2021年9月12日 『この世があなたを憎むとき』(ヨハネ福音書15章18~27節) | 説教      

2021年9月12日 『この世があなたを憎むとき』(ヨハネ福音書15章18~27節)

 テレビでよくテレビショッピングを放送しています。見ていると、紹介されている商品は素晴らしいもので、今買わないと損をする、そんな気持ちにさせられます。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、そのような番組では、絶対に商品の欠点については教えないということです。商品の欠点は、商品を実際に手にするまでは分からないのです。聖書の中でも、それと似たようなことが起きます。例えば、偽預言者と呼ばれた人々がいます。預言者エレミヤの時代、イスラエルはバビロンの攻撃を受けて、いつ滅ぼされてもおかしくない、そんな厳しい状況に置かれていました。しかし、偽預言者たちは、「自分たちが信じている神様は全知全能の神だから、私たちが戦いに負けるはずがない、安心だ、安心だ。」と人々に語っていました。これらの預言者たちは、後で、神様から厳しい裁きを受けました。また、アメリカでは、日曜日の朝、テレビをつけると、いろいろなチャンネルで日曜礼拝の番組があり、人々は自分の好きな牧師を選んでテレビで礼拝に参加することができます。以前は、テレビでの伝道を専門にするテレビ伝道者が多くいました。このテレビ伝道者にも問題が多くありました。彼らは、イエスを信じるなら人生ハッピーになる。と信じることによって得られる祝福を強調するだけで、罪の問題やクリスチャンとして生きる時に、時には困難や苦しいがともなうことを一切語らないのです。このような伝道者のメッセージを聞いて信じた人々の信仰はとても浅い信仰にとどまっていました。
 しかし、主イエスは違います。主は「道であり、真理であり、いのちである。」と言われました。主イエスは「真理」「真実」だけを語られます。ヨハネの福音書の15章はすべてイエスが弟子たちに教えられた言葉ですが、これまでの個所と今日の個所では、その内容が大きく異なっています。これまでは、主は、弟子たちが自分がいなくなることに対して心を騒がせていることを知っておられたので、彼らを慰めるための言葉を語っておられます。「わたしの愛にとどまりなさい。」「わたしはあなた方を友と呼びました。」また、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」このような言葉を語って、弟子たちの心を慰めようとしておられます。しかし、主は、弟子として生きることの大変さも、同じように、はっきりと彼らに教えられました。イエスの弟子として生きる時に、特権や祝福だけではなく、時には、この世の人々から憎まれ、迫害を受けることもあると、弟子たちに警告の言葉を語られました。今日の個所は、今の私たちにも大変重要な言葉です。主イエスを信じることは、永遠の祝福であることは変わりません。しかし、この世でクリスチャンとして生きることは、決して簡単ではないことも事実です。この世の人々は自分の罪に支配され、神に敵対するサタンの支配を受けているので、クリスチャンを憎むのは当然だからです。このことを知っておけば、私たちは、自分の生活の中でいろいろ経験することになりますが、冷静に受け止めることができます。

 主イエスは18節-19節で次のように言われました。「世があなた方を憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたはこの世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」主は、心を騒がせていた弟子たちにも、キリストの弟子として生きることには厳しい面もあることを隠さずに話されました。彼らが、後になって、つまずくことがないためです。ここで、主イエスは、イエスの弟子がこの世で憎まれることについて、その理由をあげておられます。
 第一に、19節で主は、弟子たちが「この世のものではない」と言われました。ヨハネが「世」という言葉を使う時には、この世界とか、地球全体とか、そこに住む人を意味する言葉として使っているのではありません。ヨハネは「世」という言葉を、神様に敵対し、サタンの支配されている領域、そしてそこに住む人々を表します。その人々は神の教えに逆らい、キリストの反抗する人々なので、神のさばきを受けるべき人々です。しかし、同時に、世には神様の救いと無限の愛が注がれています。聖書の中で最も有名な言葉ヨハネの3章16節で使われています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」ここで言われている「世を愛された」というのは、神様は、神の教えに従わずに自分勝手な生き方をしている人々、神に逆らう人々、そのような人々のためにさえ自分のひとり子イエスのいのちを犠牲にされた」という意味なのです。主イエスを救い主と信じた者は、以前は、この世に属する者でしたが、今はこの世から救い出された者です。そういう意味で、主イエスは弟子たちがこの世のものではないと言われました。
 なぜ、「この世のものではない」人たちはこの世から憎まれるのでしょうか。それは、罪を持つ人間の性質として、自分と違うものを受け入れることができないからだと思います。自分と同じ価値観を持たない者、自分と同じ行動をしない者、同じ欲望を持たない者を受け入れられないのです。かつて18世紀のロンドンにジョナス・ハンウェーという人がいました。この人は、ロンドンで初めて傘を開いて道を歩いた人で有名なのですが、彼が初めて傘をさしてロンドンを歩いた時、街の人はその姿を見てびっくりし、変なものをもって歩いていると言って彼に石や泥を投げつけたとのことです。彼は傘をさしたことで迫害を受けました。これは信仰とは無関係の例ですが、この世の人々は、私たちクリスチャンがこの世の価値観や考え方に従わないために憎むのです。
 第二に、19節で主イエスは、「わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」と言われました。主イエスは16節でも言われましたが、私たちがクリスチャンになったのは、私たちがイエスを選んだのではなく、主イエスが、先に、私たちを選んで下さったのです。これは、私たちには非常に不思議なことなのですが、パウロがエペソ人への手紙で語っているように、永遠の存在者であり全知全能の神様は、この世界が造られる前に、すでに私たちを選んでいてくださいました。そのことは、私たちがクリスチャンになった時に初めて分かりました。しかも、19節の「わたしがあなたがたを選び出した」という文章では、わたしという言葉が強調されています。したがって、19節は、もう少し詳しく訳すと、「わたしが、自分自身が、あなたがたを選んだのです。」となります。世の中の人々は、自分で意識していないにしても、神に敵対するサタンに支配されていますので、主イエスを憎みます。そのために、人々は「イエスを十字架につけろ」と叫び、イエスに鞭を打ち、唾を吐きかけ、侮辱しました。これが世の人々の現実です。従って、彼らが、イエスが自ら選んだ人々を憎むのは、当然のことです。私たちは、主イエスに選ばれたことによって私たちの立場が明らかになりました。私たちがキリストの側についていることを世の人々は知りました。そのために、世は私たちを憎むのです。しかし、私たちにとって、主イエスに選ばれたこと、主イエスの側についたことは本当に感謝なことです。主イエスが、最初に私たちを愛してくださいました。主は最初に私たちのために死んでくださったのです。私たちがクリスチャンになる決心をしたのはその後の出来事です。世の中の人々が、私たちに対してどんなことを言うとしても、何も恐れる必要はありません。私たちは主に繋がる者として主イエス自身によって選ばれた12弟子と同じ存在なのです。そして、主イエスは、ご自分が選んだ者たちとともにいて、私たちを助け、私たちを守ってくださる方です。

