2021年7月11日 『互いに愛し合いなさい』(ヨハネの福音書13章31-35節) | 説教      

2021年7月11日 『互いに愛し合いなさい』(ヨハネの福音書13章31-35節)

最後の晩餐の途中、イスカリオテのユダは、主イエスからの最後の愛を受けても、自分がしようとしていることを思い直すことなく、事を実行するために部屋から出て行きました。イスカリオテのユダが出て行ったことによって、部屋には、主イエスを心から慕う弟子たちだけが残りました。恐らく、その部屋の雰囲気が大きく変わったと思います。主イエスは、自分のそばに残った11人に向かって、彼らに大切な教えを語られました。

(1)神が栄光を受ける
31節の言葉を読みましょう。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。」ユダが部屋を出て行ったことによって、主イエスが十字架に貼り付けになる時間が近づいていたのですが、主は「人の子は栄光を受ける時が来た」と言われました。主イエスは、ご自分のことをいつも「人の子」と呼んでおられます。私たちの人間的な目で見ると、人が十字架にはりつけにされることは決して栄光と呼べるものではありません。十字架刑は、当時のローマ帝国が行っていたもっとも残酷で屈辱的な死刑でした。普通に考えると、罪のないイエス・キリストが十字架にはりつけにされて死んでいく姿は、栄光とは程遠いものです。では、この言葉は何を意味するのでしょうか。
 それは、神様が私たち人間をどれほど愛しておられるかということを表しています。人間は神様によって造られましたが、最初の人間が神様の命令を破って、神に逆らう者となりました。最初の人間のDNAをその後に生まれるすべての人間は受け継いでいます。子どもは天使みたいだと言われますが、親から教えられなくてもわがままを言います。親が何か言っても「いやだ」と反抗します。それはすべての人間の心の中に自己中心という罪の性質があるからです。聖書は、罪を持った人間は永遠の滅びに至ると教えています。しかし、私たちを愛しておられる神様は、罪人が永遠の滅びに陥らないための道を作ってくださいました。それは、ご自身の最愛のひとり子である主イエスを、私たちの身代わりとして、十字架によって滅ぼすという方法で実現してくださいました。先日イタリアでロープ―ウェーが落下して観光客が死亡するという悲惨な事故が起こりましたが、一人の男の子だけが助かりました。男の子が助かったのは、彼が父親の胸にしっかりと抱かれていたからでした。子どもを愛する親は自分のいのちを犠牲にしてでも子どもの命を守ろうとします。そのように、神様は、私たちが滅びに陥らないために、最愛の御子イエスのいのちを犠牲にしてくださったのです。旧約聖書のイザヤ書53章には、驚くほど詳しく、また正確に、主イエスの十字架のことが預言されていますが、その10節と11節の前半に、父なる神がどのような思いで御子イエスを十字架にはりつけにするのか、また、父なる神の命令を受けて主イエスがどのような思いで十字架にかかられたのかが記されています。「しかし、彼を砕いて病を負わせることは、主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末永く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て満足する。」父なる神は、御子イエスが、すべての人間の罪を背負って、身代わりとして十字架の罰を受けるのを見て、満足しておられると言うのです。神様の大きな犠牲の結果、私たち人間は、どんなに罪深い人間であっても、主イエスの十字架が自分の身代わりのためであったことを信じるなら、その人は永遠の滅びから救い出されるようになりました。父なる神は、御子イエスによって、私たち人間が滅びから救い出されるのを見て喜んでおられます。これが、父なる神が栄光を受けたということの意味です。
 一方、御子イエスは、11節に書かれているように、ご自身が十字架でどれほどの苦しみを受けたのかを見て満足しておられます。それは、自分が苦しむことによって、多くの人の魂が永遠の滅びから永遠のいのちへと生まれ変わるようになったからです。それは、ちょうど、こどもを宿した母親が、死ぬほどの痛みや苦しみを経験しても、生まれて来た赤ちゃんの泣き声を聞いたときに、すべての苦しみを忘れて喜ぶのと同じです。御子イエスは、十字架にかかるために、ご自分を低くしてこの世に来てくださいました。地上の生涯では様々な苦しみを経験し、ついには自分から十字架にかかってくださいました。人々から嘲られ、罵られ、激しい苦しみを経験された主イエスは、十字架で死ぬ時、最後に言われた言葉は「完了した」という言葉でした。これは、「ついに自分は神のひとり子としての務めをすべて果たした」という宣言の言葉でした。自分の苦しんだ結果、罪人が新しく生まれ変わり永遠のいのちを持つ者となる道が開かれたことを見て、御子イエスは、すべての苦しみを忘れて、喜ばれるのです。今、御子イエスは天におられますが、地上で、一人の罪人が主イエスの十字架が自分のためであったことを信じる決心をするとき、主イエスは大きな喜びを感じておられるのです。これが御子イエスにとっての栄光なのです。
 イエスの十字架は、このように、すべての人間に注がれている、父なる神と御子イエスの本当に大きく、広く、深い愛を表しています。御子イエスは、ユダが部屋を出て行くのを見て、いよいよ、自分が栄光を受ける時が来たこと知りました。そして、そのことを11人の弟子たちに伝えられたのです。クリスチャンの信仰の基本はここにあります。私たちは、神様からこれほどの愛を受ける資格はないのですが、神様が一方的に、私たちに愛を注いでくださるのです。私たちは、知識を深めることや、修行することで、自分を変えることはできません。しかし、本当の愛に触れるなら、変わることができます。クリスチャンの生き方の基本姿勢は、自分をこれほどに愛してくださる神様に対して感謝の心をもって生きることなのです。

