2021年10月24日 『あわれみ深い神』(ヨナ4章) | 説教      

2021年10月24日 『あわれみ深い神』(ヨナ4章)

 10月に入ってヨナ書を読んできましたが、今日は最後4章から、ヨナの物語がどのように終わるのかを見たいと思います。ヨナ書に記された預言者ヨナの物語には、大きな出来事が次々と起こります。神様の命令に背いたヨナは、神様が命令したニネベに行くことを拒んで、ニネベとはまったく反対の方向、西の果ての町タルシシュに行こうとしました。しかし、船に乗るとすぐに大きな嵐があって、結局、ヨナは海に投げ込まれてしまいます。この時、ヨナは死ぬはずだったのですが、大きな魚に呑み込まれていのちが助かり、ヨナは魚のお腹の中で神様に悔い改めの祈りを捧げて、神様のために生きることを誓います。魚に吐き出されたヨナはいのちが助かり、神様から再びニネベに行くように命じられたので、今度は、彼は神様の命令に従って、ニネベに行きました。そして、神様から命令されたように、ニネベの人々に神の裁きを宣告しました。「あと40日すると、ニネベは滅びる」ところが、ヨナのメッセージを聞いたニネベの街の人々は、自分の罪と悪を悔い改めました。彼らは断食をして自分たちの悔い改めを行動で表しました。街中の人が悔い改めたので、その知らせがニネベの王様にも届きました。すると、王様も自分の罪を悔い改めて、人々に言いました。「ヨナの神様にひたすら祈りなさい。そうすれば神様がさばきを思い直して、私たちは滅びないで住むかも知れない。」神様は、彼らの悔い改めが真実なものであるのをご覧になって、裁きを行うことを思い直されたので、ニネベの人は滅ぼされませんでした。ヨナの働きによって、歴史上最大のリバイバルが起こり、これらの人々は滅びることなく、神様から永遠のいのちが与えられました。ヨナの物語は、誰もが喜ぶような素晴らしいハッピーエンドになりました。ところがヨナにとっては、ハッピーエンドではありませんでした。ヨナは激しく怒っていました。今日は、ヨナの4章から、ヨナの心と神様の心を比べて、神様がどれほどあわれみ深いお方であるのかを見てみたいと思います。

