2021年8月8日 「あなたを捨てて孤児にはしない」(ヨハネ14章12-21節) | 説教      

2021年8月8日 「あなたを捨てて孤児にはしない」(ヨハネ14章12-21節)

 ヨハネの福音書13章の終わりで、主がペテロに「私が行くところに、あなたは今はついてくることができません。しかし後にはついて来ます。」と言われるのを聞いて、ペテロだけでなく弟子たちは皆、心を騒がせていました。主イエスが自分たちを置きざりにしてどこかに行ってしまうと思ったからです。そこで、14章の初めのところで、主は、弟子たちに、天国で主イエスと共に永遠に生きることを約束され、また、自分が神であり、私たちにとって、道であり、真理であり、いのちであることを弟子たちに教えられました。弟子たちは、これらの主イエスの言葉を聞いて、かなり気持ちが落ち着いたと思いますが、今日の個所では、それに続いて、主イエスは3つの約束について語られました。これらの3つ約束は素晴らしい約束です。また、この約束は11人の弟子たちだけに与えれらた約束ではなく、主イエスを信じるすべての者に与えられている約束であり、クリスチャンに大きな力を与えてくれるものです。

 第一の約束は、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに 大きなわざを行います。」という約束です。この約束は、直接的には主イエスとともにいた11人の弟子たちに与えられたものです。その中には、キリストが行われた奇跡のような業も含まれていました。使徒の働きを見ると、ヨハネやペテロによって人々の病気が癒されたり、悪霊が追い出されることが起きています。しかし、主イエスのわざはそれだけではありません。大きな困難に直面しても立ち上がる力を持つことも主イエスのわざです。もちろん、このわざは、信じる者の内にある力によって行われるのではありません。その人の内に、整理が働いて、その人をとおして神様が働いて行われるわざです。また、主イエスは、「さらに大きなわざを行います。」とも言われました。これは、最も大切なわざである伝道の働きを指しています。信者たちに初めて聖霊がくだったペンテコステの日、主イエスを知らないと3回も言ってしまったペテロが、主イエスに敵対していた大勢のユダヤ人たちの前で、恐れることなく、大胆に主イエスが救い主であると説教しました。その結果、大人の男性だけで3000人もの人々が神を信じました。そして、ユダヤ教の祭司たちも次々に主イエスを信じました。この時のペテロの伝道の働きは、主イエスが行われた伝道の働きよりも大きな結果を生み出しました。それから2000年たちましたが、今でも全世界で、多くの人が主イエスを信じる信仰に導かれています。以前はキリスト教徒は南半球よりも北半球のほうが多かったのですが、今では、南アメリカやアフリカでクリスチャンが増え続けています。このようにして福音が宣べ伝えられて、多くの人が主イエスを信じるようになっているのも、この時の主イエスの約束が実現したことだと言えます。そして、12節の最後で、主イエスはこの約束が実現する理由として、「わたしが父のもとに行くからです」と言われましたが、それは、主イエスが父なる神のもとに行くことによって、主が一人一人に私たちを助ける働きをする聖霊を送ってくださるからです。

 第二の約束は13節に記されています。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。」祈りに関する約束です。この約束は、主が弟子たちから離れて行っても、主と弟子たちの交わりは、これからも続くと言う約束と言えるでしょう。今、弟子たちは主イエスと大切な時間を過ごしています。主からいろいろな教えや戒めや励ましを受けています。しかし、これからは、主イエスは天に帰られるので、天国とこの地上と場所は離れますが、彼らは祈りによって結ばれていることを主は弟子たちに教えられました。主イエスが地上で働いておられた時は、弟子たちは、主の近くにいなければ主の言葉を聞くことができませんが、これからは、場所は遠く離れていても、弟子たちはいつでも主に祈ることができることを教えておられるのです。しかも主イエスはこう言われました。「また、わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でもそれをしてあげます。」主イエスは弟子たちの祈りを聞くだけでなく、彼らが求めることを何でもしてあげると約束されました。これは、信じられないような約束です。ただ、この約束には一つの条件があります。「私に名によって求める」という条件です。これはどういう意味でしょうか。ユダヤ人の考え方では、名前は単なる肩書のようなものではなく、その人そのものを表すものと受け止められています。イエスの名前によって求めるというのは、主イエスが私たちのためにしてくださったことに基づいて、つまり主イエスの十字架によって罪赦された者として祈るということです。私たちは、主が十字架にかかってくださらなかったら、罪が赦されることなく、神の子となることもなく、永遠の滅びに向かわなければならない者でした。従って、主イエスの十字架がなければ、神様に祈る資格も、何かを求める資格もありません。主の御名によって祈るとは、このことを認めて、自分には求める資格は何もないのだが、主イエスの十字架のおかげで祈らせてもらっていますと認めることです。そのような祈りの中で、私たちはただ自分が欲しいようなものを祈ることはできません。主イエスの御心にかなった祈りであれば、どんな祈りでも主は聞いてくださると約束しておられます。

