2021年6月27日 『仕える者になりなさい』(ヨハネの福音書13章12-20節) | 説教      

2021年6月27日 『仕える者になりなさい』(ヨハネの福音書13章12-20節)

 先週は、主イエスが、弟子たちと最後の食事をされた時に、突然、立ち上がって、弟子たちの足を洗われたという出来事について語りました。家に入る家族や客の足を洗うのは、召使いの仕事であり、しかももっとも身分の低い召使いがする仕事でしたので、イエスの弟子たちは、突然主イエスが足を洗い始めたことにびっくりして、何も言えずに主イエスを見つめていました。主イエスがペテロの足を洗おうとされた時に、ペテロは「私の足を洗わないでください。」と主イエスに言いました。そのペテロの言葉に対する主イエスの言葉が非常に大切な意味を持っています。主イエスはペテロに言われました。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」旧約聖書の時代、体を洗うことは宗教的にきよくなることを表していました。したがって、主イエスが「わたしがあなたを洗わなければ」と言われたのは、主イエスが十字架で私たちの身代わりとなって死ぬことがなかったら、私たちは、神様と何の関係も持つことができないことを意味しています。主イエスの十字架によって罪からきよめられることがなければ私たちは神との関係を持つことはできないのです。実は、このことが、今日の個所を理解するうえで非常に大切なことなのです。すなわち、主イエスを私たちを罪から救う救い主としてキリストを受け入れなければならないということです。主イエスは素晴らしい教えをする偉大な教師でもあります。愛の大切さを教えた偉大な伝道者とも言われます。主イエスは多くの人にとって非常に魅力的な方です。しかし、罪からの救い主ということから外れると、聖書の教えからは外れてしまいます。そこをきちんと理解した上で今日の個所を読みたいと思います。

 12節から14節を読みましょう。「イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。『わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』と呼んでいます。そういうのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに、足を洗い合わなければなりません』」主イエスは、弟子たちの足を洗うことで、ご自分が罪から私たちを救う救い主であることを示し、そのために、ご自分を低くして私たちのために犠牲を払って十字架にかかることを教えられました。ただ、それに加えて、主イエスを救い主と信じて主に従っている弟子たちにどうしても伝えたいことがありました。それが、この12節から14節で言われていることです。自分を低くして、謙遜になって、愛の心でお互いに仕え合いなさいという教えです。主イエスは、本当は、栄光に満ちておられる偉大なる神です。しかし、私たちの罪が赦されるために、神という立場を一度捨てて、私たちのような小さな一人の人間となって十字架で死んでくださいました。そして、今は、一番身分の低い召使いがする仕事であった、人の足を洗うこともしてくださいました。主はここで言われました。「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合いなさい。」栄光に満ちておられる主が、もっとも身分の低いしもべになって弟子の足を洗ったのだとすれば、そのイエスを主と仰いで、主の弟子になっていた彼らは、主イエスと同じ心を持って、同じようなことをしなければならないのは、弟子として当然のことです。ところが、先週もお話ししたように、弟子たちの間では、常に、ライバル意識が働いていて、ルカの福音書よれば、彼らは、最後の晩餐の途中でも、自分たちの中で誰が一番偉いのかと言い争いをしていました。主イエスは、以前、弟子たちに次のような言葉を言われたことがありました。「なぜ、あなたがたはわたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」この言葉は、主イエスの弟子として生きるためには、ただイエスのことばを聞くだけ、また、ただイエスに向かって「主よ」「主よ」と呼び掛けるだけでは不十分であることを教えられた時の言葉です。