(2)互いに愛し合いなさい。
 主イエスは、自分が十字架にかかることは、人々に対する大きな愛の実践であることを、弟子たちに伝えたかったのです。このことを前提として主イエスは、弟子たちに新しい戒めを与えられました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ここで、主イエスが「新しい戒め」と言われましたが、実は、旧約聖書にも互いに愛し合いなさいという命令はありました。有名な命令としては、レビ記の19章18節に「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という命令です。ところが、人々は、この命令に対して、自分の隣人は誰なのかということをあれこれ考えて、結局のところ、自分と同じユダヤ人、しかも、自分と親しくしている人を愛するということに限定していました。神様の戒めを自分の都合の良いように解釈していました。ここで、主イエスが「新しい戒め」と言われたのは、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉の中に、新しい戒めの理由があります。神様は、ひとり子のいのちを十字架で犠牲にするほどに私たちを愛されました。その愛と同じ愛で愛しなさい、これは普通の愛では絶対にできない命令です。この命令については、主イエスは以前にも別の言葉で教えておられました。その教えはマタイの福音書の44節から47節に記されています。神様は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、雨を降らせてくださる方です。神様は、悪人と善人、正しい人と正しくない人をちゃんと見分けておられるのですが、それでも、すべての人を公平に扱って、すべての人に愛を注いでおられます。46節で言われているように、自分を愛する者を愛することは簡単です。取税人でもしていますと主は言われましたが、取税人は当時のユダヤ人の社会では、自分の地位を利用として自分の財産を増やしていた悪徳公務員でした。不正を働くような人間でも、自分を愛する者を愛している。新しい戒めとは、自分の敵になるような人を愛しなさいという命令でした。主イエスは、十字架につけられた後、十字架の上で7つの言葉を言われましたが、最初の言葉は、自分を十字架につけたイエスの敵のための祈りの言葉でした。「父なる神様、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。」という祈りです。手足をくぎで十字架に打ち付けられて極限の痛みと苦しみの中で言われたのがこの言葉です。主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように」と弟子たちに言われましたが、主イエスは、自分を裏切るユダに対しても最後の最後まで愛を注がれました。主イエスは、弟子たちにも、自分と同じように自分にとって敵であるような人を愛するようにと命じられました。この命令から分かるように、「愛する」とは感情に基づくものではありますが、最終的には決断によって決める意志の行為なのです。
 イエスは、敵を愛しなさいという、一見不条理に思える命令をされた理由を述べておられるのですが、一つは、それが人間として成熟を意味するからです。主イエスは45節で「天におられるあなた方の父の子どもになるためです。」と言われましたが、敵を愛することは子どもにはできません。成熟した大人にしかできないことです。第二の理由は、それは神の生き方を実践することだからです。神様は、正しい人にも正しくない人にも、同じように祝福の太陽を、祝福の雨を与えてくださる方です。クリスチャンとは、キリストの弟子です。弟子は、師匠と同じように生きなければ弟子とは言えません。私たちは、自分の好きな人、自分と気が合う人にだけ祝福を与えるのではなく、自分の敵に対しても祝福を与える人であるように命じられています。私たちは、他の人に祝福を与えるべきであって、呪いを与えるべきではありません。第3に、この命令は、私たちが本当に主イエスの弟子であることの証しになるからです。今の世の中は、愛が冷えている時代です。だれもが自分のことだけを考えているような時代です。クリスチャンは、この世から救い出されて、神の子どもとなりました。従って、これからはこの世の流れに従って生きるのではなく、神のこどもとして相応しい行動を取らなければなりません。その一つが、自分の敵を愛するということにあるのです。私たちは、まず、主イエスの愛を受けとりました。自分が本当に主イエスに愛されていることを知りました。このことを経験することがまず必要です。私たちは、自分が愛されていることを知る時、主イエスの愛を経験するとき、他の人を本当に愛することができるようになります。ただ、敵を愛することは本当に難しいことです。だから、主イエスは44節で、自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさいと言われました。私たちは、最初から、自分の敵を愛することはできません。まず、その人のために祈ることから始めることが大切です。自分にとっては敵だとしても、その人も神様によって造られた一人の人間です。神様はその人を私を愛するのと同じ愛で愛しておられます。神様が愛しておられる人を私たちは憎むことはできないのです。神様に、敵を愛する方法を教えてくださいと祈りつつ、その敵のために祈るときに、聖霊が働いて、不可能なことを可能にしてくださるのです。その時に、私たちは、この世の人々に神様が与えてくださる愛の力を伝えることができるのです。

