2021年9月19日 『苦しむ時の強き助け』(ヨハネの福音書16章1-7節) | 説教      

2021年9月19日 『苦しむ時の強き助け』(ヨハネの福音書16章1-7節)

前回、主イエスは、ヨハネの福音書15章の終わりのところで弟子たちに「この世はあなたがたを憎みます」と、彼らに警告の言葉を語られましたが、16章に入っても、主の警告の言葉が続きます。実際、世界の歴史を振り返ると、キリスト教会は、その始まりから絶えずこの世からの迫害や批判を受けて来ました。英語で殉教者、つまり信仰のために殺された人のことを「Martyr」と言うのですが、実は、この言葉はギリシャ語の「証し人」を意味する言葉から造られたものです。これは、主イエスの時代から、自分の信仰について証ししたクリスチャンの多くが殺されたことを示しています。主イエスの12弟子たちの死についてはいろいろな伝説が残っているのですが、ペテロと兄弟のアンデレ、アルパヨの子ヤコブは十字架にはりつけにされました。ヨハネの兄弟のヤコブは首をはねられ、トマスは槍で刺殺された後アレキサンドリアの街中を引きずりまわされたと言われています。その後も、キリスト教会やクリスチャンに対する迫害は今日に至るまで、様々な地域で様々な形で行われてきました。アメリカの新聞ニューヨークタイムズが1997年2月11日に掲載した記事によると、20世紀の100年間に殺されたクリスチャンの数は、それ以前の1900年間に殺された人数を上回ったとのことです。21世紀に入って、この傾向は特にイスラム教の国々で顕著になっていて、教会に時々来るマレーシア人のティモシーの話によると、マレーシアではイスラム教徒がクリスチャンになると投獄されるそうです。ドイツのニュースチャンネルの調査によると、ここ数年で約6万人のイスラムの若者がドイツに難民として入って来ているのですが、地元のモスクがこれらの若者を教育して、イスラムでない人や国に対するジハード(聖戦)に加わる様に洗脳しているとのことです。2年前にパリで起こった爆発事件もそのような働きの結果であると述べています。ただ、このような状況の中でも、悲しいことばかりではありません。イスラム教徒でクリスチャンに改宗している人々も大勢いるのです。イスラム圏では、信仰を持つと家族から絶縁されたり、仕事を失ったり、投獄されたりします。トルコにはクリスチャンに改宗した大勢のイラン人が避難してきているそうです。私たちを取り囲む状況も、いつどのように変わるか分かりませんから、私たちも、主イエスの言葉を注意して聞きたいと思います。

