2021年5月30日 『一粒の麦として生きる』(ヨハネ12章12-19節) | 説教      

2021年5月30日 『一粒の麦として生きる』(ヨハネ12章12-19節)

(1)イエスに会いたいと願ったギリシャ人
先週は、主イエス・キリストが十字架にかかるために、エルサレムに入られた出来事を読みました。いよいよ、主イエスが十字架に掛けられる時が近づいていました。主イエスが十字架にはりつけにされたのはユダヤ教の最も大切な祭りである「過越の祭り」の時でした。エルサレムの神殿で行われる過越しの祭りには、イスラエル国内だけでなく、ローマ帝国のいろいろな地方からも集まってきました。彼らの多くは、海外に移住していたユダヤ人たちなのですが、中には、ユダヤ人ではない外国の人たちもいました。この人たちの多くは、ユダヤ人が信じている神様こそが真実の神であることを信じていたユダヤ教に改宗した人々だと思われます。彼らは過越しの祭りに参加するために、エルサレムに来ていたのですが、エルサレムに着いて見たら、多くの人がイエスについて語っているので、それを聞いた彼らはイエスに直接会って、教えを聞いてみたいと思いました。ただ、エルサレムの神殿はいくつかの区域に分けられていて、神殿の一番外側に、異邦人、すなわちユダヤ人ではない外国人たちのための広場がありました。その奥に、ユダヤ人の女性が入ることのできる「婦人の庭」と呼ばれる場所がありました。そして、さらに奥にユダヤ人の男性だけが入れる場所がありました。祭りの礼拝に参加するために来ていたギリシャ人たち、彼らは異邦人ですから、異邦人の庭よりも中には入ることができませんでした。21節には、こう書かれています。「この人たちはガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです。」と頼みました。彼らの言葉の中に、彼らが真剣に主イエスに会うことを願っていて、ただイエスの奇跡が見たいとかではなく、イエスから教えを聞きたいと言う願いを持っていることが、彼らが言った「イエスにお目にかかりたい」という言葉から分かります。ただイエスがどんな奇跡ができるのか見てみたいという単なるイエスへの好奇心しか持っていない人は、「お目にかかる」ことを求めはしなかったと思います。単なる好奇心と、イエスから自分が生きるべき道を見つけようとする求道心は全然違います。彼らがなぜ、弟子の中でもピリポに頼んだのか、その理由は書かれていないので、正確なところは分かりませんが、彼の名前ピリポはギリシャ語の名前であることが関係しているかも知れません。また、21節にわざわざピリポがベツサイダという町の出身であると書かれていますが、ベツサイダは、ガリラヤ湖の北にあった町で、国境の町でもありました。おそらく、ピリポはギリシャ語を話すことができたと思います。そんなこともあって、彼らはピリポにイエスとの面会を求めたのかもしれません。ピリポは、ギリシャ人たちからイエスに会いたいと言われて、正直、困ったと思います。十字架を控える主イエスには、いつもと違う緊張感が漂っていたでしょうし、ピリポはエルサレムにはイエスを憎む人々が大勢いることが分かっていました。そんな時に、イエスが神殿で異邦人たちと一緒にいる所を誰かが見ると、イエスが聖なる神殿に異邦人を連れて来たと勘違いする人がいるかも知れないので、とにかく、イエスにとっては危険なことと思われました。そこで、彼は仲間の弟子アンデレに相談しました。実はアンデレもベツサイダの出身だったので、二人は親しかったのでしょう。また、アンデレは兄弟のペテロと同じように、積極的な性格で、勇気を持って行動するタイプの人間だったと思います。ペテロをイエスのところに連れて来たのもアンデレですし、大人の男性だけで5000人が集まった時に、主イエスが弟子たちの信仰を試すために、この人たちのために、食事になるものを捜しなさいと彼らに命じたときも、アンデレが捜して、一人の男の子が5つのパンと2匹の魚の弁当を持っているのを見つけ出し、その少年をイエスのところに連れて来ました。彼には人々をイエスの所に連れて来る不思議な賜物があったようです。アンデレは、悩んだ様子もなく、ピリポと一緒にイエスのところに行って、ギリシャ人がイエスに会いたいと言っていることを伝えました。  

