2021年5月16日 『イエスを愛する人と裏切る人』(ヨハネ12章1-11節) | 説教      

2021年5月16日 『イエスを愛する人と裏切る人』(ヨハネ12章1-11節)

 主イエスがラザロを死から蘇らせたことは人々に大きな衝撃を与えましたが、それは、イエスを神と信じる人々も、イエスに敵対する人々も同じでした。特に、これまで主イエスと敵対してきたユダヤ教の指導者たちは、イエスを殺すことを彼らの間で決定しました。しかし、いつも言っているように、イエスの十字架の死は、彼らの陰謀と策略で起きたことではありません。神様ご自身が永遠の昔から持っておられた計画です。したがって、まだ、このタイミングはイエスの死ぬべき時ではなかったので、11章54節に記されているように、イエスは十字架の時が来るまで、ユダヤ教指導者たちがいる場所を公然と歩くことをせずに、エフライムという村に退いて、そこに滞在されました。そこは、エルサレムの北20キロのところにある村でした。その後、過越しの祭りの6日前になって、主イエスは弟子たちと共に、ふたたび、ラザロが住んでいたベタニヤに戻って来られました。6日後の過越しの祭りの時に、主イエスは十字架にかけられます。いよいよ、主の十字架の時が迫って来ていました。2節に、「人々がイエスのために夕食を用意した」と書かれています。その食事会の中で、いろいろな人が違った反応を示しています。そして、それは、主イエスを愛する人々と主イエスに敵対する人々へと分けられて行きました。今日は、この夕食会で明らかになったいろいろな人々のイエスに対する姿勢を見て行きたいと思います。
(1)マルタの心のこもったおもてなし
2節に、「人々はイエスのためにそこに夕食を用意した」と書かれていますが、マタイやマルコの福音書には、ハンセン氏病にかかったシモンという人の家で食事をされていたと書かれていますので、夕食会は、マルタ、マリア、ラザロの家ではなく、シモンという人の家で開かれていたことが分かります。しかも、イエスを招いたシモンは、ハンセン氏病に冒された人と呼ばれています。彼がその病気から完全に癒されていなかったら、彼はイエスを招く食事会を開くことはできません。したがって、シモンは完全に癒されたいたはずです。そのシモンがイエスのために夕食を用意したことを考えると、恐らく、シモンは、主イエスによって、奇跡的に自分の病気を癒してもらったのだと思います。シモンは主イエスに感謝の気持ちを表すために、この夕食会を開いたのです。その食事会の場所に、ラザロのお姉さんのマルタがいました。ルカの福音書の10章に、イエスと12人の弟子たちがベタニヤの彼らの家を訪れて、その時、マルタが食事の用意をしていたことが書かれていますが、その時、マルタは13人分の食事を用意するために忙しくしていたのですが、妹のマリアは彼女のお手伝いをせずに、弟子たちと一緒にイエスの教えをじっと聞いていました。その様子を見てマルタは、自分を手伝わないマリアにも、それを見ても何も言わないイエスにも腹をたててイエスに文句を言いました。すると、主イエスは彼女に「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」と答えておられます。主イエスは、彼女がイエスや弟子たちのために食事を整えていることを批判しているのではなく、「何を第一に優先するべきかよく考えなさい」と言われたのです。彼女はイエスに仕えたいと思って食事を用意していたのですが、そのために、結果的にイエスとともに過ごす時間がなく、そのためにいろいろなことで心を乱されていました。一方、マリアは、この時、イエスとともに時間を過ごすことを選んでいました。イエスは、それがただ一つ必要なことだと言われました。この出来事を通して、マルタはいろいろと自分の行動を反省したのだと思います。今回、シモンの家で開かれた食事会で、給仕をしていたのはマルタだけではなかったはずです。マルタは、主イエスのために食事を給仕する奉仕をしていました。今回は、マルタ自身も心を乱していませんし、主イエスも彼女の給仕を喜んでいたと思います。それは、マルタの主イエスに仕える姿勢が変わっていたからです。
(2)マリアの捧げもの
