2021年8月22日 『イエスが与える本当の平安』(ヨハネ14章27-31節) | 説教      

2021年8月22日 『イエスが与える本当の平安』(ヨハネ14章27-31節)

 私たちが生きている時代は、不安の時代と言っても良いでしょう。コロナ感染が発生して2年になろうとしているのに感染者数がピークに達しています。また、毎年大雨による災害が繰り返し発生しています。アフガニスタンでは再びイスラム教原理主義のタリバンが国を支配するようになりました。以前、ある歴史学者が過去3500年の出来事を振り返って、戦争のない年がどれぐらいあったのか計算したそうですが、その学者によると、3500年の間に世界で戦争がなかったのは300年以下だそうです。平和、ピースは誰もが願うことであり、Love & Peaceという言葉は誰もが好きな言葉です。しかし、その願いは達成されることなく今日を迎えています。一般的に、私たちが「平和・平安」とは何かということを考えるときに、「~がない状態」と考えます。トラブルがない、心配がない、戦争がない、喧嘩がない、憎しみがない、復讐心がない、それが平和、平安だと考えるのですが、このような平和というのは非常にもろくて、そのような平和はすぐに崩れてしまいます。いろいろな国々で、和平条約というものが結ばれてきましたが、すべての和平条約は何らかのかたちで壊れてしまいます。第二世界大戦後のドイツの一人の貴族が親友の画家に絵を描いてほしいと頼みました。彼は、「私たちの国は滅び、自分も戦争ですべてのものを失った。将来の事を考えるとまったく不安だらけだが、自分の心を慰めるために、「平安」をテーマにした絵を書いてほしい。」と画家に頼みました。その画家はか3か月かけて大きな壁画を描き上げました。それは、森に囲まれた美しい湖で、その湖面は鏡のように満月を映していました。とても静かな風景で、平和を表すのに相応しい絵に思われました。しかし、その絵を見ていた貴族はその絵を見て失望して、画家に言いました。「この絵はいかにも美しく平安そのものだが、もし、ひとつの風が吹けば、水面は波立ち、美しい満月も壊れてしまいます。私が求めているのはそのような平安ではありません。どんなにひどい嵐が吹いてもまったく動じない、そんな平安です。」そこで、その画家は、構想を練り直して、新しい壁画を描き上げました。新しい絵は、画面の上から、ものすごい水が流れ落ちる大きな滝の絵でした。画面全体に水煙が漂っていました。しかし、その滝の中ほどに一本の枝が滝から突き出ていて、その枝に小鳥の巣が描かれていました。その巣の中に数羽のひながいて、親鳥から餌をもらっている絵でした。これを見たこの貴族は、この絵を見て大いに喜び、画家に、「わたしが求めていた平安とは、まさにこれです。」と言ったそうです。このように、世の中の人々は、自分の人生の平安は、ある状態を持っていることが基盤になります。例えば、病気がない状態、仕事がある状態、お金の心配がない状態などです。しかし、そのような状態は、何かのできごとによって一瞬にしてなくなる可能性があります。そう考えると、私たちが普段考えている平安は非常にもろいもので、いつ消えるか分かりません。いつ消えるか分からないのものに依存する生活はきわめて不安定です。しかし、主イエスはまったく異なった平安を私たちに与えると約束しておられます。