(2)イエスの答え
 23節に、「すると、イエスは彼らに答えられた。『人の子が栄光を受ける時が来ました。』」と書かれています。イエスの言葉は、アンデレとピリポには良く理解できない言葉でした。二人が主イエスに尋ねたのは、「何人かのギリシャ人がイエスに会いたいと言っていますが、どうしましょうか。」ということだったので、イエスの言葉は二人の質問の答えになっていないからです。不思議なことに、この福音書を書いたヨハネも、この後、ギリシャ人のことについては何も書いていません。私たちは、イエスがこの人たちに直接会って話したのかどうかも分かりません。23節から26節で、主イエスが語られた言葉は、ユダヤ人に対して語られた言葉でもなく、ユダヤ人以外の異邦人に対して語られた言葉でもありません。自分について来ようとしているすべての人に向けて語られた言葉です。恐らく、主イエスは、ピリポとアンデレと一緒に、多くの人が集まっている異邦人の庭に出てきて、そこに集まっていた群衆に向けて語られたのだと思います。あのギリシャ人たちは、きっと、その群衆の中にいて、そこでイエスの言葉を聞いたのでしょう。
 23節で、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と言われました。ここで、イエスは「時が来ました」と言っておられます。ヨハネの福音書の中で初めて、主は「私の時が来ました」と言われました。これまでは主イエスはいつも「私の時はまだ来ていない」と言っておられました。しかしこの時から、主イエスは、自分が栄光を受ける時がいよいよ近づいてきたことをはっきりと言われるようになりました。例えば、12章27節では、主はこう言われました。「今、わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。父よ、この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」また、13章の1節にも、「イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。」と書かれています。主は、「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と言われました。主イエスが群衆に熱狂的に迎えられてエルサレムに入った翌日のことですから、この言葉を聞いた群衆の大部分の人は、きっと、イエスがローマ帝国を倒して自分の王国を建て上げると思ったことでしょう。彼らの主イエスに対する期待はなお一層強くなりました。ところが、その次の言葉が、彼らの勝手な期待を完全に打ち壊しました。
 24節で、主はこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら豊かな実を結びます。」主イエスは、自分が栄光を受ける時が来たと言われましたが、その栄光は、神殿に集まっていたユダヤ人たちが期待したような、ローマ帝国を倒して自分たちの国を独立させることによって実現するのではなく、自分が死ぬことによって栄光を受けるのだと言われたのです。ただ、その意味は、聞いている人々にとって理解するのが難しいことだったので、主は、人々がよく理解できるように、種を例えに用いて語られました。種がたくさんの実を結ぶためには、種は土の中に埋められて、一度死ななければなりません。土の中に埋められた種は、外側の皮が破れて、一度死にます。しかし、不思議なことに外側の皮が破れると、中にある栄養に満ちた部分から根が伸びて芽が出てきて、植物として成長します。そして、花を咲かせてたくさんの実ができます。もし一粒の麦の種が土の中に埋められずに、誰かの手の中にあったとしても、その一粒の種ができることはほとんどありません。小さな鳥が食べて少しお腹を満たすことができるくらいです。私たちには何の意味もありません。麦を一粒食べただけでは食べたことも分からないほど小さいものだからです。種は、もともと土の中に埋められるべきものとして造られたのです。土の中に埋められない種はほとんど価値がありません。ところが、そんな弱く小さな一粒の種であっても、もし、土の中に埋められて一度死ぬならば、そこから新しい麦が生まれて、成長し、収穫するときには、麦の穂の中にたくさんの麦の実が実ります。
 主イエスが、神の御子としての本当の働きを行って栄光を受け取るのは、自分が人々の罪を背負って死ぬことによるのであると語っておられます。もし、主イエスが十字架で死なないで、当時のユダヤ人たちが期待していたようにローマ帝国を倒してイスラエルの独立を回復したとすれば、そこにいる限られた数のユダヤ人が少しの間、地上で良い生活をするだけのことです。しかし、罪のない主イエスが、すべての人間のすべての罪を背負って、その刑罰として十字架で死んでくださったならば、その当時の人々だけでなく、それ以前に生きたすべての人々も、それ以後に生まれて来るすべての人々も、救いを受けることができるのです。主イエスを信じるすべての人は、地上で希望に満ちた人生を過ごすだけでなく、天国において主イエスと一緒に祝福に満ちあふれた、死も病気も苦しみもない、本当の平安に満ちあふれた生活を永遠に生きることができるようになるのです。主イエスは自分から十字架で死ぬことによって、目の前のユダヤ人だけでなく、すべての時代の、すべての人々が罪からの救いと永遠のいのちという素晴らしいものを持つことができるようになるのです。それは、言い換えると、一粒の麦からたくさんの同じ麦の粒が生まれるように、主イエスが十字架で死ぬことによって、主イエスの十字架を信じるすべての人の中に、主イエスが持っているのと同じ永遠のいのちが与えられることを意味します。そこには、もはやユダヤ人と外国人の区別なく、イエスに会いたいと願っていたギリシャ人たちをも含めてすべての人が、この祝福を受けることができるようになります。このような状況が実現するとき、主イエスは栄光を受けることになるのです。

