2021年6月20日 『弟子の足を洗う主イエス』(ヨハネの福音書13章1-11節) | 説教      

2021年6月20日 『弟子の足を洗う主イエス』(ヨハネの福音書13章1-11節)

 先週の礼拝で、私たちはヨハネの福音書の12章を読み終わりました。12章の36節の後半に「イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。」と書かれているように、この時点で、主イエスが神の子として続けてこられた人々への働きが終わりました。この後、もはや主イエスが群衆に向かって説教することはありません。ヨハネの福音書で13章から17章までに記されているのは、英語では「Upper Room Discourse」と言うのですが、2階の部屋での説教という意味です。主イエスと弟子たちが、最後の食事を取ったのは、主イエスご自身が前もって借りていた2階にある大きな部屋でした。私たちは「最後の晩餐」と聞くと、主イエスと弟子たちが地上で最後の食事をしたことと思いますが、食事よりももっと大切なことは、この時間に、主は弟子たちにたくさんのことを教えられたということです。ヨハネの福音書で5章にもわたる程、主は弟子たちに長い時間を使っておしえられました。十字架の直前の教えですから、それがどれだけ重要な教えであったのか明らかです。従って、私たちも、とくに注意を払って主イエスの言葉を聞き、主イエスが行われたことを見なければなりません。

(1)主イエスが示された愛
 13章1節は「さて、過越の祭りの前のこと」という言葉で始まっています。これはイエスよりも1500年前、エジプトに滞在していたイスラエルの民がモーセの指導の下エジプトを脱出した時の出来事を記念する祭りで、ユダヤ人にとっては最も大切な祭りでした。エジプト脱出をさせないエジプト王パロの心を変えさせるために、神様が最後の切り札として行われたエジプト人への災いでした。エジプトの家庭で生まれた最初の子どもも最初の家畜もすべて殺されるという災いです。しかし、同じエジプトに済むイスラエルの民の家庭は子どもも家畜もみな命が守られました。それが過越しという出来事です。エジプトの子どもや家畜は神から遣わされたみ使いによって殺されました。ただ、エジプト人とイスラエル人は、同じ国に住んでいるのにどうやってみ使いは見分けたかと言うと、イスラエル人の家の戸口には羊の赤い血が塗られていたのです。イスラエルの民の子どもと家畜のいのちを守ったのは羊の血でした。これは、罪人を滅びから守るのが主イエスが十字架で流された血潮であることのひな型なのです。主イエスが、この過越しの時に十字架にかけられた、このタイミングにも意味がありました。
 「主イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた」と書かれています。ご自分の時とは、十字架にかかる時です。この時がすでに来たことを主は知っておられたのです。もう、十字架は未来の出来事ではありません。もうすでに来ていたのです。イスカリオテのユダがは、まだ裏切る前なので主イエスと一緒にいました。彼は、この最後の食事の最中に、部屋から出て行き、イエスを裏切るのですが、その前に、イエスは自分が十字架にかかることを知っておられたというのは、これから起きる出来事はすべて主イエスがコントロールしておられたことを示しています。いつも言っていますが、主イエスはユダの裏切りで陰謀に巻き込まれて死んだのではありません。自分が決められたタイミングで、自分から進んで十字架にかかられたのです。主イエスは、この時、弟子たちが何を考えているのか、ユダが何を密かに計画しているか、全部ご存知でした。一方、イエスの弟子たちは、イエスの十字架のことよりも、自分たちの間でライバル争いをして、彼らの中で誰が一番偉いのかと言い争いをしていました。また、ユダは密かにイエスを裏切って金をもらうことを考えていました。そのような弟子たちを、イエスは、「彼らを最後まで愛された」と書かれています。「最後まで」とは「完全に」とか「何一つ足りないことのない状態」を意味する言葉です。主イエスが3年間みっちり訓練してきたにも関わらず、未だに自分のことしか考えていないような弟子たちにでしたが、主イエスは彼らに対して、最後の最後まで、余すところなく愛を示されました。主イエスの愛は、人間の愛とはまったく次元が違います。パウロはエペソ人への手紙の中で、主イエスの愛は人間の知恵や知識をはるかに超えた愛だと言っています。 一方、そのような主イエスの心とは裏腹に、ヨハネは闇のようなユダの心について書いています。2節に「悪魔はすでにシモンの子、イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」と書かれています。イエスの愛が光のように輝いている一方で、ユダの心は真っ暗闇でした。ユダの心が闇であればあるほど、イエスの愛が光り輝いて見えます。この後、主イエスはユダの足をも洗われます。彼が自分を裏切ることを知っておられましたが、主は他の弟子と同じようにユダの足をも洗われました。しかし、ユダの心には主イエスの愛は届きませんでした。

