2021年10月17日 『史上最大のリバイバル』 (ヨナ3章) | 説教      

2021年10月17日 『史上最大のリバイバル』 (ヨナ3章)

 主イエスの時代から800年ほど前、イスラエルの国は、ダビデ王の時代の栄光を失い、小さな国になっていました。その原因はイスラエルの民にありました。人々は、聖書の神を知っており礼拝していたにも関わらず、周りの国の人々が拝んでいた他の神をも拝むようになっていて、人々の心が完全に神様に向いていませんでした。この時代、イスラエル人々が特に恐れていたのがイスラエルの東にあったアッシリアという国でした。この国の人々は残酷で、周りの国々を襲って、人々を殺し、財産を奪い取っていました。イスラエルの人々は、大きな恐れを感じていました。そんな時に、神様が預言者ヨナに「アッシリアの都ニネベに一人で行って、ニネベの人々に罪を悔い改めて神を信じるように叫びなさい。」と命令しました。ヨナは、敵の国の人々に神様のメッセージを語るなんてできないと思いました。というのは、ヨナは神様の心を知っていたからです。ニネベの人が、もしヨナの説教を受け入れて神様の前に悔い改めたら、神様はニネベの人々の罪を赦してさばきを与えないことをヨナは知っていました。自分たちをひどく苦しめているニネベの人間が神様のさばきを受けないのはぜったいにおかしいとヨナは思いました。それで、ヨナは神様の命令に逆らって、ニネベに行かずに、まったく反対の西の端の町タルシシュへ行こうとしました。ヨナは神様に選ばれた特別な預言者だったにも関わらず、預言者の務めも捨てて、西へ逃げました。
 ヨナは神様を見捨てましたが、神様はヨナを見捨てることはありません。彼が西へ逃げたことも神様は知っておられたので、ヨナがタルシシュに行けないように神様は働かれました。ヨナにとっては、迷惑なことだったでしょう。しかし、この時、神様がヨナをあのままタルシシュに行かせていたら、ヨナは、本当に神様から離れてしまって、滅びの生活へと落ち込んでいたと思います。神様はヨナが滅びないように、ヨナを守ろうとしておられるのです。ヨナはタルシシュに逃げるために船に乗りましたが、その船が行く先に、神様は大きな嵐を起こされました。船が沈みそうになったとき、人々は、嵐の原因がヨナであることを知りました。そして、船が沈まないようにするため、人々はヨナを海に投げ込みました。ヨナはここで死ぬはずだったのですが、神様は、この時、ヨナのいのちを守るために、大きな魚を用意して、魚にヨナを呑み込ませました。ヨナは、自分は神様に逆らって預言者であることも捨てていたので、自分が死ぬのは当然だと思っていたのですが、不思議なことに、彼は自分が海の底にいるのに死んでいないことに気づいたのです。その時、それまで神様に逆らっていたヨナが神様に向かって祈りました。2章6節の後半に書かれています。「しかし、わたしの神、主よ。」そしてヨナは7節でこう祈りました。「私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は主を思い出しました。」ヨナは自分が犯した大きな罪のために大きな苦しみを通らされた時に、神様を見上げました。この姿勢がとても大切です。私たちは、いつでも、神様を見上げることが大切です。神様がヨナを見捨てなかったように、神様は誰をも見捨てることはないからです。
 ヨナは神様の前に罪を悔い改めて祈りました。すると、神様は魚に命礼して、ヨナを陸地に吐き出させました。彼は魚の中に三日間いましたが、神様の力に守られて死ぬことなく、海の底から地上に戻ってくることができました。この出来事は、福音書で主イエスが言われているように、十字架を表す記しとして起きた出来事です。主イエスも十字架に掛けられて死んで墓に葬られました。しかし、三日目に死から復活されました。主イエスの十字架と死からの復活は、私たちの罪が赦されて永遠のいのちが与えられるための記しです。一方、ヨナが魚に呑み込まれて三日間海の底にいましたが、三日目に魚に吐き出されて彼は生きて地上に戻りました。この出来事は、ニネベの街の人々が救われるための記しだったのです。魚から吐き出されたヨナは、気を失ったまま浜辺で横たわっていました。その体は、魚の胃液によってひどい姿になっていたことでしょう。ヨナを発見した人々はびっくりしました。近くの村の人々がヨナを解放して、彼を助けました。ヨナが助かった出来事は、おそらく、この地域に広く知れ渡ったと思います。大きな魚に呑み込まれた後に吐き出されて助かった人は滅多にいないからです。神に逆らって神から逃げたヨナというイスラエルの預言者が、海に投げ込まれたにも関わらず、大きな魚に呑み込まれた後吐き出されて、いのちが助かったというニュースは、当時の人々の間でも大きな話題となったはずです。そして、そのニュースはもしかすると、遠いニネベにまで広まったかも知れません。となると、ニネベの人々は、ヨナがどんな人物なのか、ヨナが信じている神はどんな神なのか、あれこれ噂をしていたかも知れません。これはあくまでも私の勝手な想像ではありますが。

