2021年11月21日 『私たちの国籍は天にある』(ピリピ3章17-21節) | 説教      

2021年11月21日 『私たちの国籍は天にある』(ピリピ3章17-21節)

 今日、読んでいる個所は、ピリピ人への手紙です。これは、世界で最初の宣教師としてイエス・キリストについての福音を人々に伝えていたパウロという人が、自分が建て上げた教会の人々に宛てて書いた手紙です。パウロは、ローマ帝国が世界を支配する時代に、キリスト教が当時の世界の中心ローマ帝国全体に広げるために大きな力を発揮した人です。キリスト教は、イスラエルの都エルサレムから始まりました。エルサレムは、ローマ帝国の中では東の端っこにある小さな町に過ぎませんでした。しかし、パウロが3回の伝道旅行を行って、現在のギリシャやトルコに数多くの教会を建て上げたことによって、当時交通機関が発達していなかったにも関わらず、主イエスの教えは、あっと言う間にローマ帝国全体に広がりました。主イエスが死んで30年後に、ローマ帝国の都ローマで大火事が起こりました。その時のローマ皇帝は悪名高いネロという人物でしたが、ローマの街中で、今回の火事は皇帝ネロが火をつけたからだという噂が流れました。その噂を打ち消すために、皇帝ネロは「クリスチャンがローマに火をつけた」というデマを流し、クリスチャンに対する激しい迫害を始めました。しかし、どんなにローマ帝国がキリスト教を滅ぼそうとしても、神の力に勝つことはできません。300年後には、ローマ帝国はキリスト教の国へと変わりました。ピリピとは、そのような歴史の第一歩となる、ヨーロッパで初めて生まれたキリスト教会だったのです。

 ピリピという街の名前は有名なアレキサンダー大王の父親フィリップが作った町なので、ピリピと呼ばれていました。また、この町はローマ帝国の最初の皇帝アウグストが権力を握るきっかけとなった戦いに勝利した町だったので、ピリピは、特別にローマ帝国の植民都市となりました。そのため、ピリピの街に住む人々には、ローマ帝国の市民権、ローマ帝国の国籍が与えられていました。この市民権を持っている人には様々な特権が与えられていました。そして、ローマ帝国によって守られていました。国籍というのは私たちが生きて行くためにどうしても必要なものです。最近、NHKの番組で、日本で生まれたにも関わらず日本の国籍を持っていない人のことを取り上げていました。国籍がないと、学校にも行かず、正規の仕事にもつけずに、厳しい人生を強いられます。大人になってから国籍を作ることの難しさが紹介されていました。それほどに国籍は大切なものです。もちろん、この手紙を受け取った人たちも、自分がピリピの街に生まれたことを誇りに思い、ローマの市民権を持っていることに感謝していました。私たちにとって、国籍は大切なものです。国籍を持っている日本人はパスポートを持つことができます。このパスポートは私たちを日本人であることを証明するものですが、同時に、これを持っていれば、いつでも簡単に日本の国に入ることができます。海外旅行に行くことは楽しいですが、もしパスポートがないと日本に入ることが許されません。19世紀のアメリカにフィリップ・ノーランという軍人がいました。陰謀に巻き込まれて不当な裁判を受けることになったのですが、その裁判の中で不当な裁判に怒った彼は、アメリカを呪い、アメリカのことは一切見たくも聞きたくもないと叫びました。その結果、裁判官は彼の願いを聞き入れ、彼に判決を下しました。彼は死ぬまでアメリカの土を踏むことは許されず、アメリカのニュースも一切聞いてはならないという判決でした。その後56年間、彼はアメリカ海軍の船に乗ったまま、アメリカに一歩も入ることが許されず、死ぬまで船で暮らし、海に葬られました。彼もまた国籍を持たない人になりました。

 20節に「私たちの国籍は天にあります。」と書かれています。新約聖書のヨハネの黙示録には、天国に「いのちの書」という書物があると書かれており、イエス・キリストを信じた人々は、その瞬間「いのちの書」に名前が記されます。そしてそれは、その人が天国の国籍を持つ者になったことを意味します。なぜ、私たちの名前がいのちの書に記されているかというと、私たちが主イエスを信じたからです。それだけです。というのは、私たち自身は、生まれたままの状態では、自分勝手でありいつも正しい生き方ができないので、そのままでは天国に入ることはできません。天国に入るためには100%正しい人でなければならないからです。例え的に言えば、主イエスの推薦を受けた者だから入ることが許されるのです。聖書の教えによれば、すべての人間は罪を持っているので神のさばきを受けなければならないのですが、そのさばきを身代わりになって主イエスが十字架で受けてくださいました。主イエスを救い主と信じる者は、主イエスの十字架の死のおかげで、裁きが免除されて、天国に入ることが許されるのです。私たちは、自分では何もしていないのですが、キリストの働きが、私たちに天国の国籍を与えてくれるのです。地上の国籍は、私たちが死ぬときに消えてしまいますが、天国の国籍は永遠に消えることがありません。

