2021年10月31日 『悲しみを喜びに変えるイエス』(ヨハネ福音書16章16-22節) | 説教      

2021年10月31日 『悲しみを喜びに変えるイエス』(ヨハネ福音書16章16-22節)

今日から、ふたたび、ヨハネの福音書から説教を語ります。福音書とは、主イエスの神の子としての活動を記録したものですが、単なる伝記とは違います。主イエスが神の子としての活動を始めたのは30歳の時です。そして、主イエスが十字架に掛けられたのは33歳ころですので、神の子としての活動時期は約3年間でした。福音書はイエスの3年間の活動をすべて記録している訳ではありません。ヨハネの福音書全部で21章のうち、半分近くは、主イエスの十字架と復活について語っています。福音書は単なるイエスの人生の記録ではなく、私たちにメッセージを語り掛ける書物です。今日の個所も、単なる過去の出来事の記録として読むのではなく、私たちに向けて語られたメッセージであり、私たちに応答を求めるメッセージとして読むことが大切です。 今日読んでいるヨハネの福音書16章には、最後の晩餐の時に主イエスが弟子たちに向かって語られた言葉が記されています。この時、弟子たちは疲れ切っていました。主イエスと弟子たちは日曜日から都エルサレムに滞在していましたが、主イエスを神の子と認めないユダヤ教指導者たちからの批判や攻撃が強くなる中、彼らは極度の緊張と恐怖感をずっと感じていました。また、主イエスの言葉の節々に、主が自分たちを残してどこかへ行ってしまうことを思わせるものがあったので、大きな不安を感じていました。そんな時に主が弟子たちに言われた言葉が彼らの心をひどく悲しませました。16節の言葉です。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、私を見ます。」17節18節見ると、弟子たちが、このイエスの言葉を聞いてひどく戸惑っていることが分かります。主イエスが選んだこれらの弟子たちは、今では、聖ヨハネとか聖ペテロと呼ばれて、特別な信仰と知識と力を持つ素晴らしい聖人のように言われますが、実際には、私たちと同じように、不信仰な時があり、戸惑ったり、悲しんだり、恐れたりする、私たちと変わらないごく普通の人間だったのです。彼らは、この時、強い悲しみを感じていました。

(1)弟子たちの悲しみ
 弟子たちはなぜ悲しんでいたのでしょうか。第一に弟子たちは主イエスとの別れを悲しんでいました。彼らは、まだ主イエスが十字架にかかることと復活することを理解していませんでしたが、主イエスが自分たちを置いてどこかに行くと感じていました。弟子たちは、主イエスの弟子になる時に、家族や仕事を捨てて弟子となっていました。彼らは、これから自分たちが何のために、何を目標にして生きて行けば良いか分かりませんでした。私たちも、愛する家族をなくすと深い悲しみや喪失感を感じます。愛と親しさで繋がっていた人がいなくなることは辛く悲しいものです。しかも、彼らは、栄光に満ちた神の子イエスと別れることになるので、その悲しみは非常に大きいものだったに違いありません。
 第二に、弟子たちは、世の人々がキリストに敵対していることを悲しんでいました。そのことは主イエスご自身が20節で語っておられます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。」弟子たちは、イエスとの別れを悲しんでいるのに、ユダヤ教の指導者たちは、イエスに対して激しい怒りを示し、何とかして主イエスを捕らえて殺そうと考えていました。弟子たちも、そのことに気が付いていました。この後、実際に主イエスが十字架につけられる時も、つけられた後も、弟子たちは、この世の多くの人々やユダヤ教の指導者たちがイエスを嘲っているのを見ることになりますが、そのような状況を見ることは、弟子たちを深く悲しませました。しかも、その中の多くの人々は、イエスの奇跡を見ていましたし、イエスに祈ってもらった人もいたはずです。弟子たちは、この世の人間の心の冷たさに悲しみをさらに深く感じていました。
 第三に、彼らの悲しみの理由は主イエスに対する失望でした。弟子たちは、信仰が未熟だったために、主イエスの教えを正しく理解せず、明日主イエスが十字架にかかるという最後の晩餐の時に至っても、彼らは、主イエスが当時イスラエルを支配していたローマ帝国を倒して、自分たちの生活を楽にしてくれる政治的な救い主だと期待していました。12弟子だけではなく、主イエスを救い主と信じる多くの人は、主イエスを政治的な救い主であることを期待していました。ルカの福音書に書かれているのですが、主イエスが復活された後、主はエルサレムからエマオという村に向かっている二人に近づいて、二人の人が歩きながら話しているのをそばで聞いておられました。二人は、救い主として期待していたイエスが十字架につけられて死んだことを知って、ひどく落ち込んだ状態で自分の家に向かって歩いていたのです。二人は目の前にいるのが復活された主イエスと気づかないまま、自分たちが失望していることを主に言いました。二人はこう言いました。「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だと望みをかけていました。」二人は、主イエスに大きな希望を持っていただけに、主イエスが十字架にはりつけにされて殺された事を知って、期待が大きかった分、主イエスに対する失望も大きくなっていました。この二人と同じように、イエスの弟子たちも、主イエスに間違った期待を強く抱いていただけに、主イエスが自分たちから去って行かれると思い、大きな悲しみを感じていました。