(3)主を信じる者に必要なもの
続いて、主イエスは、ご自分に従ってくる人々にも、主イエスが持っておられたのと同じ覚悟を持つことが必要であると、今度はたとえを用いないで、はっきりと教えられました。「自分のいのちを愛する者は、それを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」ここでは2つの全く正反対の生き方が述べられています。「自分のいのちを愛する者は」とありますが、後で、「この世で自分のいのちを憎む者は」と言われているので、ここも、「この世で自分のいのちを愛する者は」という意味で理解するのが良いと思います。新約聖書には同じヨハネが書いた手紙も3つ含まれていますが、その手紙には、「この世を愛することについて記されています。ヨハネは、この世を愛するとは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢であると言いました。自分のいのちを愛するとは、この世での生活を一番大切なこととして生きることを意味します。この世での自分の生活がすべてだと考えている人は、永遠のいのちを持つことができません。一方、「この世で自分のいのちを憎む者は」と主は言われましたが、これはどういう意味でしょうか。これはユダヤ人のヘブル語的表現方法なのですが、ヘブル語では、何かと何かを比べて、どちらか一方をもう一方よりも大切だと考えるという時に使われる表現です。ですから、ここでは、この世での生活よりも、主イエスの教えにしたがって、主のために生きようとする心を意味します。私たちがこの世の生活に執着して、それだけのために生きれば、地上での生活はそれなりに良い生活ができるでしょう。しかし、永遠のいのちを失ってしまいます。聖書は、死んだ後にも続く永遠のいのちを持つ人の人生が本当の人生だと教えています。もちろん、一粒の麦のように生きることには犠牲が伴う部分があります。この世で大切にしているものを手放さなければならないことがあります。しかし、永遠のいのちを持って生きる時には、手放したものよりもはるかに素晴らしいものを得ることができるのです。
 主イエスは、ここで2つの素晴らしい約束を与えておられます。一つは、「わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります」という約束です。それは、私たちがこの世を去った後、天国で主イエスとともに永遠の祝福された人生を過ごすという約束です。主イエスは、それを可能にするために、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださいました。もう一つの約束は、「わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」という約束です。この世で、たくさんの表彰状をもらうことも価値のあることですが、父なる神様から与えられる表彰状とは比べ物にならないと思います。主のために生きた人は、この世での評価がどうであれ、天と地を造られた創造主なる神様は、主イエスを信じて生きた者たちに対して、「よくやった。私の忠実なしもべよ。」と大きな評価を与えてくださるのです。あなたの人生は、この世だけで終わってしまう、この世だけの評価で終わる人生でしょうか。それとも、永遠の祝福に入って行く人生、永遠に神様から大きな評価をされる人生なのでしょうか。                

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