福音書を読むと分かりますが、福音書は単なるイエス・キリストの生涯を描いた伝記ではなく、主イエス・キリストに関するメッセージを伝える書物です。特に、マタイの福音書は、これを書いた主イエスの弟子が、弟子になる前は取税人、つまり今の税務署の役人であったため、福音書全体にしっかりとした構造があります。今日は19章を読みますが、18章と19章には、主イエスを信じる者、私たちクリスチャンとはどのような者であり、クリスチャンは周りの人間とどのように関わるべきなのかということを主イエスが教えておられます。18章には2つのことが教えられていて、一つは他のクリスチャンとどのように関わるのかということが教えられています。それは、弟子たちの間で「自分たちの中で一番偉いのは誰なのか」という議論が起きたからです。主イエスの答えは、一人の子どもを呼び寄せて言われました。「だれでも、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。」もう一つは、自分に悪を行う人にどう関わるかという問題です。ペテロはイエスに「自分に悪いことをする人間は何回赦せばいいのか。7回赦せば良いのか」と尋ねましたが、主イエスは「7を70倍するほど赦しなさい」と言われました。19章には、夫婦の間の関係について、そして、子どもに対して、その後は、お金に対してどのように考えるべきかということを教えておられます。今日は、その中で、子どもという存在をどのように考えるべきかということがテーマになりますが、これも、13節から15節だけで考えるのではなく、その次の出来事と関連付けて考えることが大切だと思います。というのは、13節から15節までに出て来る子どもと16節から22節までに登場する青年とが不思議なコントラストになっているからです。弟子たちが追い返そうとした子どもたちは主に受け入れられましたが、聖書の教えについてよく知っておりイエスの弟子になりたいと思って主イエスに近づいてきた立派な青年は主のもとを去って行ったからです。主イエスの考えと、私たちの常識とがまったく正反対であることが分かります。
今日の出来事の前がどのような状況であったのかを見てみましょう。19章の3節に「パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。『何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。』パリサイ人たちは宗教家でしたが、主イエスを敵と見なして、難しい質問をしてイエスが何か変な答えをすれば訴えようと考えていた人々です。本当に答えを求めているわけではありませんでした。しかし、この質問を受けて主イエスは結婚について教えを始められました。マタイの福音書では12節まで一つの場面として描かれていますが、マルコの福音書10章10節に、「家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。」と書かれていますので、いったん、主イエスと弟子たちは、パリサイ人たちとは分かれて、どこかの家に入られたことが分かります。そして、その家の中で、今度は、主イエスが弟子たちだけに対して同じ結婚の問題について教えておられました。それは、弟子たちにとって非常に貴重な時間でした。主イエスのもとには絶えず、イエスを訴える口実を見つけようとわざと難しい質問をするパリサイ人や律法学者たちがやって来るので、弟子たちが直接イエスから教えを受ける時間は、十字架の時が近づくにつれて少なくなっていたので、弟子たちにとっては、この時は本当に貴重な時間でした。ところが、そんな所へ、イエスが近くにいることを知った若い親たちが、イエスに自分の子どもに手を置いて祈ってもらおうとして、その家にやって来たのです。13節を読みましょう。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。」ユダヤ人の社会では、よく祝福を願って子どもの頭に手を置いて祈ることが良く行われていました。特に父親が自分の子どものために神様の祝福を求めて、子どもの頭に手を置いて祈ることが行われていました。それは父親の子どもに対する愛情の表れでもありますし、家族の長である父親が神様から委ねられた権威に基づいて行われていました。創世記の時代のヤコブには12人の息子がいました。その一人がヨセフですが、ヤコブはヨセフの二人の息子、つまり孫のために手を置いて祈ったことが記されています。それほど、子どものために祝福を祈ることは、ユダヤ人にとって大切なことでした。