(2)主イエスが弟子の足を洗う
 主イエスと弟子たちは、エルサレムの町を歩いて、そして、主イエスがあらかじめ用意していた2階の大きな部屋に入って、最後の食事の時を持っていました。当時、人々はサンダルをはいていたので、部屋に入る時、彼らの足は埃だらけになっていました。普通は、部屋に入る時には、その家の召使いがいて、召使いが家に入る家族や客の足を洗うのですが、ここは急に借りた部屋だったので、足を洗う水は置いてあったのですが、足を洗う召使いがいませんでした。主イエスと弟子たちが部屋に入った時、彼らは、そこに足を洗う召使いがいないことに気づいていたはずです。ところが、弟子たちのうち誰一人として「わたしが皆さんの足を洗いましょう」と申し出る者がいませんでした。弟子たちは十字架の時が来た時にいたっても、「自分たちの中で一番偉いのは誰か」そんなことを考えていたので、誰も他の人のために仕える者になろうとしませんでした。その結果、彼らは、何となく、さっぱりしない気分で食事をしていました。主イエスは、これまでにも、弟子たちに繰り返して教えておられました。例えば、マタイの福音書23章11節で、主は弟子たちに「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕えるものになりなさい。」と教えておられます。しかし、弟子たちにはこの教えは届いていませんでした。
 そんな状況の中で、4節に記されているように、突然、主イエスが立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いを取って腰にまとい、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始めました。当時の食事の時の姿勢は、低いテーブルを囲んで、肩肘をついて足は外に伸ばして、寝そべった姿勢で食べていました。イエスは、弟子たちが伸ばした足に近づくとしゃがんで、水で濡らしたタオルで、土埃で汚れた弟子たちの足を丁寧に洗い始めたのです。弟子たちは心を騒がせていました。何も言葉が出ず、ただ主イエスがなされることを呆然と見ていました。そして、主イエスがペテロの足もとでしゃがんだ時に、ペテロは主イエスに向かって言いました。「主よ。あなたが私の足を洗って下さるのですか。」ユダヤ人の考えでもローマ人の考えでも、目上の者が目下の者の足を洗うということはありえないことだったのです。主はペテロに言いました。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」主は、弟子たちが主イエスの十字架と復活を体験し、主が天に帰られる時になって、はじめて、主イエスが弟子たちの足を洗われたことの意味を理解するようになったのです。しかし、この時は、ペテロは何も分かっていませんから、人間的な思いで、主イエスに「決して私の足を洗わないでください。」と言いました。すると主はペテロに答えて言われました。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたとわたしは関係ないことになります。」このイエスの言葉には2つの意味がありました。一つは、ペテロをはじめ12人の弟子たちのイエスに対する間違った考えを訂正することでした。彼らは、主イエスと3年余りを過ごしていましたが、未だに、主イエスが自分たちの国をローマ帝国の支配から解放してくれる救い主であってほしいという強い期待を持っていました。そのため、彼らは、神である主イエスが十字架にかかることによって私たちを罪の裁きから救う、そのような救い主であることを理解できませんでした。主イエスは、彼らが自分のことを正しく理解するように、召使いがする働きである足を洗うという働きを弟子たちのために行われました。もう一つの意味は、主によって洗ってもらった者だけがキリストと関係を持つことができることを意味しています。水で洗うということは、聖書では、人の心が清くされることの例えとしてよく用いられます。ここでイエスが言おうとしていることは、自分の罪を認めて主イエスを救い主と信じる信仰を持つ者が主イエスによって清くされるのであり、その者だけがキリストと結ばれて永遠のいのちを持つようになるということでした。
 主イエスの言葉を聞いて、ペテロはいつものように主イエスの言葉の意味を十分に理解せずに、主は体をきよめることを言ったのだと思って、こう言いました。「主よ。足だけでなく、手も頭も洗ってください。」主イエスはペテロに言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」体の洗いについて言うならば、一度水浴した人、一度お風呂に入った人は、足が汚れたからと言ってまた水浴したりお風呂に入ることはしません。体はきれいになっているので足だけを洗えば良いのです。このことを霊的な意味で言えば、主イエスを救い主として信じる者は、主イエスの十字架によってすでにきよい者にしていただきました。主イエスを信じる信仰によって罪が赦されるということは2度と繰り返す必要はありません。神様がイエスが十字架で私たちの代りに罪の罰を受けてくださったことによって、私たちのこれまでのすべての罪を処罰してくださったので、私たちは、神の目には清い者となっているのです。ただ、私たちは日々の生活の中で、この世と接しているので、足は汚れることがあります。私たちが言葉や行いで罪を犯して自分を汚してしまうからです。その時は、私たちは、自分が犯した罪をその都度悔い改めることによって、神様は私たちの罪をゆるし清くしてくださるのです。足を洗うというのは、私たちが生活の中で犯す罪を、その都度悔い改めて神様からの赦しをいただくことを意味します。ここで、主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたはきよいのです。」弟子たちは、自分の罪を悔い改めて主イエスを信じるという決断を一度しているから弟子たちはすでに清い者にされていました。主イエスが「皆がきよいわけではありません。」という言葉は、もちろん、主イエスを裏切ろうとしているイスカリオテのユダのことを指しています。ただ、これは、ユダを責めているのではなく、ユダが自分がしようとしていることを悔い改めて大きな罪を犯さないことを願って言われたことがです。主のユダに対する愛のアッピールなのです。キリストの十字架の死は、ユダが裏切ったから実現したのではありません。神様ご自身が決めた計画に従って実現したことです。従って、ユダがイエスを裏切らなくても、主は自分から十字架にかかる道を造られたはずです。主イエスは、最後まで、ユダに考えを変えるようにと迫られましたが、主イエスの愛と訴えを、ユダは受け取ることを拒みました。彼は自ら悪に陥る道を選んだのです。しかし、そのユダの足をも、主イエスはユダへの愛を現わしながら洗われたのです。主は、どんなに主イエスを批判する人も、攻撃する人も、主を軽蔑している人も、どんな人の足も喜んで洗う方です。主はあなたの足をも洗おうとしてあなたの足もとにひざまずいておられます。あなたは、この主イエスの愛の招きを受け取りませんか。