 かつて真珠湾攻撃をした部隊のリーダーは淵田美津雄という人でした。戦争中は英雄でしたが、戦後は戦争裁判を受ける犯罪者でした。彼は、戦争裁判に対する反感と怒りでいっぱいでした。そんなある日、アメリカに捕らわれていた日本軍捕虜が送還されて、浦賀に帰って来ました。私は浦賀に出向いて、帰りついた日本軍捕虜からアメリカ側の取り扱いぶりを聞きただしました。彼は。捕虜たちはアメリカでひどい目に合っていたのだろうと思っていました。ところが、いろいろと話を聞き回っているうちに、あるキャンプにいた捕虜たちから美しい話を聞き、心を打たれました。この人々が捕らわれていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカのお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれました。二週間たち、三週間と経過しても、このお嬢さんの態度には一点の悪意も見られませんでした。やがて全員はしだいに心を打たれて、「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。お嬢さんは、初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので、彼らに言いました。それは、「私の両親が日本軍隊によって殺されたからです」というびっくりするような返事でした。両親が日本軍隊によって殺されたから日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは、話は逆です。淵田さんは不思議に思って彼らから詳しく話を聞きました。話はこういうことでした。このお嬢さんの両親は宣教師で、日本にいましたが、戦争とともに日本から追放されました。いつか日本に戻ることを考えていた二人はフィリピンに避難しました。しかし、二人はフィリピンで日本軍に発見され、日本軍は、この二人はスパイなので殺すと言いました。彼女の両親は「私たちはスパイではありません。でも、どうしても斬るというのなら仕方がありません。せめて死ぬ支度をしたいから三十分だけ時間をください」と言って、与えられた三十分に、聖書を読み、神に祈った後、二人は日本軍によって殺されました。やがて、このことが、アメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。お嬢さんは悲しみと憤りでいっぱいでした。自分の父や母がなぜ殺されなければならなかったのか。日本軍に対する憎しみと怒りに胸は張り裂ける思いでした。しかし、静かな夜がお嬢さんを訪れたとき、両親が殺される前の三十分、両親は何を祈ったのだろうかとお嬢さんは考えました。彼女は自分の両親のことを考えると、次のようなことを祈ったのではないかと思いました。「神さま、いま日本の軍人が私たちの首をはねようとしていますが、どうか、彼らを赦してあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶ず戦争など起こるから、このようなことになるのですから。」するとその時、不思議に、お嬢さんの気持ちは憎悪から人類愛へ変わったというのです。淵田さんは、その話を聞いて、聖書を読み始めました。あちらこちらとさぐり読みをしているうちに、ルカの福音書23章34節の言葉が目に留まりました。主イエスが十字架の上で最初に祈られた言葉です。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。」淵田さんは、この言葉を読んで、あのアメリカのお嬢さんの話が頭にひらめきました。そして、淵田さんはイエスがこのような祈りをささげた意味が分かり、主イエスを信じる者となりました。一人の若い女性が、主イエスの命令に従ったことが、他の人を憎しみから解放し、救いをもたらしたのです。私たちも、そのような器になりたいと思います。

                              

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