私たちの教会でも、石黒妙子先生がご健在な頃、南福音診療所でたくさんの赤ちゃんが生まれるので、それらの赤ちゃんに神様の祝福があることを願って「子ども祝福式」という行事が行われていました。診療所で生まれて3歳になった子どもたちが親に連れられてたくさん出席しました。私が一人一人の頭に手を置いてお祈りをするのですが、私にとってもとてもうれしい時でした。ご父兄の方々も、キリスト教の祈りであっても、この祈りを喜んでくださいました。親が子どもの人生の祝福を願う気持ちは自然なことです。しかも、主イエスを信じる親にとっては、イエスから直接祝福の祈りをしてもらうことは、本当に大きな喜びであったと思います。
イエスのみもとにやって来た親たちも、自分の子どものこれからの祝福のために、イエスに手を置いて祈ってもらいたかったのでしょう。マタイでは「子ども」という言葉が使われていますが、ルカの福音書18章15節では「幼子」と書かれています。この「幼子」と訳されているギリシャ語の言葉は、お母さんが抱いている本当に小さな赤ちゃんを意味する言葉です。したがって、この時、何人かの親たちが、イエスの所に、今でいえば小学生から生まれたばかりの赤ちゃんまでのいろいろな子どもたちを連れて来ていたことが分かります。子どもたちは元気がいいですからおしゃべりしていたでしょう。特にイエス様を見るのは初めてでしょうから、嬉しくてはしゃいでいたかもしれません。また赤ちゃんはぐずって泣いていたことも考えられます。とにかく、イエスと弟子たちがいた家が、それまでは静かだったのに、急に騒々しくなりました。その様子を見て、イエスの12弟子たちは、子どもたちを連れて来た親たちをりつけました。なぜ、弟子たちは、この親たちを叱りつけたのでしょうか。それは、この時、弟子たちは、久しぶりに、主イエスから大切な教えを受けていたからです。彼らにとってとても大切な時間を、子どもたちに邪魔されたくないと感じました。大人から見ると、子どもは何も分からない、何もできない、まだ大した価値も持っていない、そのような存在に見えてしまいます。しかも、この時、弟子たちが見ると、子どもたちは病気にかかっている訳でもないので、今、主イエスに一人一人手を置いて祈ってもらう必要などないのではないかと考えたでしょう。今、主が子どもたちのために祈ったら、次から次に子どもたちが連れて来られて、自分たちは何もできないし、主イエスにとって大きな負担になるとも考えたかも知れません。弟子たちにとって、子どもをイエスのもとに連れてくることに反対する理由は山ほどありました。いずれにせよ、弟子たちは、自分の大切な恵みの時を、こんな子どもたちのために邪魔されることが非常に腹立たしかったのです。
その様子を見ておられた主イエスは言われました。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものです。」マルコの福音書によると、主イエスは弟子たちの様子を見て憤ったと書かれています。「憤った」と訳されているギリシャ語は、珍しい言葉で、「大きい」という言葉と「悲しみ」という言葉がくっつけられています。この時に主イエスの感情は、憤りでもあったでしょうし、大きな悲しみでもありました。彼は、弟子たちには少し前、マタイの福音書の18章に記されていますが、その時にも、「悔い改めて、子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」と教えておられたばかりでした。主は弟子たちが自分の教えをまったく学んでいないこと、彼らが子どもたちに愛を示さなかったことに、憤りと悲しみを感じられたのです。
主イエスは本当に子どもを愛しておられました。主イエスは数多くの奇跡を行われましたが、その多くが子どもを癒すことでした。王室の役人の息子の病気を癒されました。ユダヤ教の会堂管理者ヤイロの娘をも癒されました。その時に主イエスは娘にむかって優しく「少女よ、起きなさい」と言われると、死んだようになっていた娘がすぐに起き上がって歩き始めたので、人々はひどく驚きました。それだけでなく、主はこの少女に何か食べ物を与えるように言われました。主が本当にこの少女を大切に扱っていることが分かります。また、十字架の時が近づいていたころ、主イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に上られました。その時主イエスの姿が栄光の姿に変わるという出来事がありました。その後、主イエスと3人の弟子たちが山から下りてくると、ある父親の息子が悪霊につかれて苦しんでいました。その時も、主イエスは、悪霊を叱りつけて、「この子から出ていけ、二度とこの子に入るな。」と言われると、その子は悪霊から解放されました。このように主イエスは子どものために多くの奇跡を行われました。当時のユダヤの社会でも、子どもは一人の人間とは見なされていませんでした。紀元2世紀にイレナエウスという聖人がいたのですが、その人がイエスについて次のように言っています。「主イエス・キリストは、すべての人を救うためにこの世に来られた。そのために、私たちと同じように赤ちゃんとして生まれ、幼児、子ども、少年、青年と成長された。それは、幼児には幼児として、子どもには子どもとして、青年には青年として接することによって、すべての人々を救うためであった。」本来の御子キリストのお姿は、天地創造の神、全知全能の神なのですが、私たちを罪から救うために、低くなって私たちと同じ姿を取り、赤ちゃんとして生まれてくださいました。すべての人のために、すべての人と同じようになって、その人を救うためでした。
