2021年10月3日 『逃げるヨナ、逃さない神』(ヨナ1章) | 説教      

2021年10月3日 『逃げるヨナ、逃さない神』(ヨナ1章)

 今日から4回にわたって、旧約聖書にある12の小預言書の一つヨナ書を取り上げます。旧約聖書には、預言書と呼ばれるものがありますが、2つに分けられています。大預言書が4つ小預言書が12あります。大と小の違いは、内容の違いではなく単に長さの違いです。神様がそれぞれの預言者に大切なメッセージを与えて、そのメッセージがまとめられたのが預言書です。今回取り上げたヨナ書は預言書の中でもユニークなストーリーで有名ですが、この書にも大切な神様からのメッセージが含まれています。ヨナは紀元前8世紀に活躍した預言者ですが、当時のイスラエルは、北イスラエル王国、南ユダ王国という二つの国に分かれていました。ヨナは北イスラエルで活動していました。ヨナの時代、北イスラエルはヤロブアム2世という王様が支配していました。この王様は、政治的には力があったようで41年もの間、北イスラエルの王様として君臨しましたが、信仰的には、これまでの王様と同じで偶像礼拝を行い、聖書の神の命令に従わない、悪い王様でした。ヨナは、そのような信仰的には暗黒時代に陥っていた北イスラエルで活動していました。
 ヨナ書は、原語のヘブル語では「そして」という言葉で始まっています。実は、旧約聖書は全部で39の書物でできていますが、そのうちの14の書物が「そして」という言葉で始まっています。それは、何を意味するのでしょうか。旧約聖書には、イスラエルの民の歴史や、「律法」と呼ばれる神様の命令、そして、預言書や詩篇など、さまざまな書物が含まれていて、内容もバラエティーに富んでいますが、実は、旧約聖書は、一つの大きなストーリーがいろいろな書物を貫いて流れていることを示しています。特に、旧約聖書は、神様の私たちに対する愛と恵みについてのストリーであることを、この「そして」という小さな言葉が表しています。ヨナ書のテーマは何でしょうか。ヨナ書では、預言者ヨナが大きな魚に飲まれたという出来事が目立ちますが、実は、ヨナ書の中で大きな魚については4回語られているだけです。それに引き換え、神様という言葉は短い4つの章の中で38回も述べられているのです。実は、ヨナ書というのは、私たちに対する神様の恵みと愛をテーマとした書物なのです。

(1)ヨナの反逆
 預言者ヨナの活動は、第二列王記14章25節に記されているのですが、先ほど述べた同時のヤロブアム2世の時に、この王様の政治手腕が優れていたのでイスラエル王国の領土がソロモン王の時代のころのレベルにまで回復して広がっていました。実はそのことをこの預言者ヨナが預言していたので、恐らく、ヨナは北イスラエルでは、預言者として人気があったと思われます。そのようにヤロブアム2世の時代には、北イスラエルは平和と安定を保っていたのですが、実は、これは嵐の前の静けさであって、ヤロブアム2世が死んだ後、北イスラエルではいろいろな陰謀が働き、王様が次々に代わり、結局30年もたたないうちに、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされてしまうのです。そんな状況の中で、預言者ヨナに神様から、一つの命令が与えられました。2節を読みましょう。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからだ。」ニネベは当時、急速に勢力を伸ばしていたアッシリア帝国の都で、現在のイラク北部にありましたが、現在は完全に廃墟となっています。ヨナ書にはニネベがどのような町であったのか記されていませんが、別の小預言書、ナホム書には、ニネベがどれほど邪悪な街であったのか詳しく記されています。ナホム書3章1節、3節には、当時のニネベについて次のように記されています。「わざわいだ。流血の町、すべては偽りで略奪に満ち、強奪はやまない。」「突進する騎兵、剣にきらめき、槍のきらめき。おびただしい戦死者。山なす屍。数えきれない死体。死体に人はつまずく。」