(1)2度目のチャンス
聖書には何も書いていないので、大きな魚がどこでヨナを陸地に吐き出したのかは分かりません。ただ、分かっていることは、ヨナが吐き出された所に、神様もともにおられたことです。神様は、ヨナが神の命令に従わずに行ったいろいろな行動に対して苦い思いを持っておられたでしょう。しかし、神様は一度もヨナを見捨てることはありませんでした。そして、ヨナを預言者として生きる道に引き戻すためにいろいろと働かれました。1章の4節には、「主が大風を海に吹き付けられたので、激しい暴風が海に起こった。」と書かれています。1章17節には「主が大きな魚を備えて、ヨナを呑み込ませた。」と書かれています。そして、2章の10節では、「主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた。」と書かれています。ヨナが最初から神様の命令に従っていたら、神様はこのようなことをする必要はなかったのですが、神に逆らうヨナを取り戻すために、神様はヨナ一人のためにいろいろと働いておられます。そして、3章に入って、主は、ふたたびヨナに語り掛けられました。
 神様の言葉はどんな言葉だったでしょうか。3章2節に記されています。「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」神様は、悔い改めたヨナに、もう一度同じ命令を与えられました。ある聖書学者は「クリスチャン生活は新しいスタートの連続である。」と言いました。私たちは、主イエスの十字架と復活のおかげで、主イエスを信じたその瞬間に、神に敵対していた立場から神の子どもという立場に完全に移されました。私たちの神の子どもという立場は絶対に変わることはありません。ただ、私たちは罪は赦されましたが、古い罪の性質を持っているので、罪を犯してしまいます。その時に大切なことは、罪を悔い改めて新しい出発をすることです。それが、聖書学者が伝えたかったメッセージです。クリスチャン生活は新しいスタートの連続なのです。しかし、私たちが罪を犯したとき、失敗した時、サタンが話しかけてきます。「お前はもうだめだ。それではクリスチャンとは言えない。信仰生活なんかあきらめろ。」ヨナ書の次にミカ書という預言書がありますが、ミカ書7章8節で、ミカは自分にささやくサタンに対して次のように宣言しています。「私の敵よ。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。」私たちが信じる神様は、失敗した者に2度目のチャンスを与えてくださる神様なのです。
 その例は、旧約聖書にいっぱい出て来ます。立派な人物も、誰もが失敗をしています。失敗をしない人などいません。アブラハムは、神様を信じて示された国にやって来ました。しかし、その地に飢饉が起きた時に、神様に尋ねることなくエジプトに逃げました。しかも、自分を守るために、エジプト王に妻のサラを自分の妹だとうそをついたため、エジプト王に災いが起きました。モーセはイスラエルのリーダーになるために選ばれた器でしたが、神様のご計画で、エジプト王子として育ちました。ある日、モーセは自分の同胞のユダヤ人がエジプト人に殴られているのを見て、思わずそのエジプト人を殺してしまいます。それがエジプト王に知られたため、彼はエジプトにいることができなくなり、ミデアンという遠い国へ逃げて行かなければなりませんでした。結局、モーセはイスラエルの民のリーダになる前に、ミデアンの地で40年を過ごさなければなりませんでした。このように、神の器と呼ばれた人々も皆、失敗をしているのです。しかし、あわれみ深い神様は彼らの罪や失敗を赦してくださり、彼らの信仰を回復させて、彼らを大切な働きのために用いておられます。ヨナも同じです。ヨナは神に逆らったために大変な苦しみを経験しましたが、神様はヨナの失敗を赦して、もう一度、大切な任務を彼に与えられました。
 ヨナはどのように応じたでしょうか。3節を読みましょう。「ヨナは主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの大きな都であった。」彼は、魚から吐き出されてから、まだそれほど日数が経っていませんから、彼の顔や手はひどい状態であったと思います。体調も万全ではなたかったでしょう。しかし、今回、ヨナは神様の言葉に従ってまっすぐにニネベに向かいました。ヨナ書では、繰り返し、「ニネベは大きな町であった」と書かれています。町全体を歩いて回るには3日が必要だったと言われていますし、人口も12万人以上いたと言われています。この時代の人口は大人の男性だけを数えていましたので、実際には、ニネベは40万人近くの人が住む大都会でした。アッシリアの軍隊は、近くの国々で非常に恐れられていました。1章で、神様は「ニネベの人々の悪がわたしの前に上って来た」と言われましたが、アッシリアは敵に対して憐みをまったく示さず、非常に残酷なことで有名でした。戦争で捕まえた人々を砂漠の太陽で焼き殺したり、生きている人間の皮をはいだり、戦争のたびに何万にも人を殺して首を切り、頭蓋骨を街の入口に積み上げていたと言われるほどでした。だから、ヨナは、彼らには、神様の前で悔い改めてほしくなかったのです。しかし、神様は、この悪に満ちたニネベに預言者ヨナを遣わされました。ヨナにとっては、アッシリア人はどうしようもない悪人ですが、神様にとっては、ニネベの人々も自分が創った大切な人々なのです。

