25日 『いのちを与える主イエス』  (ヨハネの福音書11章36~44節)

ヨハネの福音書の11章は、主イエスが親しくしていたラザロという人が死んだことによって、主イエス・キリストが、人にいのちを与える方であることが示された出来事が記されています。すべての人にとって、人生最大の問題は「死ぬということ」です。かぐや姫の話の中にも出て来ますが、「死なない薬」を見つけることは人間にとって最大の願いと言えるでしょう。しかし、実際には死は、すべての人に必ず訪れます。どんなに素晴らしい人生を送った人であっても、死が訪れると、その人はどうすることもできません。死に対して人間は本当に無力です。しかし、聖書は、そうではないとはっきりと教えています。いのちを与える主イエス・キリストを信じる者にとっては、死は、終わりではなく、絶望でもないのです。今日、読んだ箇所は、特にそのことをはっきりと教えています。

 主イエスは、自分の友達であるラザロが死にかけているという知らせを聞いた時、エルサレムから遠く離れた場所におられました。ラザロはエルサレムの直ぐ近くのベタニヤという村に住んでいましたので、イエスがベタニヤに行くには2日は必要でした。ところが、その知らせを聞いても、主イエスはすぐにベタニヤに行かないで2日待ってからベタニヤに向かって出発されたので、イエスがベタニヤに着いた時には、すでにラザロが死んで4日過ぎていました。ラザロの二人の姉、マルタとマリヤは、主イエスが来たことを喜びましたが、ラザロが死にかけていた時に、近くにおられなかったことをつくずく残念に思っていました。主がラザロのために祈ってくだされば、ラザロの病気は癒されると思っていたからです。そんな彼女たちに主イエスは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。あなたは、このことを信じますか。」と言われて、いのちを与えることのできる自分を信頼するようにと二人にチャレンジを与えられました。
 イエスが神の子として働いておられた時、同じ教えを聞き、同じ奇跡を見ても、イエスをほめたたえる人と、イエスを批判する人とに分かれました。主イエスが、ラザロの墓の前で涙を流したときもそうでした。ある人は言いました。「この人は本当にラザロを愛していたんですね。」しかし、別の人は「この人は、盲人の目を開くことはできたが、さすがに、死んだ人を生き返らせることはできなかったんだな。」というふうに見ていました。自分を信じようとしない人々の言葉が主イエスをひどく怒らせました。イエスは心に憤りを感じながらラザロの墓にやって来ました。「墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた」と書かれています。当時の墓の多くは、自然の洞穴を使ったり、崖に穴を掘って墓にしたりするものが多かったようです。入口には非常に大きなうすく切り出した岩が置かれていました。主イエスは、「その石を取り除けなさい」と言われました。墓を開けるということです。イエスの言葉を聞いて、マルタはパニックになったと思います。なぜ、主イエスが墓を開けようとしているのだろうか。主が愛していた親友ラザロの遺体を一目見たいと思っておられるのだろうか。ただ、弟ラザロはすでに死んで4日が過ぎています。彼女は、ラザロの体がすでに腐り始めているのではないかと恐れました。ユダヤ人は、エジプト人のように、遺体をミイラにすることはなかったのですが、没薬という薬を体にぬってから包帯で巻いていました。その薬は体が腐るのを遅らせる働きとにおいを消す働きがあります。しかし、さすがに4日も経つと、ラザロの遺体は臭くなっているに違いないと彼女は思いました。それで、マルタはイエスに「主よ。もう臭くなっています。四日になりますから。」と答えています。当然のことですが、マルタは、弟ラザロが死んだので、すべての希望を失っていました。

 そんなマルタに対して主イエスは言われました。「信じるなら神の栄光を見ると、あなたに言ったではありませんか。」このイエスの言葉には二つの意味があります。一つは、彼女に希望を与える言葉です。もう一つは、やさしくマルタを叱っている言葉でもあるのです。というのは、23節で、主は「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われましたし、25,26節で、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」とマルタに言われていました。主イエスは、マルタに、「弟のことを心配することをちょっとやめて、私の言葉をよく聞きなさい。私を信頼しなさい。」と言っておられるのです。「神の栄光を見る」とは、神様の本当の力、本当の姿を経験するという意味です。2000年前の人にとっても、常識で考えれば、一度死んでしまった人が生き返るなど、ありえないことです。ユダヤ人は、神を信じる者は、この世が終わる時、遠い将来、死んだ者は新しい体をもらって復活することを信じていました。マルタもそのことを信じていましたが、今、この瞬間、自分の目の前で、4日前に死んだラザロが生き返ることを信じることはできませんでした。しかし良く考えてみてください。世の終わりの時に私たちに新しい体とともに復活することを、実現してくださるのは誰なのでしょうか。私たちは自分の力でそんなこと絶対にできません。それは、いのちを与える神様です。今、目の前にいる死んだラザロを生き返らせてくださるのは一体誰なのでしょうか。いのちを与える神様です。この二つは、どちらも同じ神様が働いてくださるので起きることです。今、マルタの前には、世の終わりに私たちをよみがえらせて下さるいのちの主であるキリストがいるのです。そのことに彼女は気が付いていませんでした。