(1)この世との闘い(1-4節)
 1節を読みましょう「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたつまずくことがないためです。」ここで、「これらのこと」と言われているのは、先週取り上げたヨハネの福音書15章18節から25章で主が言われた弟子たちへの言葉のことです。つまり、彼らはこの世では憎まれるということです。主がこれらの話をしたのは、弟子たちがつまずかないためでした。これは弟子たちがきちんと聞かなければならない警告の言葉でしたが、実際には、弟子たちはみな、この後、つまずいてしまいます。主イエスと弟子たちがゲッセマネの園での祈り時を終えたあと、ユダが連れて来たユダヤ教指導者やローマの兵士によって主イエスは捕らえられます。その時、弟子たちは、心の中では、主イエスのために死ぬ覚悟ができていると思っていたのですが、その時の恐怖心とプレッシャーに襲われて、皆、逃げてしまいました。ただ、これは12弟子だけの問題ではありません。私たちも、彼らと同じ弱さを持っていることを忘れてはなりません。使徒パウロもコリントのクリスチャンに対して「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」と言っています。私たちも、自分は大丈夫と思ってはなりません。
 主は、続いて2節でこう言われました。「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。」ここで、主は弟子たちに「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。」と言われました。会堂から追放するとは、ユダヤ人が会堂に入ることができないことを意味しますが、これは、ユダヤ人にとっては、単に会堂に入ることが許されないというだけではすまない、非常に大きな問題です。例えば、キリスト教の国と言われるアメリカでも、何かの理由で自分の教会から追放されて、教会に行くことができなくなったとしても、他にも教会はたくさんありますから、特に大きな問題にはなりません。しかし、ユダヤ人にとって会堂から追放されることは、イスラエルの民に与えられた霊的な祝福のすべてを失うことを意味します。礼拝に出席できませんし、罪の赦しを願うための供え物を捧げることも許されません。また、当時は、聖書は会堂にしかありませんから、聖書を読むこともできません。人がユダヤ教の会堂から追放されると、社会生活にも非常に大きな影響を与えることになります。会堂を追放された人は、ユダヤ人の間では、異教徒よりも価値のない人間と見なされ、友だちは去って行くでしょうし、仕事も失うでしょう。近所からは村八分にされ、まともな葬式や埋葬さえしてもらえなくなります。従って、この主イエスの言葉は、弟子たちには、非常に大きな恐怖心を与えた事と思います。また、会堂から追放されることのもう一つの重大性は、その迫害が、異教徒から来るもの、彼らにとって外側から来る迫害ではなく、同じ神を信じる宗教の指導者たちから来ていることにあります。もちろん、異教徒から来る迫害、例えばローマ帝国による迫害も非常に厳しいものがありましたが、それは神を知らない人間たちが行うこととしてある程度理解ができます。しかし、クリスチャンを会堂から追放するのは旧約聖書の神を信じる人々です。主イエスはその神から遣わされた方です。にも関わらず、彼らは自分たちが正しい宗教であり、主イエスの教えが偽りだと主張するのです。ユダヤ教の指導者たちが何度も彼らの主張を続けていると、弟子たちは、自分たちのほうがアブラハムの時代から続いて来た伝統を壊しているのか、自分たちのほうが間違っているのかと迷いが出てきてしまうのです。これも弟子たちにとって大変大きな問題でした。宗教改革を行い、プロテスタント教会を始めたマルチン・ルターも、もともとはカトリックの司祭でした。彼は、当時のカトリック教会が行っていることがどう見ても聖書の教えに反していると確信して、カトリック教会に意義を唱えて、つまりプロテストをして、宗教改革を行いましたが、ルターもカトリック教会から破門されました。これは当時のカトリック教徒にとって本当に辛いことでした。ルターは、カトリック教会から異端者扱いを受けて、心が折れそうになることがたびたびあったようです。そのような時に、彼が頼りにしたのは、聖書の言葉でした。人間が何を言うかではなく、聖書が何と言っているか、それだけを頼りにしました。私たちも、つねに、人が何を言うかではなく、聖書が何と言っているのかということに頼ることが大切です。
 さらにやっかいなことがありました。2節の後半で主はこう言われました。「実際、あなたがたを殺す者がみな、 自分は神に奉仕していると思う時が来ます。」つまり、キリストに敵対する人々が、クリスチャンを殺すことで、自分は神に仕えていると思い込んでいる、そんな時が来るというのです。使徒パウロも、クリスチャンになる前は、熱狂的なユダヤ教徒であり、クリスチャンを迫害することが神に仕えることだと信じていました。今日でも、過激なイスラム教徒の中に、クリスチャンを迫害したり殺すことがアラーの神に仕えることになると思い込んでいる人々がいます。彼らも神を信じる者たちです。にもかかわらず、彼らはなぜ異教徒に対して残酷なことができるのでしょうか。それは、彼らが父なる神も御子イエスも知らず、間違った神を信じているからだと、主は3節で言っておられます。
 4節では、主は、弟子たちにこのような話をしたもう一つの理由を語っておられます。4節を読みましょう。「これらのことをあなたがたに話したのは、その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」主は、弟子たちに、迫害は必ず来るので、その時が来たら、今語った言葉を弟子たちに思い出してほしいと思われたのです。実際に、弟子たちは、イエスが預言した迫害を経験しました。弟子の一人ペテロは、迫害を経験していたクリスチャンに手紙を書いていますが、主イエスが言ったのと同じような言葉を語っています。それは第1ペテロの4章12節の言葉です。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがの間で、燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」私たちも、これは当時のクリスチャンだけのことではなく、私たちも、将来、この世の中の状況がどうなるか不透明ですから、この言葉を自分への言葉として受け取る必要があります。