(1)主イエスが与える平安とは
 主イエスが私たちに与えようとしておられる平安は、そのような何かがあるというその時その時の状態に依存するものではありません。その平安は、神様との関係に基づく平安です。使徒パウロは、ローマ書5章1節で「私たちは、信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」と述べています。聖書は、私たちがこの世で生活をするときに、平安を持つための条件は神様との平和の関係を持っていることにあると教えています。聖書は、最初の人間アダムとエバが神の命令に従わずに自分勝手な行動と行った結果、すべての人間が神の怒りを受ける状態、つまり、すべての人は言わば神との戦争状態に置かれていると教えています。今、アフガニスタンはタリバンが権力を握った結果、人々は大混乱に陥っています。自分たちがどのような目にあうのか分からず大きな不安の中にあります。私たち人間が、この世で生きる時に恐れを感じたり、心を騒がせることが多いのは、聖書は、心の中に神に逆らって生きよう塔する罪があるからです。その根本的な原因である罪のゆえに、私たちの人生に様々な問題が起こってきます。しかも、私たちは、罪の性質のために、何かが起こった時に、いつも自分の都合の良いように解釈し、自分の都合の良いように解決しようとします。すべての責任を自分以外の人に転嫁しようとします。また、誰もが自分に都合のい解決方法を求めるため、自分の願い通りの解決が実現することは難しく、心に悩みやフラストレーションがたまります。この罪がある限り、私たちは決して本当の平安を感じることはできません。
 しかし、聖書は、人間のそんな状態に、良いニュースがあると教えています。良いニュースそれが福音です。神に敵対している私たちのために、イエス・キリストが私たちの罪を身代わりに背負って、私たちの罪の罰を受けてくださったことによって、私たちの罪の問題を解決してくださいました。イエス・キリストの十字架を感謝して受け入れ、主イエスを自分の罪からの救い主と信じる時、私たちのすべての罪は赦され、神様との平和の関係に入れられ、その結果、私たちは自分勝手な生き方から解放されるのです。これが私たちのための良い知らせです。誰かと敵対関係にある時、誰かが好きになれないとき、私たちは、その人の前で平安を感じることはできません。ストレスがたまります。しかし、自分が好きな人の前では、心はいつもリラックスしています。私たちにとって、一番大切なことは、神様との平和の関係を持って生きることです。これが、私たちの人生において一瞬で消えてしまうことのない平安を持つ基盤です。
 この神様との平和の関係を持つ者には、神様が与えてくださる平安、神の平安が与えられます。新約聖書ピリピ人への手紙4章6、7節にこのような言葉があります。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安があなた方の心を思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」神の平安とは、神様が持っている心の平安です。主イエスは、今、弟子たちと最後の食事をしています。これから主はイスカリオテの裏切り、ユダヤ人たちからの憎しみ、あざけりを受けることを知っておられましたが、キリストは十字架の道を真っすぐに進んでおられました。また、ある時は、主イエスが弟子たちと船に乗ってガリラヤ湖を渡っていましたが、夜になった突然の嵐に見舞われました。弟子たちは死ぬかと思ってパニック担っていましたが、主イエスは、まったく動じることなく、船の片隅でぐうぐうと眠っておられました。主イエスは、周りの状況に関係なく、心に平安を持っておられました。そのような主イエスが持っておられた平安を主は私たちに与えると約束しておられるのです。お金があり、健康があり、トラブルなく生活をしていればその人の心が平安であるということは誰もが理解できることです。しかし、主イエスを信じる者は、その人の周りで嵐が吹き荒れていても神様からの平安が与えられるので、その平安は普通の人の理解を超えています。神様から与えられる平安は、自分の状況に依存するのではなく、神様との絶対的な信頼関係にあるからです。最初の2つの平安を表す絵の話をしました。画家が2枚目に描いた絵はごうごうと水が流れ落ちる滝から突き出た枝にある鳥の巣を描いたものでした。その巣の中のひな鳥は、激しい水が流れ落ちる中で、安心して親鳥から餌をもらっています。ひな鳥はまわりの水を見ているのではなく、親鳥を見ています。親鳥がそばにいる限り、自分たちが安全なのを本能的に知っているのです。だから彼らは平安の中にいました。イエス様は言われました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。」

