2021年5月23日『死ぬために来られた主イエス』(ヨハネの福音書12章12~19節) | 説教      

2021年5月23日『死ぬために来られた主イエス』(ヨハネの福音書12章12~19節)

 先週は、主イエスと弟子たちが、ベタニヤという村に住むシモンという人の家で食事会が行われたという出来事について読みました。シモンは以前ハンセン氏病を患っていたのですが、主イエスの奇跡によって癒された人物です。彼は、主イエスに感謝の気持ちを伝えるために食事会を計画したのですが、そこには、イエスと弟子たちの他、主イエスと弟子たち、マルタ・マリア・死から生き返ったラザロもいました。先週は、食事会の最中に、マリヤが主に感謝の気持ちを伝えるために、自分が持っていた非常に高価な香油の壺を割って、その香油をイエスの足と頭にそそぎかけるという出来事について考えました。その香油は、現在の価値で換算すると300万ほどする非常に高価なものでした。しかし、主イエスに対して感謝の気持ちでいっぱいだったマリアには、香油の価格のことは頭になく、ただ、自分の感謝の気持ちを主イエスに伝えるために自分にできるだけのことをしたのでした。それを知っておられた主イエスはマリヤがしたことを非常に喜ばれて、集まっていた人たちに言われました。「彼女はわたしのために良い事をしてくれました。」しかし、そのような美しいマリヤの行為の陰で、ユダヤ教の指導者たちは、罪の上にさらに罪を重ねようとしていました。彼らは、すでに、主イエスを殺すことを決めていましたが、12章10節を見ると、彼らは主イエスが死から生き返らせたラザロをも殺そうと相談していました。彼らは、主イエスが、旧約聖書が預言していた救い主だと信じることを拒否しました。彼らは、主イエスは神でもないのに自分を神であるかのように行動しているので、神を冒涜したという罪で死刑に値すると考えていました。ある意味で、彼らがイエスを殺そうとすることには彼らなりの理由がありました。しかし、ラザロは、神を冒涜するようなことは一切していません。彼らがラザロを殺したいのは、ただ、彼が生きていると、彼を見た人がイエスの偉大な力を知り、イエスを信じる人がますます増えると考えたからでした。箴言の1章16節にはこんな言葉があります。「彼らの足は悪に走り、人の血を流すのに早いからだ。」彼らは神に仕える者でありながら、罪の泥沼に陥っていました。

 今日読んだ個所は、らい病人シモンの家で行われた食事会の翌日のことです。12節に「祭りに来ていた大勢の群衆」と書かれていますが、これは過越しの祭りのことです。過越しの祭りは、ユダヤ人の3大祭りの中でも最も重要な祭りで、盛大に行われました。当時の記録によると、祭りの間、エルサレムには海外に住むユダヤ人たちも加わり、200万人以上の人々が集まっていたそうです。ユダヤ教の指導者たちはイエスを殺すことを決めていましたが、この祭りの間は止めて、祭りが終わってから殺すことを考えていました。それは、こんなに大勢の人がエルサレムに集まると、群集心理で、何が起きるか分からない危険があったからです。しかし、いつも言っているように、主イエスは彼らの陰謀によって十字架で殺されたのではありません。私たちの罪を赦すために、罪のないイエスが私たちの身代わりとなって十字架にかかることは、神様ご自身が計画されたことだったのです。神様の計画は、ユダヤ教指導者の考えとは違って、過越しの祭りの時に御子イエスを十字架にかけることを決めておられました。今まで、主イエスは、祭りがあるたびに、必ず、普段活動していたガリラヤ地方からエルサレムに来ておられましたが、いつも、人に知られないようにそっと来ておられました。しかし、十字架にかかる時が来たので、今回は、人々を罪から救う救い主として十字架にかかるためにエルサレムに来たことを知らせるために、人々の歓迎を受けてエルサレムの町に入られました。
 主イエスがエルサレムに向かっているという噂が広まりました。すると大勢の群衆が集まって来ました。この時、二つの群衆がいました。一つは、ベタニヤでラザロが生き返る奇跡を見た人々で、ベタニヤから主イエスについて来た人たち、もう一つは、過越の祭りに参加するためにエルサレムに来ていた人々で、イエスの噂を聞いて集まって来た人たち、この2つのグループが一緒になって、主イエスをエルサレムの近くで迎えるかたちになりました。その中の大勢の人々が、手にナツメヤシの枝を持って主イエスを出迎えました。これには、意味があります。イエスの時代よりも200年近く前のイスラエルはギリシャの支配を受けていました。