ここだけを読んでも、当時のアッシリア、その都ニネベがどれほど悪に満ちていたのかが分かります。ヨナの時代、弱小国の北イスラエルは、大国アッシリアからの攻撃の危険性にさらされていました。北イスラエルの人々にとっては、ニネベは、憎しみしか感じられない敵の存在でした。ヨナ自身も、子どものころからアッシリアはイスラエルの敵だと教えられて育っていたでしょうし、実際に、アッシリアが戦争でどれほど残忍なことをしていたのかを知っていたはずです。それにもかかわらず、神様はヨナに「ニネベに行って叫べ」と命じられたのです。「叫べ」とは、ニネベに住む人々に、「自分たちが行っている罪を悔い改めて、真実の神を信じるように叫べ」という意味です。ヨナは預言者ですから、神様からの命令には絶対に従わなければならないことは分かっていたのですが、どうしても、ニネベに行くことができませんでした。ヨナにとって、神様の命令に従うことは不可能だと感じました。ヨナが一番恐れたことは何だったでしょうか。当時のニネベの町は世界一大きな都市でした。3章を見ると、ニネベを歩き回るのには3日かかると書かれていますし、4章には当時のニネベの人口が12万人だったことが分かります。今から3000年近く前の時代に、こんな大都市が造られていたのです。そこに、弱小国北イスラエルの一人の人間が出かけて行って、人々に悔い改めのメッセージを語るのです。それだけ考えただけでも、ニネベに行くことは恐ろしいことですが、ヨナがニネベに行きたくなかったのは、怖かったからではありませんでした。神様が「ニネベに行って悔い改めのメッセージを叫べ」と命令するということは、神様が、ニネベの街の人々に悔い改めのチャンスを与えようとしていることが分かります。となると、もし万が一ニネベの人がヨナのメッセージを聞いて自分たちの罪を悔い改めたら、神様は、彼らの罪を赦して、彼らを滅びから救い出すでしょう。ヨナは、それが許せなかったのです。ヨナは、彼らが悔い改めることよりも、彼らが滅びることを願っていました。ヨナの心は小さかったのです。神様の愛は、どんな人にも注がれています。私たちにとって許せないと思うような人にも神様の愛は注がれています。主イエスが十字架にはりつけにされて最初に語った言葉は、自分をはりつけにした人々のために、「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」と自分をはりつけにした人々の罪の赦しを願う祈りの言葉でした。ただ、ヨナは神様がニネベの人々を愛することが許せませんでした。
 ヨナは、自分が預言者であることを忘れて、神のメッセージをニネベの人々に伝えることを避けるために、ニネベとはまったく反対の方向に向かいました。3節にはこう書かれています。「しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。」彼は、預言者ですから、自分が神の命令に従って預言者の務めを果たさなければならないことは分かっていました。また、ダビデが詩篇の139篇で書いているように、自分が神から離れてどこかに逃げるなんてできないことも分かっていたはずです。ダビデは139篇で、天に上っても、よみに下ってもそこに神がおられ、暁の翼を駆って海の果てにいってもそこにも神がおられると言いました。それにもかかわらず、彼は、無意識のうちに、ニネベとは反対の西に向かって行きました。タルシシュという場所は、現在にスペイン南部にあった街と考えられています。旧約聖書の時代には、タルシシュは地中海の西の端と考えられていました。ヨナは、タルシシュ行きの船に乗るために、ヨッパという港町へ行きました。すると、ちょうどその時、その港にタルシシュ行きの船が出発しようとしていました。そのタイミングの良さを見て、ヨナは、ニネベとは反対方向に進んでいることは正しいことだと考えたかも知れません。3節には、繰り返して、ヨナは神の御顔を避けてタルシシュ行きの船に乗ったと書かれています。船に乗り込んだヨナは、船底に下りて行きました。そして、船が出発すると同時に、船底でぐっすりと眠り込んでしまいました。ヨナの逃亡劇は成功したかに見えました。