その食事会の場所にはマルタの妹のマリアもいました。彼女は、以前から、イエスの教えを弟子たちと熱心に聞いていましたし、主イエスを心から尊敬していました。さらに、今回、主が一度死んだ自分の弟を生き返らせて下さったことに対してどうしても自分の感謝の気持ちを伝えたいと思っていました。3節にはこう書かれています。「一方、マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」ナルドというのは、北インドの山岳地帯が原産の植物で、香油は、その根と穂から抽出されてできたもので、非常に良い香りがします。ナルドの香油はイスラエルから非常に遠い北インドから運ばれてくることもあって、非常に高価なものでした。特に、マリアが持っていたのは100%純粋な香油だったので特に高価でした。5節で、イエスを裏切るイスカリオテのユダが「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言っていますから、普通の人が見ても、その香油はそれぐらいの価値があったのでしょう。デナリとはローマ帝国のお金で当時、イスラエルでも使われていました。1デナリは一日の賃金相当の金額で、ローマ軍の兵士の年俸が300デナリでした。おおざっぱな計算では300万円くらいになります。恐らく、マリアは結婚する時のために親からもらっていたものだと思います。いずれにせよ、マリアにとって非常に大切な宝物でした。また、マルコの福音書によると、「マリアは非常に高価なナルド油の入った石こうのつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」と書かれています。この石こうのつぼも非常に高価なものでした。マリアはそのつぼを割ったのですが、ここで。「割る」と訳されているギリシャ語の言葉が「こなごなに砕く」という意味を持っています。したがって、マリアは、最初から、香油のすべてを主イエスの体に注ぎかけようと思っていたことが分かります。私たちが神様にささげものをする時に、心のどこかで、少し自分のために残しておこうと考えることがありますが、マリアの頭にはそのような考えはまったくありませんでした。
 彼女は、その油をイエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスを足をぬぐいました。マリアが突然、香油のつぼを割って、その油をイエスの足に塗ったことは、食事会に集まっていた人々を驚かせましたが、さらに人々が驚いたのは、マリアが自分の髪の毛でイエスの足をぬぐったことでした。ユダヤ人の社会では、他の人の足を洗うことは、人の品位を落とすことで、それは召使いがすることと考えられていました。最後の晩餐の時、主イエスと12弟子たちは、借りた部屋で食事をしましたが、そこには彼らの足を洗う召使いがいませんでした。その時、弟子の誰も他の人の足を洗おうとしませんでした。それは、彼らが皆、その仕事は召使いのすることだと考えていたからです。しかし、マリアは、弟子たちと違って、喜んで主イエスの足を洗いました。そして、さらに人々がびっくりしたのは、マリアがタオルではなく自分の髪の毛でイエスの足をぬぐったことでした。ユダヤ人社会では、良識のある女性は、いつも、長い髪の毛をきちんと編んでいました。そして、決して人前で髪の毛をほどくことをしませんでした。そういうことをするのは不道徳な女性だと見なされていたからです。しかし、マリアは人の目などまったく気にすることなく、ただ、精いっぱいの愛をこめて、イエスのために、自分にできる限りのことを行いました。この時、イエスや弟子たちがいた家の中は香油の香りでいっぱいになりました。この香りは、集まっていた人々にステキなプレゼントになりました。マリアの行動は、人々を驚かせました。また、イスカリオテのユダをはじめ一部の人は、その行為がもったいないものだと言って厳しく批判しました。しかし、主イエスの考えは違っていました。他の福音書を見るとマリアは主イエスの頭にも香油を注いでいます。普通の人ならびっくりしてマリアに怒るかもしれません。しかし、主イエスはマリアを批判した人々に言いました。マルコの福音書14章にはこう書かれています。「彼女は自分にできることをしたのです。まことにあなたがたに言います。世界中どこででも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
(3)偽善者イスカリオテのユダ