19世紀の終わりにイギリスでウィリアム・ブースという人が軍隊式のキリスト教団体「救世軍」を創設しました。主イエスの兵士となって神様のために働きたいと言う人が救世軍に集まって来ました。そんな中、アメリカで牧師として大きな働きをしていたサムエルブレングルが救世軍に加わるためにイギリスに来ました。ウィリアム・ブースは彼が加わることをしぶりました。彼がアメリカでリーダーとして長く働いていた人物だったからです。ブースはブレングルに謙遜を身に着けさせようと、彼に他の訓練生のブーツを磨くという仕事を与えました。ブレングルにはショックな任務でした。「自分は主の兵士として最前線で働く夢を求めてイギリスまで来たのに、他人のブーツを磨くのが自分の任務とは。」彼は心に大きな葛藤を監事ていました。しかし、彼はある夜、夢を見ました。それは、主イエスが弟子たち足を洗っている夢でした。主が弟子たちの足もとにかがんで、弟子たちのごつごつした足を洗っている姿が見えました。彼は夢の中でつぶやきました。「主よ。あなたは弟子たちの足を洗われたのですね。私も、彼らのブーツを磨きます。」彼は、この経験をとおして謙遜を身に着けました。彼は、後に、救世軍の一員として大きな働きをする人物になりました。それは、彼がこの経験を通して主イエスのように謙遜に人に仕える道を選んだからです。主は、私たちが、互いに仕え合うことを願っておられます。クリスチャンである私たちに神様が求めておられることは、互いに謙遜になって仕え合うことです。

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