(2)主イエスの慰めの言葉(4-7節)
 4節の後半で、主イエスはこう言われました。「わたしは、初めからこれのことを話すことをしませんでした。それは、あなたがたとともにいたからです。」主イエスが、12人の弟子たちと共に地上で福音宣教の働きをしておられた時、ここで述べられたような試練についての警告の言葉を弟子たちに言う必要がありませんでした。それは、主イエスが弟子たちとともにおられましたし、反対や攻撃が起こった時も、主イエスがそれを一人で受け止めておられたからです。弟子たちは、主イエスに守られていたのです。主イエスによって守られていた弟子たちは、この世の攻撃をまともに受けてはいなかったのです。しかし、最後の晩餐の木曜日の夜が更けて、いよいよ明日には主イエスは十字架にはりつけにされます。これからは、弟子たちを守る主イエスが地上にはおられなくなるので、弟子たちは、自分たちが攻撃の矢面に立たなければならなくなります。そのことを主イエスはとても心配しておられました。というのは、弟子たちは、まだ、このような攻撃に耐えられるだけの霊的な力がなかったからです。5節で、主はこう言われました。「しかし、今わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。けれども、あなたがたのうちだれも、『どこに行くのですか』と尋ねません。ここで、主は弟子たちに、もう一度はっきりと、ご自分が弟子たちを地上に残して天の父なる神様のもとへ行くことを伝えられました。主イエスがここで「しかし、あなたがたのだれも「どこに行くのですか」と尋ねませんと言われましたが、実際には、ペテロやトマスは「主よ、どこに行かれるのか私たちにはわかりません。」とイエスに尋ねています。ここで、主イエスが言いたかったことは何かと言うと、彼らの質問は、イエスのことを心配して尋ねたものではなく、残された自分はどうなるのかと、自分のことを心配して尋ねた質問であったことです。ペテロもトマスも、これから主イエスがどのような事を行おうとしておられるのか、そのことについては考えていませんでした。ただ、自分たちの将来がどうなるのか分からず不安に陥り、主が自分たちを残して一人ででどこかに行こうとしておられることに反発していたので、そのような質問をしたのです。もし、弟子たちが主イエスの十字架の意味を理解し、主が地上での働きをすべて完了させようとしておられることを正しく理解していたら、主が父なる神のもとへ戻ることを大いに喜ぶはずなのですが、実際には6節で主が言われているように、弟子たちの心は悲しみでいっぱいになっていました。この時に至っても、弟子たちは主イエスの事を考えるのではなく、自分たちのことを考えていました。
 そこで、主イエスは彼らの悲しむ心を慰めるために言われました。「わたしが去って行くことはあなたがたの益になるのです。」なぜ、主イエスが弟子たちから去って行くことが、弟子たちにとって益になるのでしょうか。もし、主イエスがずっと地上におられたならば、弟子たちは、問題に直面するたびに、主イエスのところに助けを求めに行かなければなりません。主がともにおられるのは良い事なのですが、もし主が自分の近くにおられないなら助けを受けるために、主がおられる場所まで行かなければなりません。言い方を変えると、主イエスは、いつでもどこでも、弟子たちを助けることはできないのです。それは、私たちと完全に同じ姿を取られた主イエスは、私たちと同じように、時間的にも空間的にも制限を受けておられたからです。しかし、主イエスが父なる神のもとへ行かれたならば、主イエスは「わたしは助け主を遣わします。」と、私たちを助ける聖霊を与えてくださることを約束されました。聖霊は、信じる一人一人と共にいて、私たちが助けを求めれば、それに答えてくださいますし、私たちの心に不思議な平安を与え、私たちを慰めてくださるのです。私たちは、いつも、自分のうちに聖霊なる神様がともにおられることを意識しなければなりません。夜遅くに暗い道を歩いている時も、電車に乗っている時も、自宅で台所に立っているときも、いつでも、私たちは一人ではありません。主イエスが送ってくださった聖霊なる神様が共におられるのです。私たちは、ちょっとしたことで心を騒がせる時があります。そんな時、目をつぶってもつぶらなくても構わないので、自分の心をちょっと神様に向けてください。そして小さな声でささやいてみてください。「神様、助けてください。」「神様、どの道に行くのが良いでしょうか。」「神様教えてください。」何でも良いのです。御子イエスは、今、父なる神様のそばにいて、私たちのことを見守り、私たちのために祈っておられます。三位一体の神様が一つになって、私たちを、一人のクリスチャンを支えようと働いてくださっているのです。私たちも、今後、試練や迫害を経験するかも知れません。しかし、主イエスが助け主を送って私たちを守ってくださることを約束されたことを覚えておきましょう。主の助け主が私たちとともにおられる、これ以上に素晴らしい約束はありません。あなたにも主イエスは助け主を送られました。私たちは、主のもとに召される日まで、助け主とともに歩めることを感謝したいと思います。

 アルプスのある断崖絶壁に小さな大理石の十字架が建てられていて、その十字架に「Jesus Only」(イエス様だけ)という言葉が書かれています。この十字架はある夫婦が建てたものなのですが、彼らの一人娘がこの場所で山登りをしていた時に、崖から谷底に転落して命を落としました。夫婦は大きな悲しみに打ちひしがれました。二人は、悲しみを紛らわせるためにあちこち旅行に出かけましたが、それも彼らの悲しみを癒すことはできませんでした。二人は、最終的に、主イエスを救い主と信じることによって慰めと平安を得ることができました。そこで、二人は、自分たちの娘が命を落とした場所に十字架を建てて「イエス様だけ」という言葉を刻んだのです。私たちの不安や恐れを消すことができるのは主イエスだけです。主が私たちに送ってくださる助け主が、私たちを慰め、私たちの心を癒してくれるからです。

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