主イエスは「天の御国はこのような者たちのものなのです。」と言われましたが、マルコの福音書では、続いて、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」と言われました。ここの「決して入れません」の「決して」は非常に強い否定の言葉が使われています。大人の私たちは、子どもは天国に入れるのかと考えますが、主イエスは、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、絶対に天国には入れない。」と言われました。私たちは、子どもは何も分からない、子どもは何もできないと考えます。しかし、主イエスが言われるのは、天国に入るためには、何もできない何も分からない子どものようにならなければならないということです。つまり、私たちは、自分が罪から救われるためにできることは何もない、自分の中に救われる資格となるようなものが何一つないことを認めなければならないということです。救いを受けるために必要なのは、自分には何もないことを認める謙遜な心が必要です。この出来事の後に、ひとりの立派な青年が救いを求めてイエスのところに来ます。彼はイエスにこう言いました。「永遠のいのちを得るために、どんな良い事をすればよいのでしょうか。」彼の心の中に、自分には、救いを得るためにできることが何かあると思っていました。しかし、結局、彼は、何もできず、しかも主イエスの言葉に従うこともできずに、イエスから離れて行ってしまいました。私たちは、神様について救いについて、何かを知ったから、何かを理解したから救われるのではありません。もちろん、救いが何かについて知ることは必要なことです。しかし、知識によって救われるのではありません。また、人は何か良い事をした結果救われるのでもありません。誰も、そんなことはできません。子どものように、自分には何もないということを認めることが救いへの第一歩です。
そして、子どものもう一つの特徴は、純粋に信頼する心です。幼子は疑うことをしません。誰かに肩車してもらった時に、子どもは、心の中で、「この人はもしかすると自分に悪意を持って、自分を殺すかもしれない」などとは考えません。そういう意味で、子どもたちは多くの危険にさらされているのですが。大人が信仰を持つときに、けっこう疑います。あの奇跡はどうなのか。あのイエスの言葉は正しいのか。なかなか100%の信頼を主イエスに置こうとしません。しかし、子どもには疑う心はありません。神様をそのままに信じています。神様を信じる信仰に必要なのは、子どものように謙遜になって自分には何もないことを認めることと、子どものように疑わずに神様を信頼することです。19世紀の有名な伝道者D.L.ムーディーという人がアメリカにいました。大きな集会を開いて、たくさんの人が主イエスを信じました。ある集会が終わって、彼はこう言いました。「今日は2.5人が救われたよ。」それを聞いた人が、「つまり、大人が二人と子どもが一人ということですね。」と言うと、彼は答えました。「いや、子どもが二人と大人が一人だ。子どもは自分のすべてを神様に明け渡すが、大人は半分しか明け渡さないからな。」
それから、主イエスは、子どもたちを抱き、彼らのうえに手を置いて祝福されました。「祝福する」と訳されている言葉は、神様が何かのことを誰かのことを大きな喜びをもってほめたたえる、賛美するという意味を持つ言葉です。主イエスは、子どもを抱いて、本当に喜んでおられる姿が目に浮かぶようです。そしてこれらの子どもたちをしっかりと胸に抱いて祝福されました。主イエスは、子どもたちが自分を慕っていること、信頼していることを知っておられるのです。また、イエスは、この子たちと言葉をかわし、子どもたちと交わりを持っておられます。神様は、私たちを一人一人そのように扱ってくださいます。ただ、そのために必要なことは、子どものように謙遜に、自分には罪から救われるためにできることは何一つないことを認めることと、子どものように、全面的に主イエスを信頼して、主イエスの胸にしっかりと抱かれることです。それが信仰です。使徒パウロもエペソ人への手紙の中で言っています。「この恵みのゆえに、あなたがたは、信仰によって救われたのです。それは、あなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」あなたも、主イエスの胸に飛び込んでみませんか。