その時、ギリシャ王がエルサレムの神殿で、ユダヤ人を冒涜するひどいことを行ったため、激怒した祭司たちが一斉に立ち上がって戦いを起こし、神殿を奪い返して、神殿からいっさいのギリシャ神話の偶像を取り除きました。その時に、彼らは手にナツメヤシの枝をもって、神殿をきよめました。今回、群衆がイエスを迎えた時に、彼らが手にナツメヤシの枝を持っていたことは、群衆のイエスに対する期待があったからです。彼らは、主イエスに、以前、ギリシャ人たちと戦って神殿を取り戻した祭司たちのように、イエスにも、力を使ってローマ帝国から独立を勝ち取ってほしいという願いを、ナツメヤシの枝で現わしたのです。群衆は、興奮して叫びました。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」「ホサナ」とはヘブル語で「救ってください」という意味ですが、これは、詩篇の118篇25節の「ああ主よ。どうか救ってください。」という言葉から来ています。詩篇118篇はハレルの詩篇と呼ばれるもので、ユダヤ人がよく知っている詩篇です。というのは、ハレル詩篇はお祭りのたびに、毎朝、エルサレムの神殿の聖歌隊が歌っている詩篇だからです。また、群衆は「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と賛美しています。これは同じ詩篇118篇の26節の言葉です。ということは、群衆は、今、エルサレムの町に入ろうとしている主イエスが、旧約聖書が預言している「救い主メシア」だと叫んでいるのです。さらに、彼らは主イエスを「イスラエルの王」と叫んでいます。これまでは、主イエスは、大きな奇跡を行った後に、群衆がイエスを「王様になってほしい」と声を挙げてもすべて否定しておられました。主イエスは、彼らが自分に対して、ローマ帝国を武力で打ち負かすような救い主になってほしいと願っていることを知っておられたからです。でも、今回は、群衆がこのように叫んでも、それを否定することもなく、彼らを追い返すこともなく、受け入れられました。ただ、群衆が願っていることと、主イエスが考えておられることはまったく違っていました。主イエスが、この時、群衆の熱狂的な出迎えを受け入れられたのは、群衆が「ホサナ、救ってください。」と叫びましたが、主イエスは人々を罪の裁きと支配から救い出す者としてこの世に来ておられました。また、群衆は「主の御名によって来られる方に」と叫びましたが、主イエスは、ヨハネの福音書5章43節で「わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。」と言われました。主イエスは、たしかに、「主の御名によって来られた方」でした。また、群衆は、「イスラエルの王」とイエスを呼びましたが、確かに、主イエスはイスラエルの王と呼ばれる資格を持っておられる方です。主イエスが十字架に掛けられる前に、ローマ総督ピラトの裁判を受けましたが、その裁判の中で、ピラトが主イエスに「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねると、主イエスは「あなたがそう言っています。」と答えて、ピラトの言葉を否定されませんでした。主イエスは、この時、ご自分が人々の賛美を受けるべき者であることを示されました。
 しかし、これらの群衆は、自分勝手に、主イエスがローマ帝国の支配から自分たちの国を独立させてもっと自由な国を作ってくれる、そんな救い主を夢見ていました。だから、彼らは、イエスの救い主の意味が自分たちの考えとは違うことを知ると、あっさりと考えを変えて、数日後には、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ側に回ってしまうのです。主イエスは群衆の心の中をすべて見抜いておられました。群衆が主イエスを見て熱狂していたのとは対照的に、イエスの心の中は複雑でした。ルカの福音書19章41~44節を見ると、熱狂的な群衆に迎えられるなか、主イエスがエルサレムに近づき、オリーブ山からエルサレムの市街を見たときに、主イエスはエルサレムを見て泣かれたと書かれています。恐らく、この時、主イエスの頭の中でこれまでのイスラエルの民の歴史が駆け巡ったのだと思います。彼らは、神様から選ばれた民で、神の教えに従って、異邦人たちの光となって、神様の祝福を取り次ぐべきであったのに、彼らは勘違いして、自分たちは特別な民族だと勝手に思い込み、しかも、神の教えに従わないで何度も神様に逆らって来ました。そのため、神様が彼らに裁きとして困難や苦しみを与えると、彼らは悔い改めて神に立ち返りました。その時、彼らは神様から罪の赦しという恵みを受けました。しかし、またすぐに彼らは自分勝手な行動を繰り返し、神に逆らう、それが旧約聖書に記されたユダヤ人の歴史だったのです。