 第三の約束は16節に記されています。「そして、わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがとともにいるようにしてくださいます。」主イエスは、間もなく十字架にかかり三日目に復活されますが、40日間弟子たちに姿を現わされた後、天の父なる神のもとに帰られます。主は、弟子たちを置いて、この世を去って行かれます。それが、弟子たちにとってどれほど大きなことか、主はよく分かっておられました。それで、主は、彼らに「助け主」を送ることを約束してくださいました。ここで、その助け主のことを「もう一人の」と言われていますが、主イエスは神のひとり子としての働きを完了して、父なる神の下へ行かれますが、三位一体の神である聖霊が、これまでの主イエスとまったく同じように、弟子たちと共にいて、弟子たちを励まし慰める助け主の働きをすると約束しておられるのです。主イエスが地上で働いておられた時、人々は、イエスの教えを聞くために、主イエスに癒してもらうためには、イエスのところに行かなければなりませんでした。しかし、イエスに会いたいと思っていた人が皆イエスのところへ行けたのではありません。むしろ、大多数の人は主イエスに会うことはできませんでした。しかし、主がこの世を去って行く時、弟子たちは、いつでも、どこにいても、主イエスが送ってくださる助け主と共にいることができるようにようになるのです。その助け主を主イエスは「真理の御霊」と呼んでいます「助け主」と訳されているギリシャ語の言葉は「パラクレートス」という言葉ですが、新約聖書では、ヨハネだけが使っている言葉です。「パラクレートス」という言葉は、「パラ」という言葉と「クレートス」という言葉を組み合わせて造られている言葉です。「パラ」とは「近くに」という意味です。「クレートス」とは「呼ばれた、呼び出された」という言葉です。従って、この言葉をそのままに訳すと、「近くに来るように呼ばれた人」という意味になります。当時の社会では、パラクレートスという言葉は「弁護士」という意味で使われていました。弁護士は、裁判で訴えられている人を助けるために、被告のそばに立ち、被告の味方になって、被告を守ろうとする人です。被告にとって有利なことだけを証言して、被告が無罪であることを証明しようとするのです。サタンは私たちを攻撃してきます。「お前は神を信じていると言うがお前は罪人だ。」などと言って訴えて来ます。しかし、聖霊は、私たちを弁護して、私たちは主イエスの十字架によって罪を赦されているので、無罪だと父なる神様の前で証言してくださいます。その点で、聖霊は、弁護士に似ているでしょう。また、当時の社会で、この「パラクレートス」はスポーツのチームを指導するコーチにも使われていました。今回のオリンピックで、日本の女子バスケットチームは準決勝でフランスを破りました。素晴らしい試合でした。ただ、終了間際にフランスに少し続けて点を入れられて冷っとしましたが、すぐにコーチがタイムアウトを取って選手たちにアドバイスしていました。聖霊は、私たちにとって人生のコーチになってくださいます。私たちが困っている時、どうしたらよいか分からない時に、いま取るべき正しい道を、正しいステップを教えてくださるのです。聖霊は、いろいろなかたちが私たちに働いてくださいます。生活の中で、ふと気づきを与えてくれたり、他のクリスチャンの言葉を通して語ってくれたり、私たちが祈っている時に、より近くで祈りを聞いてくださったりします。しかし、一番多いのは、み言葉を通して私たちに語ってくださることです。聖書を読むときに、今の自分に必要なみ言葉が与えられます。聖書の言葉は生きていますから、私たちが真剣に求めて読むときに、不思議な慰めや戒めや助けを与えてくれます。

 主イエスは、弟子たちを置いてこの世を去ろうとしていたので、ちょうど、子どもを残して死んでいく父親のような気持ちを弟子たちに対して持っていました。彼らの苦しみや悲しみがよく分かっておられました。それで、18節の言葉を弟子たちに言われたのです。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻ってきます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。」主イエス・キリストを信じる者は、決して主イエスに見捨てられることはないという約束はなんと私たちにとっては慰めになる約束ではないでしょうか。主は言われました。「あと少しで世はもうわたしを見なくなります。」主イエスは十字架にかかった三日目に復活されましたが、復活の主は、主を信じる者たちだけに現れました。イエスを信じなかった者たちは復活のイエスを見ることはありませんでした。もちろん、主イエスを信じない者には、助け主である聖霊も働くことはありません。しかし、主イエスを信じる者たちはイエスを見ると主は約束されました。もちろん、弟子たちは、イエスが言われたように復活の主と出会って、主イエスを見ました。しかし、この約束は、11人の弟子たちだけでなく、主イエスを信じるすべての人のための約束です。助け主である聖霊が私たちのうちに働く時、私たちは、この世にあっても、主イエスがともにおられることを感じることができます。主イエスは、復活された後40日間弟子たちに現れたのち、天に帰られましたが、最後の時に、主は弟子たちに約束されました。それがマタイの福音書の最後に記されていますが、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」という言葉です。私たちの地上の生涯の最後の日まで、私たちは、決してひとりで生きているのではありません。肉眼では見えませんが、主イエスがいつも私たちとともにおられるのです。そして、主イエスは私たちの味方として働いてくださいます。私たちが神を捨てることはあるかもしれませんが、神様が私たちを見捨てることは絶対にありません。主イエスのもう一つの名前は、インマヌエルです。これはヘブル語で「わたしたちとともにいる神」という意味です。お祈りをするときに、自分のそばに主イエスがおられることを意識して、主イエスに語り掛けてみましょう。主は、私たちの助け主です。弁護してくださるかたです。スポーツ選手のコーチのように、私たちがするべきことを指導し、教えてくださる方です。その方が私たちともにおられるなら、私たちは何を恐れることがあるでしょうか。

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