(1)ヨナの怒り
 4章の1節を読みましょう。「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って主に祈った。ニネベの町の人々は、神様からの裁きがなく、滅びることから免れたので誰もがともに喜びあっていました。神様も喜んでいました。それまでは神様を知らずに、自分の欲望のままに、罪の生活をし、さまざまな悪を行っていた人々が、神の裁きを恐れて悔い改めの祈りをささげ、神様が願うような生き方をすることを誓ったからです。ペテロの第二の手紙3章9節でペテロはこう書いています。「神様は、だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」従って、ヨナ書は3章で「めでたしめでたし」と終わっても良かったのですが、喜べない人がいたのです。それがヨナでした。彼は怒っていました。何を怒っていたのでしょうか。彼は、魚に吐き出された後、神様からもう一度「ニネベに行って、神のメッセージを宣言しなさい」と言われた時に、神様の命令に従って、アッシリアの都、ニネベに行って、神様から命じられたとおりに神の裁きを宣言しました。ところが、ニネベの人がヨナの言葉を聞いて、神様の前で悔い改めたため、神が行うと決めておられたさばきは行われませんでした。ヨナは、神様の裁きがくだってニネベの人々が滅びることを期待していました。イスラエルにとっては、彼らは滅んだほうが良いと思っていたからです。ところが、ニネベの人々は滅びませんでした。預言者にとって、自分が預言したことが起こらないと、大きな恥になります。ヨナは神様に裏切られたように思いました。ここで、注意すべきことは、この時、ヨナは、ニネベの人々について何も考えていません。まったく無関心です。彼は、ただ、自分の立場、自分のメンツ、自分の気持ちだけを考えていました。
 彼は、怒りをぶちまけるように、神様に祈りました。4章の2-3節を読みましょう。」ヨナは、とても感情的になって神様に祈っていますが、ここで、彼は3つのことを言っています。第一に、彼は自分が最初神様の命令に逆らったことは正しかったと、自分の行動を正当化しています。ヨナは、ニネベの人に神の裁きを宣言した後、ニネベの人がもし万一悔い改めたら、神様は憐み深い方だから、ニネベに対する裁きを思い直すだろうと思っていました。彼は、そんなことになるならニネベに行きたくないと思ったので神様の命令に従わなかったのです。彼は、最初の命令に従わなかったことは正しかったと神様に訴えています。自分はニネベに来るべきではなかった、それがヨナの考えでした。そして、彼は、神様が行っていることはおかしいと訴えています。彼は、ニネベの人々がイスラエルだけでなく、周囲の国々に悪いことを数多くおこなっていることを知っていました。彼はニネベの人々は裁かれて当然だと考えていました。神様は、ヨナに「40日後にニネベは滅びる」というメッセージをニネベの人に宣言するように命じています。ヨナからすれば、神様が一度裁きをすると決めて、そのメッセージを預言者に委ねたのであれば、途中で思い直すことはありえないことでした。というのは、旧約聖書の時代に偽預言者が現れてイスラエルの民を惑わしたので、その人たちは神の裁きを受けていました。聖書の中に、本当の預言者か偽預言者かを見分ける方法がはっきりと記されています。申命記の18章22節です。「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。」ヨナは、自分が偽預言者だと見なされることに強い怒りを覚え、自分をそのような立場にさせた神様に怒っています。ここでも、ヨナは、ニネベの人のことについてはまったく無関心で、自分の立場、自分の気持ちだけを考えています。そして、第三に、ヨナは祈りの中で、「私は生きているより死んだほうがましです。」と神様に訴えています。ヨナは、この時、自分が大きな魚の中で何を祈ったのかを忘れてしまっています。彼は、大嵐を静めるために、海に投げ込まれましたが、その時、彼は自分は死ぬと思っていました。ところが、大きな魚に呑み込まれたため、彼のいのちは奇跡的に助かりました。彼は、そのことを喜んでいたのです。そして、神様の前に悔い改めの祈りを祈りました。2章6節の後半で、彼はこう祈っています。「私の神、主よ。あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました。」そして祈りの最後に、ヨナは「救いは主のものです。」と大胆な信仰告白をしています。ヨナは、自分が滅びの穴から救い出されたことは喜んでいるのに、ニネベの人が滅びの穴から救い出されたことには怒っているのです。ヨナは、神様の命令に従ったことを後悔し、自分の願ったとおりに状況が動いていないことで、神様に「こんなことなら死んだほうがましだ」と訴えました。