(2)ヨナを逃がさない神
神様がイスラエル民族の最初の人間としてアブラハムを選ばれた時に、その目的は、イスラエル民族を通して全世界の人々に神様の祝福が届けられるためでした。ところが、イスラエルの民は自分たちの立場を勘違いして、自分たちは神に選ばれた特別な民であることを自慢して、全世界の人々に神様の祝福を届けようとせず、むしろ、外国の人々を軽蔑していました。ヨナは、預言者として、神様の祝福をもたらす者出なければならなかったのですが、彼が神様に反抗したことによって、ヨナは世界の人々に祝福を届けるどころか、自分の行動によって、周囲の人々をトラブルに巻き込む者になってしまいました。ヨナが乗った船がタルシシュに向かって出発すると、神様が大風を海に吹き付けられたので、激しい風のために、その船は沈みそうになりました。相当に激しい嵐だったようで、嵐には慣れているはずの水夫たちは恐れて、それぞれの人間が信じている神に向かって祈りを捧げながら、船が沈むのを防ぐために、船の積み荷を次々に海に投げ込み始めました。一方、預言者ヨナは、こういう時こそ、船が沈まないために、神様に向かって祈りを捧げなければならない人間だったですが、彼は、何もしらずにぐっすりと眠り込んでいました。ヨナは神様に反抗したことによって霊的な祝福の多くを失いました。第一に、ヨナへの神の言葉がとまりました。もはや、ヨナに神のメッセージはあたえられませんでした。ただ、神様が海や風や雨や、大きな魚を用いて、神の御心をヨナに知らせるだけでした。ヨナは霊的なエネルギーも失っていました。彼がタルシシュ行きの船に乗ると、彼は神への反抗によって多くのエネルギーを使っていたので、疲れ果てていたため、すぐに船の一番下の大きな部屋に行ってぐっすりと眠ってしまいました。預言者としての務めをも忘れてしまいました。彼は祈る力も心も失っていました。タルシシュ行きの船にはいろいろな国籍の人間が乗っていましたので、彼らは、嵐が襲ってきた時に、恐れのあまり、それぞれが自分の国の神に向かって、助けを求めて祈り始めました。同じ船の中では、聖書の神、全知全能の神を知らない人々が、それぞれ自分が信じている神様に、助けを求めて祈っていました。そして、預言者の務めとして、神様の御心を人々に伝える使命感もヨナは失っていました。人は、神様から離れてしまうと、神様からの特権も祝福も使命感もすべてを失ってしまうのです。
 人々は、嵐があまりにも異常な強さだったので、この嵐にはなにか訳があると思い始めました。7節を読みましょう。「人々は互いに言った。『さあ、だれのせいでこのわざわいが私たちに降りかかったのか、くじによって知ろう。』彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。」船に乗っていた人々は、ヨナにいろいろな質問をぶつけました。するとヨナはつぎのように答えました。9節を読みましょう。「ヨナは彼らに言った。『私はへブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です。』」さらに、ヨナは、自分が主の御顔を避けて逃げようとしていることを人々に告白しました。ここでもヨナがしていることが「主の御顔を避けて」と書かれています。アダムとエバも最初の罪を犯した時に、神様の顔を避けようとして隠れました。人間の罪とは、神の顔を避けようとすることと言えます。ヨナは、自分が神の御心に逆らっていることを知っていましたので、人々から「海が静まるようにするにはどうすればよいか」とたずねられると、ヨナは「私を海に投げ込んで下さい。わたしのせいでこの激しい嵐が起こったのは確かですから。」と答えました。
 船に乗っていた人々はとても優しく、最後までヨナのいのちを助けようと必死て船を漕ぎましたが、嵐の中で船を陸に戻すことはできませんでした。それで、ヨナを海に投げ込むことを決心するのですが、彼らは、そのことで自分たちに神の怒りが来ないことを願って、聖書の神に向かって祈りました。14節に彼らの祈りが記されています。彼らは、「ヨナのいのちのことで自分たちが滅びることがないようにと、神様に向かって祈りました。彼らは、「主よ。あなたは望まれたとおりになさったのですから。」と祈りました。ヨナも、船に乗っていた人々も、神様は、自分の命令に従わずに反抗したヨナを滅ぼすことを望んでいると思っていました。ヨナも船に載っていた人々も神様の心を理解していなかったのです。彼らがヨナを海に投げ入れると、海が完全に凪になりました。この様子を見た人々は、いっそう神様を恐れました。それで、彼らは、ユダヤ人たちを真似して、神様に動物のいけにえを捧げて、神様に誓いを立てています。おそらく、このことは、船が陸地に着いた後に、彼らが行ったことだと思います。彼らは、神様の怒りが収まって、ヨナの犠牲によって自分たちのいのちが守られたと思っていました。しかし、神様の心は違っていました。神様が最初から行っておられたことは、自分が預言者として選んだヨナが、今は神様に反抗して、神様の命令に従おうとしていませんが、神様は、あらゆる手段を使ってヨナが預言者としての責任を果たすようにう働いておられたのです。ヨナの不従順は多くの人々をトラブルに巻き込むことになりました。そんなヨナを、神様が見捨てることも、あきらめることもありませんでした。神様はたった一人の預言者をずっと追い求め続けました。逃げるヨナを追いかけました。そして、ヨナを初めの場所に連れ戻すために、たった一人のヨナのために激しい嵐を起こされました。そして、17節に記されているように、たった一人のヨナのために、神様は大きな魚を備えて、海に投げ込まれたヨナを飲み込ませて、ヨナを助けました。神に逆らって神から離れて逃げようとするヨナを、神様はどこまでも追いかけて、彼が行わなければならない働きのためにヨナを連れ戻そうと働かれました。神様は、ヨナを愛し、また、ヨナが憎んでいたニネベの人々をも愛しておられました。そのことを、神様はヨナに知ってもらいたかったのです。ヨナをどこまでも愛された神様は、私たちをも、同じように愛しておられます。私たちが神に逆らって逃げ出そうとしても、ヨナを追いかけられた神様は私たちをも追いかけてくださるのです。
以前、教会に豊村君という青年がいました。彼は正月の祈りのキャンプに参加中に、心臓発作のような状態で突然天に召されました。彼は熱心に神様を追い求める信仰者でしたが、実は、彼は、一度神様から離れようとしたことがありました。彼は礼拝に来なくなりました。彼は、教会に来ていた時は、きちんとした身なりをしていましたが、だんだん彼の服装は乱れて行きました。ある時、彼は非常に不機嫌な様子で教会に来ました。彼の話によると、彼は仲間と一緒に大宮駅でナンパしていたそうです。そして、彼の友だちは皆ナンパに成功して女の子と一緒にどこかに遊びにいったのですが、彼だけはナンパに失敗したのでした。彼は、そのことですごく怒っていましたが、それは神様が彼を守ったからでした。もし、彼がその時ナンパに成功していたら、彼は教会に戻ってこなかったかも知れません。しかし、彼は、その後しばらくして自分の過ちに気づいて、しっかりと悔い改め、教会に戻って来ました。それからの豊村君は神様一筋に生きていました。そのためなのか、神様は、思いがけず早くに彼を天に連れて行かれました。聖書の神様は、この天と地を造られた壮大な神様です。しかし、同時に、私のような小さな一人の人間を愛し、どこまでも追いかけてくださる神様です。私たちは、ヨナのようにではなく、いつも、神様の御心に従っていく者でありたいと思います。

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