そして、今、人々は自分を十字架につけようとしている。神様の忍耐も、彼らに対する変わらない愛も、これまで彼らに与え続けた多くの恵みも祝福も、すべてが無駄でした。今、彼らは、約束の救い主である自分を十字架に掛けようとしている、そのような彼らに主イエスは憐みを覚えられたのです。イスラエルの民、特にユダヤ教のリーダーたちは、イエスを殺したことで、自分たちの計画は成功したと思っていました。自分たちの国も宗教も守られたと思いました。しかし、主イエスがこの時、見ていたように、紀元70年にはローマの軍隊がエルサレムを包囲し、完全に破壊します。そして、彼らは1900年間自分の国を失うことになります。主イエスは、その光景を頭の中で見ていたのでしょう。主イエスはエルサレムを見て泣かれました。
 14節に「イエスはロバの子を見つけて、それに乗られた。」と書かれています。ヨハネの福音書には書かれていないのですが、他の福音書を見ると、イエスと弟子たちがエルサレムの直ぐ近くまで来た時に、ペテロとヨハネに「近くの村に行くと、つながれたロバとロバの子がいるから、それをほどいて私のところに連れて来なさい。何か言われたら『主がお入り用なのです』と言いなさい。」と言われました。そして、二人が行って、主イエスに言われたようにしてロバと子ロバを連れて来ました。このことから分かるのは、主イエスが弟子たちの知らない間に、すべての準備をしてロバに乗られたということです。主イエスがロバに乗ってエルサレムに入られたのには目的がありました。それは旧約聖書にこのことについての預言があったからです。ゼカリヤ書9章9節に記された預言です。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ。王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ロバに乗って。雌ロバの子である、ロバに乗って。」このゼカリヤの預言も変わった預言だと言えます。「王があなたの所に来る。」と言われていますが、ロバの子に乗るというのが王様のイメージに合いません。力強い王様であるなら、馬に乗るのが普通です。この預言からも分かるように、神様が私たちのために遣わされたのは、武力で外国を支配する普通の王ではなく、人の罪を背負って身代わりの死を遂げるために来る救い主だったのです。主イエスは、群衆に、自分がローマ帝国を滅ぼす王ではなく、自分を犠牲にして人々を救う、救い主であり、平和の君であることを示すために子ロバに乗ってエルサレムに入られました。しかし、主イエスの思いは熱狂的な群衆には届きませんでした。
 主イエスの思いを理解していなかったのは、群衆だけではありません。主イエスの弟子たちも、この時主イエスがロバに乗ってエルサレムの街中に入って行った意味を理解していませんでした。彼らは、主イエスが復活した後でさえ、主に向かって「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのはこの時なのですか。」と尋ねています。彼らは、主イエスを信じる者たちに最初に聖霊が下ったペンテコステの経験を経て、ようやく主イエスの十字架と復活の本当の意味を初めて理解したのです。16節の後半に「しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。」と書かれている通りです。イエスは、王としてこの世に来られました。しかし、地上の王のように権力と財力を誇りとするような王ではなく、自分をもっとも低くしてこの世に来られ、しかも、十字架で死ぬことを通して、私たちにとって最大の敵である罪と死を滅ぼしてくださった王の王なのです。
ローマ帝国の皇帝が勝利の凱旋を行う時は、戦いで獲得した戦利品や捕虜たちをパレードで見世物にし、皇帝は金の戦車に乗って凱旋し、群衆は王様の名前を叫び続けました。それと比べると、イエスのエルサレム入場は、本当に地味なものでしたし、戦利品もなく、捕らえた捕虜たちもいませんでした。しかし、それから数週間後、ペンテコステの時に、主イエスが約束しておられた聖霊が天から下り、イエスの弟子たちは聖霊に満たされて新しい力を得ました。ペンテコステの日、わずか一日だけで、ペテロの説教を通して3千人の魂が神様によって勝ち取られました。主イエスは、確かに勝利者なのです。イエスのいのちは死を滅ぼしました。イエスの愛が憎しみを滅ぼしました。主イエスこそ、ご自分の死によって、罪を滅ぼした魂の勝利者です。

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