(2)史上最大のリバイバル
 ヨナはとても勇敢な預言者です。残忍なことで有名なアッシリアの都ニネベにたった一人で立ち向かって行きました。ただ、人々はヨナを見てどう思ったでしょう。さきほど言ったように、ヨナの顔も手足も醜い状態になっていたはずです。そして、ニネベの人々は、ヨナがイスラエルの預言者で、大きな魚に呑み込まれた後、3日目に吐き出されて助かった男であるという噂を聞いていたので、実際のヨナを見てかなり驚いたことでしょう。それが、彼らの悔い改めに繋がった要因の一つかも知れません。ヨナがニネベの街を一日歩いた後、彼はニネベの人々に神から預かったメッセージを叫びました。「あと40日すると、ニネベは滅びる。」もちろん、ヨナはこのことだけを叫んだのではありません。ヨナはニネベの人々に真実の神について、人間の罪について、またその罪に関する神の裁きについても語ったはずです。というのは、5節に「すると、ニネベの人々は神を信じた。」と書かれているからです。人々の信仰は本物でした。彼らはただ信じると告白しただけではなく、自分の罪を悔い改めて、その気持ちを表すために、身分の高い人から低い人まで、断食を呼びかけ、粗布をまとっています。ヨナが神様の命令に従って、神様のメッセージを叫んだところ、驚くことに、残酷で、罪深い生き方をしていたニネベの人々が彼の言葉を聞いて神を信じました。大人の男性だけで12万人もの人が信じたのです。4節に記されているヨナの言葉は、ヘブル語では5つの言葉だけです。しかし、神様が働く時に大きなことが起きるのです。
 ニネベの人々が罪を悔い改めてイスラエルの神を信じたことが王様の耳に届きました。すると、不思議なことに、王様も、人々と同じように、自分の罪を悔い改めて王座から立ち上がり、王の服を脱ぎ捨てて、民と同じようにを粗布をまとって灰の中に座りました。自分の罪を悔い改める気持ちをそのようなかたちで現わしたのです。しかも、ニネベの王は、民におふれを出して、人間だけでなく家畜までも、断食をして、ひたすら神に祈って、悪の道と横暴な行いから立ち返るようにと命じました。そして、そのように祈る目的を9節で語っています。「もしかすると、感が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないで済むかもしれない。」ニネベの王は、神様の憐みが、神様の決心を変えて、ニネベを滅ぼそうとしていた計画を思い直して、自分たちを救ってくれるかもしれないと期待したのです。
 そして、神様は10節で、ご自身のメッセージを語られました。神様はニネベの人々の悔い改めと信仰が真実のものであるのを見て、彼らに対するさばきを思い直して彼らを裁くことをされませんでした。神様はこの世を支配しておられる神ですが、人々が滅びることを願って支配しておられるのではありません。人々が悪と罪の道から立ち返って、正しい生き方をすることを願って支配しておられます。ニネベの人々ような罪深い人間に対しても、神様は、自分のひとり子のいのちを犠牲にされたのです。神様の愛は、人間と違って、限界がありません。このようにして、滅びるはずのニネベの人々は、ヨナの説教をとおして、神に立ち返り、神の家族に加えられました。主イエスは彼らの信仰は、当時のユダヤ教の指導者たちにまさる信仰であると語られました。マタイの福音書12章41節で、主は次のように言われました。「ニネベの人々が、さばきの時にこの時代の人々と共に立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここヨナにまさる者があります。」もちろん、ヨナにまさる者とは主イエスご自身のことです。主が私たちに語っておられることは、神様がヨナをとおしてニネベの人々に語られたことと同じです。「罪の中で滅びないように、神を信じ、御子イエスを信じなさい。」です。あなたは、御子イエスを信じていますか。あなたは、自分が神のさばきを受けないことを確信していますか。

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