2021年9月26日 『真理に導く御霊』(ヨハネの福音書16章7節ー16節) | 説教      

2021年9月26日 『真理に導く御霊』(ヨハネの福音書16章7節ー16節)

多くの人が信仰生活とは、自分の努力や自分の熱心さで行うものと考えています。しかし、もし、私たちが自分の努力や熱意で信仰生活を行っていると、困難や試練を経験した時に、自分の力が無力であることが分かります。信仰生活は自分の力で行うことではありません。信仰の力は神様から来るのです。イザヤ書の中で神様は神を信じる民について次のように語っておられます。「だが、イスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ。あなたは、わたしの友アブラハムの末裔だ。」(41章8節)旧約聖書の時代のイスラエルの民は、文字どおりイスラエル民族のことですが、新約聖書の時代では、イスラエルとは、主イエス・キリストを救い主と信じる民、つまり、クリスチャンのことを指しています。クリスチャンとは、ここで言われているように、神様によって選ばれた者です。そして、神の友と呼ばれたアブラハムの子孫だと言われています。私たちが主イエスを信じ、神様を愛し、神様を恐れ敬うなら私たちはアブラハムの子孫です。そして、さらに神様はこう言われています。「わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言う者だからである。」神様の右の手が私たちの右の手を堅く握ってくださり、「恐れるな、わたしがあなたを助ける」と言われるのです。私たちは、困難な出来事や試練に直面するときに、自分の無力を知ります。自分の信仰の力不足を感じます。しかし、無力なのは私たち自身であって、神様は無力ではありません。私たちは自分の力に頼ろうとすると失望します。しかし、私たちが信じる神様は全知全能の神であり、いつでも私たちを助けようと手を伸ばしてくださいます。今の時代、特に聖霊の神様が私たちのために働いてくださいます。今日の個所のヨハネの福音書16章7節を読みましょう。イエスはこのように言われました。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」この助け主こそ、聖霊です。主イエスを信じるすべての者には聖霊が与えられています。私たちは自分だけで信仰生活を送るのではありません。聖霊なる神様とともに信仰生活を歩んでいることを忘れてはなりません。今日は、主イエスが私たちに遣わすと約束してくださった助け主、すなわち聖霊がどのような働きをするのかについて考えたいと思います。