マリアが突然、イエスと弟子たちが食事をしている部屋に入って来て、石こうのつぼを割ってイエスの頭と足に香油を注いだ時、人々は唖然として何も言うことができず、主イエスがどのような対応するだろうかと、主イエスの反応を見ていたことでしょう。すると、その静けさの中で、怒りに満ちた弟子のイスカリオテのユダの声が部屋中に響きました。「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」実は、この言葉、イスカリオテのユダの言葉として福音書に記されている最初の言葉です。ユダの言葉は一見、立派なことを言っているように聞こえますが、この言葉には、ユダのむさぼる心、自己中心、様々な悪いものが潜んでいました。何よりも、ユダは、マリアの行動に主イエスに対するどのような思いがあったのかまったく考えていません。彼が見ていたのは、無駄に流された香油であり、その300デナリという価格でした。香油の持ち主のマリアは、主イエスに香油を注ぐ時に、それが300デナリだという計算はしていません。とにかく自分の感謝の気持ちを表すために主イエスに何かして差し上げたいと思いだけで行動していました。一方ユダは、香油の値段をすぐに頭の中で計算して、もったいないと思っていました。しかもこの福音書を書いた弟子ヨハネのコメントが6節に書かれています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからである。」ユダは、もしマリアがその香油をイエスに捧げていれば、それを売れば300デナリになる。それを金入れに入れれば、自分が大きな金を盗むことができると考えていことを示しています。
 そんなユダの偽善者的な言葉に続いて、主イエスがすぐにマリアを守るために発言されました。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」主イエスの言葉の意味は、「マリアは自分の財産であった香油をこれまで、それを売って自分のために使うことをせずに取っておいたこと、そして、それを主イエスのためにすべてを注いでこと、これは、実は、主イエスが死んで葬られる時に遺体に塗られる薬の役目を果たしているのだ。」もちろん、マリア自身は主イエスの葬りのために香油を注いだのではありませんが、先週の大祭司カヤパのあくどい言葉が主イエスの十字架を預言する言葉に変えられたように、彼女の行いも、単に主イエスへの感謝を表す行為というだけでなく、主イエスの十字架の死を準備する行為として主イエスが受け取ってくださったことを表しています。そして、ユダの偽善的な言葉に対しては、主は次のように言われました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」と言われました。ユダは立派なことを言いましたが、実は、その立派なことをしていなかったのです。これは、ユダだけでなく、私たちも、他人の行いを見て批判をするときに、立派なことを言いますが、実は、自分自身も行っていないことが多いのです。ユダは、自分が貧しい人に施しをしようと思っていたら、その機会はいつでもたくさんあったはずなのです。主イエスは貧しい人に施しをすることを否定しているのではありません。ただ、今置かれている状況の中で、何を第一にするのか、自分の行いの優先順位をよく考えなさいと言われたのです。マリヤは主イエスのために何か良いことをしてあげたいという思いで、香油を注ぎましたが、この時を逃すと、マリヤには主イエスに自分の感謝の気持ちを表す時はなかったのです。彼女のしたことは、主が十字架につけられる前の最後の出来事になったのです。
(4)イエスに敵対するユダヤ教の指導者たち
 この時、ユダヤ教の指導者たちは、すでにイエスを殺すことを決めていました。しかし、大勢の人々がラザロが生き返った奇跡を目撃してイエスを神だと信じるようになっていることに危機感を覚え、イエスだけではなく、ラザロも殺さなければならないと考えていました。ラザロが生きている限り、主イエスが奇跡を行う力を持っていることを否定することはできません。大祭司カヤパは一人の人が民の代わりに死んで国民全体が滅びないほうが得策だ。」と言いましたが、もはや一人では足らず、二人を殺さなければならない状況になっていました。

 このように見てみると、主イエスに対してマルタやマリヤのように主を愛して主のために仕えて働く人もいれば、イスカリオテのユダやユダヤ教の指導者たちのようにイエスを裏切り、イエスを殺そうとする人々もいました。人間は主イエスに関しては中立という立場にいることはできないのです。そして、その立場によってその人の永遠の運命が決まります。使徒の働き4章12節にはこう書かれています。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないのです。」私たちは、主イエスを救い主として受け入れて、マリヤのように、自分にできることで精いっぱいの感謝を表す者として生きるでしょうか。それとも、主イエスの教えや奇跡を否定して、主に敵対する者として生きるのでしょうか。

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