 15節で主イエスはこう言われました。「わたしがあなたがたにしたように、あなたがたもするように、あなたがたに模範を示したのです。」教会の歴史の中で、例えば、ローマカトリック教会では、このイエスの言葉を、文字通り互いに足を洗うことだと解釈して、足を洗う儀式を制定しています。しかし、主は弟子たちに「わたしがしたことをあなたがたがするように」とは言わずに、「わたしがしたように、あなたがたもするように」と言われました。主イエスは、自分が行ったのと同じことをするようにと言われたのではなく、自分がやったように、同じ気持ちで行うことを命じておられるのです。主イエスは15節で、「弟子たちに模範を示した」と言われましたが、主イエスが「模範」と言われたのはどのようなことでしょうか。その答えは16節にあります。主は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」先生であり主であるイエスがしもべである弟子たちの足を洗われました。ここで、「遣わされた者」と訳されている言葉は、他の個所では「使徒」と訳されています。ここで、主イエスに足を洗ってもらったのは、主イエスによってこの地上で働くために遣わされた者、使徒たちです。彼らが彼らを遣わされた主イエスにまさるはずがありません。先ほども言いましたように、この足を洗うという働きはもっとも卑しい仕事と見なされていたものですが、その仕事を主であるイエスが行われたのです。主が弟子たちを愛して彼らのために愛の働きを行われたのと同じように、自分が謙遜になって他の人のために仕えること、それが主イエスが言われた模範なのです。
 少し飛びますが20節の言葉を読みましょう。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者はわたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」主イエスの12人の弟子たちだけでなく、私たち主イエスを信じるクリスチャン一人一人は、主によってこの世に遣わされた者です。教会に集まる私たちは、全員、キリストに遣わされた者です。主は、弟子たちの足を洗うことを通して、主のように自分を低くして互いに仕え合うことを教えておられますが、ここで、主イエスは「わたしの遣わす者を受け入れる者はわたしを受け入れるのです。」と言われました。従って、もし私たちが、「あの人は嫌いだ」とか「あの人とは性が合わない」と言って、その人を受け入れないなら、主イエスご自身を受け入れない者となり、その姿勢は、根本的にはイエスを裏切ったイスカリオテのユダと同じことになります。あなたが嫌いだと思っている人のためにも、キリストはご自分の命を捨てるほどの愛を示されたのです。誰かを嫌うのは、その相手に問題があるのではなく自分に問題があるのです。主イエスを拒むことのないように、私たちは悔い改めなければなりません。そして、17節で主イエスは次のように言われました。「あなたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」主の教えを実践することは、決して簡単なことではありません。神様に祈って、聖霊の助けを受けなければできないことが多いです。しかし、それを実践するときに、神様は大いに祝福すると約束されました。神様の祝福は人間から受ける幸いとは比べ物になりません。主イエスのように自分を低くして互いに仕え合いましょう。その時に、私たち一人ひとりだけでなく、教会全体が神様によって大いに祝福されます。