(2)悲しみが喜びに変わる
 主イエスは、弟子たちがこのような悲しみ、戸惑いを感じていることをよく分かっておられました。主は、私たちの心を理解してくださる方です。聖書の言葉に「人はうわべを見るが、主は心を見る」というのがあります。人間は、ある程度は人の心を状態を理解することができますが、完全には理解できません。私たちはどうしても人のうわべを見て、その人のことを判断しようとします。また、私たちは、無意識のうちに、人から見られているうわべを飾ろうとします。しかし、神様は私たちの心の状態を完全に理解してくださるのです。主イエスは、この時弟子たちが不安のあまりイエスにいろいろ尋ねたいと思っていることを知っておられたので、主は、ご自分から弟子たちに言われました。19節に書かれています。「「しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と、わたしが言ったことについて互いに論じ合っているのですか。」主は、弟子たちが尋ねたくても尋ねる勇気がなかった質問に答えて彼らの恐れや不安を取り除こうと、自分の方から弟子たちにこう質問されました。
 そして、20節の言葉を言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。」という言葉で始まるイエスの言葉は、その言葉がとても重要なものであることを示しています。「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」弟子たちが泣き、嘆き悲しむのは、主イエスがこれから十字架にかかるからです。私たちは、主イエスが十字架が死なれたことの意味を知っていますが、この時の弟子たちは、仲間のユダの裏切りとユダヤ教指導者たちの仕業でイエスが十字架で殺されたと思っていますから、その悲しみは本当に大きかったのです。イエスに反対していた人々はイエスが十字架で死んだことによって、自分たちにとって邪魔な存在がいなくなったことを非常に喜んだことでしょう。しかし、その喜びは長く続きませんでした。三日後に主イエスが復活された時、彼らはイエスの復活を否定することができませんでした。彼らがあらゆる手段を尽くしても、主イエスの死体を見つけることができなかったからです。彼らの喜びは、驚きと困惑に変わりました。彼らはイエスが十字架についている時に、イエスを嘲って言いました。「他人は救ったが自分は救えない。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。」しかし、主イエスが十字架から降りるよりももっと大きな奇跡として死から蘇られた時、彼らは、頑固に信じることを拒みました。そして、人々に金を渡して、「主イエスの弟子たちがイエスの死体を盗んだ」というデマを流させました。また、後に弟子たちがイエスの復活を人々に力強く説教し始めたときには、弟子たちを捕まえたり鞭で打ったりして、何とかして彼らの働きを留めさせようとしましたが、その努力は全く無駄に終わり、主イエスの十字架と復活のメッセージは、あっという間にローマ帝国全体に広まって行きました。
 一方、弟子たちは、主イエスが十字架で死んだ時に、深く悲しみ嘆いていましたが、主イエスが復活された時、彼らの悲しみは喜びに変わりました。弟子たちの悲しみが喜びに変わるのは、弟子たちを悲しませていた出来事に変わって、彼らが喜びを感じられるような別の出来事が現れたからではありません。一つの同じ出来事、この場合は、主イエスの十字架で死ぬという出来事が、これまでは弟子たちを悲しませる出来事であったのが、彼らに喜びをもたらす出来事に変わったということです。弟子たちにとって、人生をかけて従って来た主イエスが十字架で死ぬことは大きな悲しみをもたらす出来事ですが、その後、主イエスが死から復活し、天に帰られ、その後、主が約束しておられたように、天から信者一人一人に助け主として聖霊が注がれるという出来事が続きます。