(1)この世の人々の誤りを明らかにする
 主イエスが「助け主」と呼ばれた聖霊は、クリスチャンにだけ働くのではありません。この世の人々に対しても働きます。8節で、主イエスは、聖霊が世の誤りを明らかにすると言われましたが、新改訳で「世の誤りを明らかにする」と訳されている言葉は、人々に自分が神の前に罪人であることを確信させて主イエスを信じる信仰へと導くという意味を持っています。そのために、聖霊は、神を信じていない世の人々に3つのことについて彼らの間違いを明らかにされます。それは、罪について、義について、そしてさばきについての3つです。第一に罪についてですが、世の人々はこの言葉が嫌いです。そして、誰も自分が罪人だとは思っていません。普通、人が「罪」という言葉を聞いて考えるのは、「盗みをする」とか「人殺し」とか「人を騙すとか」そのような具体的な罪の行いを考えます。もちろん、それらも罪であり、悔い改めて償いをしなければならないものです。こういう行いはたくさんあるので、英語ギリシャ語ではsinsと複数形で表します。具体的な様々な罪の行いを表します。しかし、ここでは単数形の言葉が使われています。これは様々な罪の行いを意味するのではなく、そのような行いをもたらす心の中の根本的な性質を指しています。主は9節で「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」と言われました。具体的な罪の行いは人によって様々です。たくさんの罪を犯す人もいれば、ほとんど犯さない人もいます。しかし、根本的な罪の性質はすべての人が持っています。それは、神様を信じない、信じたくないという心です。すべての人が罪人であるというのは、すべての人が罪の行いを行うということではなく、すべての人の根本には「神を信じない」という心があり、それが様々な罪の具体的な形になって現れるということです。この罪の性質はウィルスのようなものです。体の中にウィルスが入ると、体は様々な反応を示します。熱がでる。咳が出る。頭が痛くなる。においがしなくなる。これらはウィルスが体に引き起こす現象です。私たちはその現象をなくそうとします。熱が下がるように、咳が出なくなるように、頭痛がなくなるように、注射を打ったり薬を飲んだりします。すると、症状は一時的に治まりますが、病気が消えた訳ではありません。ウィルスが死なない限り、また、しばらくすると同じような症状が現れます。私たちに永遠の滅びをもたらすのは、この「神を信じない」という罪の性質なのです。その性質があるから、様々な症状が私たちの言葉や行動に現れるのです。人々は「神を信じない」と心を堅くしていますが、聖霊が働くとそのような人の心も新しく変えられます。ベンハーという小説の原作者はリュー・ウォーレスという人ですが、アリゾナ州知事でキリスト教反対論者でした。ある日、彼は同じキリスト教反対論者の友人と一緒に汽車に乗って故郷に帰っていました。その友人は窓から見える教会堂を見て、「いまだにばかばかしい聖書の教えを信じている者が大勢いる。君は教養もあるし勉強家だ。どうだ、資料を集めてイエスが架空の人物であったことを証明する本を書かないか?」と彼に勧めました。この言葉に刺激されて、彼はたくさんの資料を集めて本を書き始めました。しかし、4章まで書き終えた時に、彼はイエスがソクラテスやジュリアス・シーザーと同じように歴史に実在した人物であることを否定できなくなりました。その時にも彼の心に聖霊が働いていました。彼は、「イエスが実在した人物なら、イエスが言うように神の子なのではないか。」と考えるようになり、ある晩、初めて神に祈り、自分の不信仰の罪の赦しを求めて、クリスチャンになりました。彼が莫大な費用をかけて集めた資料をどうしようかということになり、クリスチャンであった妻が「これからは、イエスが間違いなく神の子であり、救い主であることを証明する本を書いたらどう?」と勧めた結果、ベンハーという小説が生まれました。どんなに頑なな心にも聖霊が働く時には、その心は変えられるのです。
 また聖霊は義についても人間の誤りを明らかにします。10節でイエスはこう言われました。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」と言われました。ここで「義」と言われているのは、もちろん、主イエス・キリストの義です。聖霊は、私たちに自分が罪人であることを明らかにされるのですが、同時に、主イエスが聖なる神の子であることも私たちに明らかに示されるのです。当時の多くのユダヤ人、特にユダヤ教の指導者たちは、主イエスが呪われた犯罪人だと思い込んで、「イエスを十字架につけろ」と叫んでいました。しかし、ここで主が言われているように、十字架の後、主イエスが三日目に死から復活し、それから40日後に天の父なる神のもとへ帰られるので、主は彼らの前から姿を消します。聖霊が主イエスに反対している人の心に働くと、これまで犯罪人と思っていたイエスが、実際には神の子であり、正しい方であり、十字架と復活の後、天に帰られたことによって、確かに神の御子であることを確信できるようになるのです。三番目に、聖霊はさばきについて世の誤りを明らかにします。これはどういう意味でしょうか。主は11節でこう言われました。「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」この世の人々は、神のさばきについても間違った考えを持っています。彼らは神の裁きはないと考えています。確かに、私たちの世の中では、悪を行っている人がすべて、公正に裁かれているとは言えません。悪を行っていても裁きを免れる人もいます。しかし、神様は必ず正しくこの世を裁かれます。ここで「この世を支配する者」と言われているのは神に敵対する悪魔です。悪魔は、キリストが十字架にかけられた時に、自分は勝利したと思ったことでしょう。しかし、主イエスは三日目に死から復活されました。悪魔にとってイエスを攻撃する最後の武器であった十字架の死を、主イエスは復活することによって勝利に変えられたのです。ここで「悪魔は裁かれたからです。」と言われています。悪魔は、すでに主イエスに敗北し、神のさばきを受けました。それはもう終わったことなのです。ただ、悪魔に対する永遠の滅びという刑罰の宣言はなされたのですが、まだ、刑の執行が行われていません。悪魔に永遠の滅びの刑が執行されるのは世の終わりの時です。その時まで、悪魔は、いわば、最後の悪あがきをして人々を支配しようとしています。しかし、悪魔は最終的に永遠の滅びに落とされます。その時、悪魔に支配された人々も同時に裁かれるのです。神様の前に、私たちには2つの道しかありません。罪を悔い改めて救いに入れられるか、信じることを拒否するかのどちらかです。あなたはどちらの道を選ぶでしょうか。