 28節で主イエスは言われました。「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る。と私が行ったのをあなたがたは聞きました。わたしが父のもとに行くことをあなたがたは喜ぶはずです。父はわたしより偉大な方だからです。」特に、ここで、イエスが弟子たちに、「わたしが父のもとにいくことをあなたがたは喜ぶはずと言われたのは、どういう意味でしょうか。なぜ、弟子たちは、イエスが父のもとに帰ることを喜ぶのでしょうか。私たちは、主イエスが天に戻られた時に、何をされるのかというを知らなければなりません。へブル人への手紙の4章14節を読んでみましょう。「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」主イエスは、天において偉大な大祭司としての務めを果たされます。旧約聖書の時代、祭司は、人々と神様との間に立って、人々のために祈りを捧げる働きをしていました。特にユダヤ教のトップであった大祭司は1年に1度、神殿の最も聖なる場所に入って、人々のために罪の赦しの祈りを捧げていました。しかし、主イエスはユダヤ教の大祭司よりもはるかに優れたお方です。1年に1度ではなく、1年365日、つねに、父なる神の前で、私たちのための祈りをささげておられるのです。私たちがいつ、どこで、祈りを捧げても、その祈りは聞かれています。そして、主イエスご自身が私たちのために祈っておられるとは、なんと心強いことでしょう。私たちは、自分の人生は自分ひとりで生きていると思いがちですが、それは違います。神様がいつも、私たちのために祈り、私たちのために陰で働いておられます。私たちは、自分の内側には、聖霊さまがおられます。私たちの頭上、天国ではイエス様が私たちのために祈っておられます。そして、私たちの前には神の言葉が与えられています。これだけのものに私たちは囲まれて生きていることを忘れてはなりません。

 最後に、主イエスは、30,31節で、私たちの霊的な敵について語っておられます。その敵とは何でしょうか。それは、この世であり、この世の支配者であるサタン・悪魔です。私たちがこの世で生きている時に心を騒がせるのは、背後には、この世がサタンの支配下にあることが関係しています。この世の多くの人は、悪魔の存在を信じません。それは頭に角が生えた、漫画に出て来るような存在ではありません。神と同じ霊的な存在で、私たち人間を、神様から引き離すため、私たちを神の平安から引き離すためです。さまざまな形で私たちの思いをコントロールして操ろうとしています。占いやオカルトもその一つです。人々がそれを信じてそれにコントロールされていまいます。私たちが心を騒がせてしまうのは、ただ単に、この世の情勢が目まぐるしく変わるからだけではありません。悪魔が、人間の心に、必死になって働きかけている結果です。主イエスは、このサタンのことをすべて見抜いておられました。サタンがクリスチャンに働きかけることも知っておられました。サタンはクリスチャンの信仰を揺るがせるために、さまざまなことをささやいたり、心の中に思い出させようとします。サタンは私たち一人一人の弱いところを知っわたしたちはているので、そこを攻撃してくるのです。私たちは、主の助けを受けなければ、サタンに太刀打ちできません。しかし、そのサタンも復活の主イエスに対しては何もすることができません。サタンが何も手出しできない主イエスが、私たちのために平安を残すことを約束しておられるのです。このことを実行するために、主は、私たちのために自分から進んで十字架にかかってくださいました。

 子ども頃、学校でデビッド・リビングストンという人のことを学びました。アフリカ大陸を探検した人として有名ですが、実は彼は宣教師でした。彼はある時、死にそうな目に合いました。白人である彼が、アフリカのど真ん中で敵意を持った現地の人々に取り囲まれてしまったのです。殺される危険が高かったので、彼は夜の間に逃げ出そうと考えていました。ところが、彼は、その考えを変えました。そのことを1856年1月14日の日記に記しています。「アフリカの人々に福音を伝えようとして働いてきたが、私の心は動揺していた。明日にはこれらの人間に殺されるかもしれない。しかし、私は聖書を開いてイエスの言葉を読んだ。イエスは言われた。「わたしには天においても地においてもすべての権威が与えられています。あなたがたは行って、すべての人を教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」私の心は変わった。夜中に逃げ出そうと思っていたが、それはしない。私は、今夜もいつものように星の観察をしてアフリカの地図作りをする。今夜が最後の観察になるかもしれないが、私の心は平安だ。私は神に感謝する。」彼も、主イエスが与える平安を受け取った一人です。主イエスは、主イエスを救い主と信じるすべての人に、主イエスの平安を与えると約束しておられます。私たちは、それを信仰をもって受け取らなければなりません。主イエスを信頼して、私たちも主イエスの平安を受け取りましょう。

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