それによって、弟子たちは主イエスの十字架の意味を正しく理解するようになり、彼らは十字架だけを誇りに思うようになるのです。このことを、主は一つの例えで説明されました。それが21節の言葉です。「女は子どもを産むとき苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」出産の時の痛みは、妊婦さんにとって耐えがたいほどの大きな痛みです。しかし、赤ちゃんが生まれて「おギャー」と泣き声を上げたときに、その妊婦さんは、自分のお腹の中で育っていた自分の子どもがこの世界に生まれて来たことが余りにも嬉しくて、今まで経験していた痛みのことなどすっかり忘れてしまいます。
 それと同じように、弟子たちは、しばらくの間、大きな悲しみを経験します。しかし、三日後には主イエスは復活されます。そして、弟子たちは、その後、主イエスが十字架で死んだことの意味をはっきりと理解するようになります。十字架は、当時、最悪の人間に対して行われた死刑の方法でした。恥と屈辱のシンボルです。しかし、イエスの十字架は、罪のない神である主イエスが私たちの身代わりとなって私たちの罪の罰を受けるためのものでした。私たちは、どんなに人の前では立派であっても、神の前には100%正しい人はおらず、すべての人は罪人です。すべての人は罰を受けなければならないのですが、その罰を代わりに受けてくださったのが十字架上の主イエスです。例えば、あなたの友だちが殺人を犯して死刑の判決を受けたとします。あなたは、その友人の身代わりとなって死刑を受けることができるでしょうか。普通はできません。しかし、もしできるとしたら、それはあなたがその友人をいのちを捧げても良いと思うほど愛している時です。主イエスの十字架の死と復活の結果、恥と屈辱のシンボルであった十字架が神様の私たちに対する愛のシンボルに変わりました。だから、弟子たちの悲しみは喜びに変わりました。これは今の時代の私たちにとってどういう意味があるのでしょうか。私たちは主イエスを信じた時に、2000年前のイエスの十字架の死によって、罪が赦され、神の子どもとなり、永遠に神と共に生きる人となりました。地上で生きている間は、私たちは聖書から主イエスの言葉を聞き、主イエスに向かって祈ることを通して主イエスに話しかけます。クリスチャンは、この世の人と同じ生活をしていますが、この世の人と大きく違う点は、自分一人で生きているのではなく、復活された主イエスと共に生きているということです。自分ひとりで生きていると、道を間違えることがあります。倒れてしまうと起こしてくれる人がいません。しかし、主イエスと共に生きるなら、道を間違えそうになる時に、主イエスが正しい道に連れ戻してくれます。私たちが倒れてしまった時には、いろいろな方法で私たちを起き上がらせてくださいます。しかし、それだけではありません。私たちが、地上で死を迎える時、すべてが終わってしまうのではなく、新しい時代がスタートします。肉体は朽ち果てても、私たちの魂は神様がおられる天国で永遠に生き続けます。地上では神様の姿を見ることはできませんが、天国においては、私たちは神様を目で見ることができます。今までよりもはるかに親しく、神様と交わることができるようになります。イエスの弟子たちは、この素晴らしい約束を、主イエスが十字架にかかられた後三日目に蘇られたことを通して、確信するようになります。私たちの地上での生活には苦しいことがあるとしても、私たちは主イエスとともに乗り越えることができます。そして、やがて、私たちは、今までとはまったく違う天国での神様と一緒の生活が始まるのです。このことを確信しているなら、私たちは、どんな時も、希望を持って生きることができます。主イエスの十字架は自分のためのものであったことを知った弟子たちは悲しみから喜びへの生活へと変わりました。

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