(2)真理を明らかにする聖霊
 主は弟子たちに聖霊のもう一つの働きについて語っておられます。12節で、主はこう言われました。「あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。」主イエスはすでに3年以上にわたって弟子たちに神についてご自分について多くのことを教えてこられましたが、まだまだ、弟子たちに伝えるべきことが多くありました。しかし、主イエスは、もうこれ以上教えることはしないと言われました。その理由は弟子たちがそれに耐えられなかったからです。彼らがイエスの教えに耐えられなかったのは、一つには、イエスがいなくなることに対して彼らが大きな悲しみを感じていからです。もう一つは、この時の弟子たちにはイエスの教えを理解する力がありませんでした。特に、彼らは、主イエスの十字架と復活、そしてその後イエスが天に帰られるという劇的な出来事が続く中で、その意味を理解する力がありませんでした。弟子たちも一般のユダヤ人と同じように、自分たちをローマ帝国の支配から救い出す政治的なメシアを期待していたので、メシアが十字架で死ぬことが理解できなかったのです。しかし、そんな弟子たちに主は素晴らしい約束を与えられました。13節を読みましょう。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」今は、主イエスは弟子たちにこれ以上教えることをしないと決心されたのですが、聖霊が来られる時に弟子たちをすべての真理に導いてくださるという約束を弟子たちに与えられました。すべての真理とは、主イエスに関するすべての真理であり、罪からの救いに関するすべての真理です。今の時点では、弟子たちは、主イエスの十字架と復活に関すること、罪からの救いに関することを十分に理解していませんが、聖霊が来るときには、すべてのことをはっきり理解できるようになることが約束されています。実際に、聖霊が初めて弟子たちに下ったペンテコステの日に、ペテロが集まっていた人々の前で大説教を行いましたが、そのメッセージは罪と主イエスの十字架と復活に関する素晴らしい説教でした。ペテロも、この時に初めて福音の意味のすべてを理解することができたのです。
 さらには13節の終わりのところで、聖霊はこれから起きることを弟子たちに伝えると主イエスは言われました。これから起きることとは何でしょうか。一つは、まさにこの後に起きる主イエスの十字架と復活の出来事で、それに加えて、主イエスが再びこの世に来られる世の終わりの時の出来事です。言い換えれば、聖霊は、弟子たちに、主イエスの十字架から始まってその後に繰り広げられる世の終わりまでの歴史をはっきりと教えてくださるのです。そして、それを理解した弟子たちは、様々な迫害や困難を経験することになっても、それに打ち勝つ力と、将来に対する希望をしっかり持つようになるのです。弟子たちは、聖霊が与えられるまでは、イエスの教えを十分に理解せず、いろいろな弱さを持っていましたから、イエスが逮捕された時には、誰もが、イエスを見捨てて逃げて行きました。また主イエスが復活した日も、弟子たちは、主の復活を信じることができず、他のユダヤ人を恐れて隠れて集まっていました。しかし、彼らに聖霊が下った時に、彼らは変わりました。新しい力を得ました。そして、彼らは皆、地の果てにまで出て行って主イエスのことを人々に知らせる証し人としての生涯を貫きました。14節で主イエスは「御霊は私の栄光を現わされます。」と言われましたが、聖霊が私たちに主イエスの十字架や復活の意味、そして世の終わりのことについて明らかに教えてくださる目的は何かと言うと、神の御子イエス・キリストの栄光を表すことです。聖霊の働きがイエスの栄光を表すことであったとすれば、私たちクリスチャンが生きる目的もキリストの栄光を表すことであるはずです。私たちは、聖霊に教えられながら、神様の栄光を表す生き方をすることが、私に与えられた使命なのです。

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