(2)ヨナの間違い
 このふてくされたヨナを見て、神様はどう思われたでしょうか。なぜ、ヨナはこんな状態になってしまったのでしょうか。第一に、ヨナはまだ完全に神様の御心を第一にしていませんでした。ヨナは海の中で死にそうになっていた時に、神様の手によって滅びから救われました。大きな魚の腹の中で、自分の罪を悔い改めて祈りを捧げました。しかし、彼の心はまだ神様の心と完全に一つになっていませんでした。その原因は、ヨナのニネベの人々に対する憎しみでした。彼は、神様からもう一度「ニネベに行って人々に神の裁きを宣言しなさい。」という命令を受けた時に、回様の命令に自分から進んで従いました。しかし、彼は、神様がニネベの人々を赦すことが赦せませんでした。ヨナには、神様がニネベの人々の罪を赦すことが理解できませんでした。第二に、ヨナは、自分が神様から受けた憐みを忘れていました。ヨナは、海の中で、あるいは大きな魚のお腹の中で死んでいたかも知れません。しかし、あわれみ深い神様はヨナのいのちを助けて、もう一度預言者としての任務をヨナに与えました。彼は、魚のお腹の中にいる時には、神様の憐みを強く感じて神様に感謝していたのに、今、自分の目の前でニネベの人々の罪が赦されることが、どうしても理解できませんでした。彼は神様の愛の深さ、憐みの心の広さ、深さを理解していなかったのです。
 4節で神様はヨナに「あなたは当然であるかのように怒るのか。」と言われました。この質問で、神様がヨナに尋ねておられるのは、ヨナが怒るのが正しいのか、ニネベの人々に憐みを示した神が正しいのかということです。ヨナと神様の目の前で起こった出来事は一つです。それは、ニネベの人々が滅びなかったということです。それに対して、ヨナは怒っていますが、神様は喜んでおられます。神様がこういう質問をされる時、私たちの考えがどうであれ、私たちの気持ちがどうであれ、正しいのは神様です。神様はヨナに尋ねましたが、ヨナは神様の質問には答えていません。自分が怒っていることを悪いとも思っていません。彼は、怒ったまま、ニネベを出て、街の東に自分で仮小屋を造って、都の中で何が起きるのかを眺めることにしました。この出来事にもヨナの過ちが現れています。ヨナがニネベを出たということは、彼が預言者の務めを放棄したことを意味します。というのは、ニネベの人々が悔い改めた後も、預言者にはしなければならないことがありました。ニネベの人々は神様のことや信仰のことについて何も知りませんから、ヨナが、これからの信仰生活のために彼らを教えなければならなかったのです。神様を礼拝すること、神様に祈ること、聖書の言葉を学ぶこと、これからニネベの人々がしなければならないことを教える責任がヨナにはありました。また、ヨナは街の東側に仮小屋を建てて、ニネベに何が起こるのか見極めようとしています。ニネベの人々は、ヨナに感謝していたと思います。ヨナのメッセージがなかったら、彼らは滅んでいたのです。彼らにとってはヨナはいのちの恩人ですから、恐らく、ニネベの人々はヨナのために、住む場所を提供したはずです。ところが、ヨナは、裁きがなかったことに腹を建てて、街を出ました。彼は、今もなおニネベの人々を軽蔑していましたし、憎んでいました。そして、心の中ではなお、ニネベに裁きが下ることを期待していたようです。だから、彼は、預言者の務めをせずに、野次馬になって、街の外からニネベの様子を見守っていました。ヨナは、野次馬になるためにニネベに遣わされたのではありません。神のしもべとして遣わされました。ニネベの人々のために、神様の御心を伝え、そして、神様の御心に従って働かなければなりませんでした。しかし、ヨナは単なる野次馬になっていました。