 では、なぜ、世の人々は主イエスを憎み、クリスチャンを憎むのでしょうか。主イエスは21節でこう言われました。「しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなた方に対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。」世の人々は、キリスト教のことを正しく理解しないまま、聖書を読むこともなく、批判します。多くの人は、キリストやキリスト教を批判する書物だけを読んでそれを鵜呑みにして、批判します。彼らは、実は、キリストがどういう方なのか、どんな教えを言われたのか知りません。ただ、偏見と思い込みで批判します。でも、私たちも、クリスチャンになる前はキリストのことを知りませんでした。しかし、その後、私たちは聖書の言葉を読み、イエスの教えや働きを知って、イエスに対する考え方が変わりました。私たちも、以前は世の人だったのです。ですから、私たちは、世の人々から批判されたり攻撃されたときに、彼らを憎むのではなく、彼らのために祈ることが大切です。彼らは何も知らないのです。多くの人が、キリストを嫌っていたのに、陰で祈られたクリスチャンの祈りによって救いに導かれました。わたしの父も、母がクリスチャンになって洗礼を受けた時から、母をいろいろなことで攻撃するようになりました。しかし、母の変わらない信仰姿勢と祈りの結果、5年後に父もクリスチャンになりました。わたしの父も主イエスのことをただ知らなかっただけだったのです。イエスと一緒に十字架に掛けられた犯罪人も、最初は、イエスを罵っていましたが、主イエスが十字架の上で、自分をはりつけにした人々のために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか分からないでいるのです。」という祈りを聞いて、心が変わりました。そして、死ぬ間際に、彼は主イエスを信じる信仰告白をして、主イエスと共にパラダイスに行きました。私たちが、もし、誰かから批判されたり、攻撃されたりしたなら、なぜ、その人は自分を批判するのか、攻撃するのか考えながら、その人の心が変えられて主イエスを救い主と信じるように祈ることが大切です。パウロはローマ書12章21節でこう言いました。「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

 主は、21節で、「世の人々がクリスチャンを迫害するのは、彼らが主イエスを知らないからだ。」と言われました。知らないでクリスチャンを憎むのであれば、世の人々には責任がないのかというと、そうではありません。主イエスは、22節で、「もしわたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、かれらの罪について弁解の余地はありません。」とはっきりと、彼らに責任があることを断言しておられます。その理由は、主が人々に自分が誰であるのかをすでに話しておられるからです。主イエスは、これまでに、繰り返して、自分が多くの人の罪を赦すために自分のいのちを捨てることを人々に教えておられました。また、24節で主はこう言われています。「もしわたしが、ほかの誰も行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはその業を見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」ある時、主イエスが悪霊につかれた人に働いて、悪霊を追い出しました。人にはできないことを主イエスが行われたのですが、それを見たユダヤ教の指導者たちは、イエスの働きを神の力によるものと見なさずに、悪霊の力を使って悪霊を追い出したと主張しました。彼らは、イエスが神であることを完全に否定しました。彼らはその姿勢に対して罪の責任を負わなければなりません。当時の人々は、直接、イエスの教えを聞き、イエスの奇跡のわざを見たにも関わらず主イエスを救い主とは信じませんでした。そのため、その責任を問われているのです。
 それでは、今の私たちの時代の人々はどうでしょうか。今の時代の人々も、主イエスを救い主と信じないのであれば、その責任は問われます。毎年、聖書は世界のベストセラーと言われるほどに売られています。またギデオン協会などが配布もしています。聖書を読みたくないという人はいても、読みたくても読めない人はいないはずです。聖書を読めば、主イエスがどういうお方であり、どういうことを行ったのかが分かります。その意味で、今の時代の人々も弁解の余地はありません。
ただ、同時に、クリスチャンにも責任があります。それは、クリスチャンには、主イエスのことを周囲の人々に証しする、主イエスについて語る責任が与えられているからです。かつて、旧約聖書の時代に、神様が預言者エゼキエルに警告した言葉があります。ちょっと長いですが17節から19節を読みましょう。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」私たちクリスチャンは、どんな時代であっても、人々が聞く耳を持っていようといまいとに関わらず、主イエスのことを人々に伝える責任があります。主イエスが、私たちを選び、私たちを任命されたのは、この働きのためです。難しいことを語る必要はありません。ただ、主イエスが私たちを永遠の滅びから救う救い主であることを、自分の近くにいる人々に伝えて行きましょう。

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