 人々は、主イエスが言われたように墓の入口に置かれていた石を取り除けました。それから、主イエスは父なる神に向かって祈られました。その祈りの中で、主は、父なる神にラザロを生き返らせてくださいとお願いをしているのではありません。主イエスは父なる神に感謝しています。自分の願いを来てくださったことを感謝しますと言っています。そして、主イエスは、自分の利益のために祈っているのではなく、今、墓の周りに集まっている人々が自分が神から遣わされた者であることを信じることを願って祈られました。この祈りは、ユダヤ教の指導者たちに対して、主の働きは父なる神様から与えられた使命であること、そして、主イエスと父なる神は一つであることを示す祈りでした。主イエスは祈りを終えると、大声で叫ばれました。「ラザロよ、出て来なさい。」主イエスは、ラザロを生き返らせるために、別に大声を出す必要はありませんでした。集まっていた人々の中には、イエスを神と信じる人々もいましたが、信じていない人々もいました。主イエスは、すべての人に、ラザロが生き返ったと言う事実をよく見るようにと、皆の注意を引くために、大きな声で叫ばれたのです。でも、この光景は、私たちが遠い将来に経験することを連想させるものです。私たちも一度死んで、魂だけが生きている状態が続くのですが、終わりの日に、神様が私たちの名前を呼んで、「小西直也、目を覚ましなさい。」という声を聞くのです。目を覚ますと、そこに、主イエスがおられます。今は、目に見えない姿で私たちとともにおられますが、その時は、初めて主イエスの顔を見ることになるのです。そして、永遠に、新しい天と呼ばれるところで御子イエス、父なる神とともに生きることになります。主イエスがラザロの名前を呼んで目を覚まさせる様子が、私たちの将来の姿を思い起こさせてくれます。私たちは、その時を、楽しみに待つことになります。実は、このことを主イエスはヨハネの福音書5章で、すでに話しておられます。28,29節を読みましょう。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」クリスチャンは善を行った訳ではないのですが、主イエス・キリストを救い主と信じたことによって、善を行った者として認めてもらえるようになったのです。

 主イエスの大きな声があたり一面に響きました。このイエスの声が死んだラザロを生き返らせました。彼は手と足を長い布でまかれたまま出て来ました。彼も当時ユダヤ人たちが行っていたように、体に没薬が塗られて、そして、体には包帯が巻かれていました。彼は、そのままで出て来ました。体に包帯が巻かれたままなので、ぴょんぴょんと飛ぶように出て来たかもしれません。死んで4日も経っていたにも関わらず、マルタとマリヤがともにまったく想像もしていなかったことが起こりました。ラザロが生き返ったのです。いのちを与えることのできる主イエスが、こんな状況のラザロにもいのちを与えることができました。ただ、ラザロはそのままでは動きにくいでしょうから、主イエスは人々に「ほどいてやって、返らせなさい。」と言われました。主イエスは、奇跡を行われたら、それで終わりではありません。その人にその後必要なことを指示しています。例えば、会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせた時も、皆が驚いてびっくりしている時に、この少女に何か食べるものを与えるように指示しています。主イエスは、見世物のように奇跡をすることは一度もありません。助けが必要な人に助けを与え、その人が必要なことを全部知って、それを解決しておられます。ただ、不思議なのは、これが普通の物語であれば、ここで、ラザロが姉のマルタやマリアと涙の再会をする場面、近くで見ていた人々の驚いた様子、生き返ったラザロがどんなことを話し、その後どうなったのか、という場面が描かれるはずです。しかし、この福音書を書いたヨハネは、一切、そのようなことを書いていません。それは、ヨハネは、あくまでも、この奇跡は、イエスキリストの栄光が現れるためであること、この出来事を読んだ人々がイエスを神だと信じることを目的として書いているからです。イエスが、集まっていた人々に墓の前の石を動かせたり、ラザロの体に巻かれていた包帯をほどいたりさせたことにも意味があります。彼らは、最初は、主イエスの奇跡を見ているだけの人たちでしたが、彼らは、主イエスの奇跡に加わることになりました。そして、彼らは、主イエスの神の力を自分の目で確かめました。彼らの中にはイエスに反対する人たちもいたでしょう。しかし、彼らも、主イエスの神としての力を否定することができなくなりました。

 この奇跡を見た多くの人は主イエスを救い主と信じました。しかし、何人かは、このような大きな奇跡を見ても主イエスを救い主と信じようとせず、イエスを殺そうとしていたパリサイ人のところに知らせに行きました。主イエスの教えを聞き、奇跡を見ても、信じる者のと信じない者がいるのはいつの時代でも同じです。しかし、主イエスを救い主と信じる者にとっては、この奇跡は、大きな希望を与える奇跡です。この世の終わりの時に、私たちを復活させてくださるいのちの主は、今も、生きておられて、私たちが生きているこの時にも、私たちに人間の力をはるかに超えた力で私たちを守り、私たちを助け、私たちの様々な必要を満たしてくださるのです。主イエスのもう一つの名前は「インマヌエル」です。これはヘブル語で、「神は私たちとともにおられる」という意味です。主イエスは、今も生きておられます。私たちの肉眼では見えませんが、私たちとともにおられます。今の時代、生きることは決して簡単なことではないし、また、いつも喜んでいられるわけでもありません。将来に対しても不安がいっぱいあります。しかし、それでも、死んで4日目のラザロにさえいのちを与えることのできる主イエスが、今、私たちとともにいてくださることを知るなら、不安は消え去ります。主イエスはマルタに言われたのと同じ言葉を私たちにも語り掛けておられると思います。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」あなたは主イエスを信じますか。信じるなら、神の栄光を見る者となります。

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