(3)神様のヨナへの教え
 ヨナは、ふてくされてニネベの街の東に仮小屋を建ててニネベがどうなるのか眺めていました。ヨナの心は神様の心と同じではありませんでした。そんなヨナに神様は忍耐して、彼に神様の心を教えておられます。その時、神様はヨナのために一本の唐ゴマの木を植えてくださいました。神様はその木を早く成長させて、ヨナの仮小屋の前に日陰を造ってくださいました。神様はヨナを強い日差しから、熱中症から守ってくださいました。ヨナは、野次馬になってニネベの様子を見張っていましたが、午後は強い日差しを受けて、見張っているのは大変なことでした。ヨナは、この一本の唐ゴマの木をとても喜びました。ヨナが笑っている顔がイメージできますか。実は、ヨナ書の中で、ヨナが喜ぶのはこの時が初めてなのです。彼の生活にはこれまで、彼の気に入らないことばかりでした。最初にニネベに行けと言われたことも、船に乗ってタルシシュに逃げたら嵐が起きたことも、魚に飲み込まれたことも、神様の命令に従ってニネベに行ったらニネベの人が悔い改めたことも、彼にはすべてのことが気に入りませんでした。ここにきて初めてヨナは非常に喜んでいます。自分の欲しいものが与えられたからです。一本の唐ゴマの木と、ニネベの町全体が神様の前に悔い改めたことと、どっちが素晴らしいことなのでしょうか。ヨナにとっては、自分に日陰をくれる一本の唐ゴマの木でした。
 ただ、神様は、その次の日の夜明けに、唐ゴマの木に一匹の虫を備えられました。するとその虫が唐ゴマの木を嚙んだので、唐ゴマの木は枯れてしまいました。そして、太陽が上った時に、神様は焼けつくような東風を起こされました。ニネベの東は砂漠です。砂漠からの熱風が吹くと、一瞬にして草花は枯れてしまいます。太陽が強く照らしたので、ヨナは暑さのために弱り果てました。一日前は、唐ゴマの木を見てハッピーだったヨナですが、今日は、唐ゴマの木が枯れてしまい、太陽に照りつけられてヨナは死にそうになっていました。彼は、ふたたび、「死んだほうがましだ。」と考えるようになりました。この時、神様はヨナに2つめの質問をしました。「この唐ゴマのためにあなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは一本の木が枯れたことで怒っていますが、神様は、ヨナにそんな小さなことで怒るのかと尋ねられました。するとヨナは「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」と答えています。ヨナは神様の前に自分の怒りをコントロールできませんでした。怒りは、人の行動を正しく導きません。最初、ヨナは神に対して怒っていたのですが、今は、一日で育って一日枯れてしまった唐ゴマに怒っています。私たちも注意していないと、怒りを持ったままだと、私たちの心はどんどん悪い方向に向かって行き、最後はどんな小さなことにも腹を立てるようになってしまいます。
 そして神様は3つ目の質問をヨナに尋ねられました。10節と11節を読みましょう。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐ゴマを惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。」ヨナが惜しんでいるのは、自分に都合の良い日陰を与えてくれた一本の木です。一方、神様は、ニネベの街に住むすべての人々のいのちを惜しみました。神様はニネベの人が滅ぶことを何とか防ぎたいと思われたのです。すべての人間は神様に造られた特別な一人です。神様の特別な作品です。だからこそ、神様は、どんな人であっても、滅んでほしくはなかったのです。一方、街の東でニネベの様子を眺めていたヨナの頭には、ニネベの人々の運命などどうでも良い事でした。何十万人もの人が滅びるか滅びないかということよりも、自分の目の前に生えていた唐ゴマの木のことが大切だったのです。
 主イエスは十字架にかかるためにエルサレムに近づいて来られたとき、ヨナと同じように街の東側からエルサレムを見られたのですが、その時、主は泣かれました。それは、イスラエルの民が心を頑なにして、神から遣わされた救い主を受け入れず、十字架にはりつけにしようとしていたからです。これらの人々がやがて神の裁きを受けることを思って、主イエスは人々の前で声を上げて泣かれました。一方、ヨナは同じように街の東からニネベの人々の様子を見守っていましたが、彼は心の中でニネベの人に神のさばきが下ることを密かに願っていました。神様の心とヨナの心は大きく違っていることが明らかです。神様は、人々を滅びから救うために自分のいのちを犠牲にされました。ヨナは、自分に都合の良い日陰を与えた唐ゴマが枯れたことで腹を立てていました。人々のことを第一に考える神と、自分のことを第一に考えるヨナが対照的に描かれています。神様は、どこまでも、あわれみ深い方で、神様の憐みが尽きることはありません。私たちも、神様の憐みによって救いに入れてもらいました。私たちは、そのことを忘れることなく、神様の御心は何かを知り、神様と同じ心をもって生きる者でありたいと思います。

ヨナ書には結論は記されていません。ドラマチックなストーリーが展開してきましたが、最後は神様の質問で終わり、その後、ヨナがどのように行動したのかが書かれていません。多くの人は、この後、ヨナが自分にも神様が憐みを示してくださったことを思い出して、もう一度悔い改めて、神様がニネベに示した憐みを喜ぶ人になっただろうと考えています。そして、ヨナは、自分の失敗を素直に認めて、このヨナ書を書いたのではないでしょうか。私たちも、神様の憐みによって、今、神様の子どもとして生きています。本当に感謝なことです。私のような者のためにも、神様は大きな愛と憐みを示してくださいました。すべての人は神様の愛と憐みを受けているのです。私たちは、神様の喜ぶ生き方をする者でありたいと思います。

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