 18節、19節で、主イエスは、12弟子の一人、イスカリオテのユダが自分を裏切ると預言の言葉を話しておられます。ユダがイエスを裏切ることは、この時点では、主イエスとユダ本人しか知りませんが、やがてそれが明らかになる時が来ます。主イエスは、その時に他の11人の弟子たちが動揺することがないように、弟子たちに向かって18節と19節の言葉を語られました。18節で、主は「しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。」と言われました。この『』の中の言葉は旧約聖書の言葉の引用ですが、これを書いたのはダビデというイスラエルの王です。主イエスより1000年前の時代、イスラエルは、ダビデによって小さな帝国を築いていました。「わたしのパンを食べている者」とは、ダビデの側近を表します。中東では、パンを共に食べることは友情や、忠誠を誓った関係を表していました。実際に、ダビデ王には、軍隊の相談役としてアフィトフェルという人物がいたのですが、ダビデの息子のアブシャロムがダビデに反旗を翻して、王座を自分のものにしようとしたときに、彼はダビデを裏切ってアブシャロム側についたのです。それは、ダビデにとって非常に悲しいことであり、また恐ろしいことでした。というのはアフィトフェルは軍の指揮者として非常に優秀で、ダビデは彼のアドバイスによってこれまで多くの戦いに勝利してきたからです。最後の晩餐でも、イスカリオテのユダはイエスの隣にいて共にパンを食べる者でした。主イエスは、3年間の地上での働きの間、ずっと一緒に生活をしてきた弟子の一人が自分を裏切ると預言しておられます。ここで、弟子たちにこの預言をされたのは、ユダの裏切りは突然起こった出来事ではなく、主イエスは、すべてのことを知っておられたことを他の11人が知るためです。ユダの裏切りを知った時、弟子たちは「イエスは知らなかったんだろうか」「なぜユダみたいな人間を弟子にしたのか」と主イエスに対する信仰が揺らぐ危険がありました。19節で、主イエスは言われました。「そのことが起こったときに、わたしが『わたしはある』であることをあなたがた信じるためです。」ここで「わたしはある」とは、救い主という意味です。イエスが本当に神であることを弟子たちが疑う子の内容に、主イエスはこの言葉を語られました。つまり、すべてのことを主イエスは知っておられること、すべてのことを主イエスはコントロールしていることを弟子たちが信じるためでした。福音書に描かれている主イエスは私たちに似た姿をしておられますが、その本質は、天地万物を造られた創造主なる神であり、全能の主です。したがって、私たちは主イエスの本当の姿を知るためには、神様の姿を描いた聖書の言葉を読み返すことが必要です。私は、イザヤ書40章を読むのが良いと思います。例えば、イザヤ書40章の28-31節には、私たちにとって励みになる言葉が記されています。私たちが信じている主イエスは私たちと同じような方ではありません。2000年前に私たちのために十字架にかかって死ぬために、わざわざ私たちのような小さな人間になってこの世に来られましたが、本来は全知全能の神、天地創造の神です。だから、その主イエスを信頼して待ち望む者には新しい力が与えられるのです。
 また、主イエスがイスカリオテのユダの裏切りを預言した時に、旧約聖書の言葉を引用されましたが、それは、弟子たちが聖書の言葉が真実であること、聖書の預言は必ず実現することを信じるためでした。主イエスも聖書のことばについて次のように言われました「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることはありません。」私たちは、この世の中で学ぶこと教えられることが多くあります。それらは大切なものですが、時が経つにつれて、教えられていたことが変わることがあります。日本では、戦争に負けた後、学校の教科書が真っ黒に墨で塗りつぶされました。戦争前に教えられていたことが間違っていたからです。これは極端な例かもしれませんが、この世の言葉、この世の教えはいつ変わるか分かりませんし、いつまでもあるものではありません。しかし、聖書の言葉は永遠に変わることなく、その言葉が真実であることも永遠に変わりません。この世の中に大切なものがいろいろありますが、財産も、名誉も、地位も、すべては自分が死ぬときに自分の手から離れていきます。しかし、神の言葉はいつまでも残ります。親にとってこどもに残すべき一番大切なものは聖書の言葉、聖書の真理です。神の言葉だけが永遠に残り、永遠に変わらないからです。
 「アメージンググレース」という有名な讃美歌の作詞者はジョン・ニュートンという人です。彼はクリスチャンホームで育ち、特に母親から聖書の言葉を教えられていました。ところが彼は6歳で両親を失い、主イエスを信じない親戚の家に預けられ、そこでひどい扱いを受けるようになりました。彼は、親戚の家を出て船乗りになり、やがては当時行われていた奴隷売買に関わるようになりました。彼の生活は罪深いものになっていました。ある日彼がアフリカからイギリスに戻る船に乗っていた時のことです。船が嵐にあい、沈没しそうになりました。彼は必死になって水を書き出していましたが、何の効果もありませんでした。彼は、昔幼い頃に母親から教えられた神のことを思い出しました。彼は水を書き出しながら神様に助けを求めて叫ぶように祈りました。すると、子どもの時に母親から教えられた聖書の言葉が頭に蘇ってきました。そして、聖霊が働いて、その言葉の意味が分かりました。彼はその時、嵐の中で揺れ動く船の中で主イエスを信じました。彼の船は嵐を乗り越えて、沈没しなかったので、彼は無事、イギリスに戻ることができました。彼は、奴隷売買の仕事を止めて、牧師になる道を選び、人々に神の言葉を教える人になりました。そんな彼が書いた讃美歌の一つが有名なアメージンググレースです。日本語の讃美歌の1番の歌詞は「おどろくばかりの恵みなりき、この身の汚れを知れる我に」ですが、これは英語の歌詞の前半だけを訳しています。後半の歌詞は、「以前は私は失われた人間だった。しかし、今、キリストに見つけ出してもらった。私は、昔は、ものごとが見えていなかった。しかし、今は見える者になった。」
(I once was lost but now I’m found, I was blind but now I see) 母親から教えてもらった聖書の言葉が彼の心の奥に残っていました。そして、その言葉が彼の人生を変えたのです。み言葉にはそれほどの力があります。主イエスは、弟子たちに、ユダの裏切りを知ったとしても、それは聖書が預言したいたことであることを知って、神様の言葉、神様の約束を疑うことのないように励まされたのです。

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