  多くの人は、この世がすべてだと思っています。地上の生活のことだけを考えて生きています。そして、大部分の人は、この世で安心して生きて行くためにはお金が一番大切だと考えています。将来のことを考えて生活の計画を立てることは大切なのですが、二つのことを忘れてはなりません。一つは、私たちの人生は地上の生活で終わるのではないこと、もう一つは、私たちは、自分の地上の生活がいつ終わるのか分からないということです。ほとんどの人は自分はすぐに死なないと考えて生きています。しかし、実際には、私たちはいつ死ぬか分かりません。そのことを教えるために主イエスはある一つの例えを話されました。ある一人の金持ちの農夫がいて、あまりにも多くの財産ができたので、これまで懸命に働いて来たから働くの止めて明日からは食べて、飲んで、楽しもうと決心しました。しかし、その夜、神様が彼に言いました。「愚か者よ。おまえのたましいは今夜、お前から取り去られる。お前が用意したものは、いったい誰のものになるのだ。自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」結局、この金持ちの農夫は、自分が懸命に働いて蓄えたものを自分のために使う前に死んでしまったのです。老後の生活、つまり死ぬ前の生活のために準備することは大切なことです。しかし、死んだ後のことを何も考えずに生きることは大変危険だと聖書は教えているのです。私たちは、裸で生まれて裸で死んで行きます。

 クリスチャンは地上のことだけを考えて生きていません。死んだ後のことも考えて、考えると言うよりは、死んだ後の人生を待ち望みつつ、地上の生活をしています。クリスチャンにとって地上の生活がどうでも良いという意味ではありません。ただ、地上の生活のことだけを考えて生きていると、この農夫のような生き方になる危険性があるということです。クリスチャンは、地上で生活をしていましたが、神様が自分とともにおられることを意識して生きています。そして、自分の人生は地上で終わるのではなく、その先にまったく新しい栄光に満ちた世界が待っていることを確信しています。その将来に対する希望がクリスチャンに大きな力を与えるのです。当時のクリスチャンは厳しい迫害に苦しんでいました。しかし、それを乗り越えることができたのが将来に対する希望だったのです。オーストリアの精神科医のビクトール・フランクルという人はユダヤ人であったためにナチスの収容所に入れられました。彼は生き延びることができたのですが、収容所の体験から次のように語っています。「ナチスの収容所で生き延びることができた人は、体が丈夫な人ではありませんでした。生き延びることができた人は、将来に対する希望と勇気を持ち続けた人たちでした。」ローマ帝国は300年間キリスト教を滅ぼすために迫害を続けましたが、キリスト教は滅びませんでした。クリスチャンが確かな希望を持っていたからです。そして、反対に、ローマ帝国がキリスト教の国に変わりました。聖書の中に登場する人物も皆、将来への確かな希望を持っていました。アブラハムも、モーセも数多くの困難と試練がありましたが、最後まで神を信じる信仰を貫きましたが、それができたのは、彼らには将来に対するはっきりした希望があったからです。

 21節には、「キリストは万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」人間の死は、その人の体とその人の魂が一時的に離れることを意味します。体は朽ち果てて行きます。しかし、魂は、死の瞬間に神のおられる場所へ移されます。イエス様が、ある時に、弟子たちにこのように言われました。「わたしはあなたがたのために、天に場所を備えに行きます。私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また、来てあなたがたをわたしのもとに迎えます。」天国とは、私たちのために主イエスが準備してくださる場所です。そして、その準備が整ったら、主は私たちを迎えに来てくださると約束されました。天国は、私たちにとって、死んだ後、初めて行く場所です。初めて行く場所は、どう行けば良いか分からず困ることがあります。例えば、初めて外国に行く場合、飛行機で空港に着きます。入国手続きをして荷物を取って到着ロビーに出ます。そこまではわりと簡単なのですが、空港は、普通、街から離れていますから、そこから町の中心まで行かなければなりません。それが結構難しいのです。電車で行くか、バスで行くか、その乗り場はどこか切符はどこで買うか、いろいろと考えなければなりません。しかし、誰かが迎えに来てくれていれば、何の問題もありません。その人と一緒にいれば、自然と目的地に着くことができるからです。私たちは、ちゃんと天国に行けるのかなと心配する人がいるかも知れませんが、心配する必要はありません。主イエスが迎えに来てくださるのです。これは私の想像なのですが、私たちは、死ぬときに、一瞬の間、眠りにつきます。意識を失います。しかし、その後目を覚ますと、そこに主イエスが迎えに来てくれているのだと思います。私たちは、死んだ瞬間に、そのようにして主イエスと出会うのです。だから何も心配する必要はありません。

 さらに、キリストは、神の力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださる」と書かれています。私たちの卑しい体とは、今、私が持っている体です。私たちの体は神様が創られた素晴らしい体なのですが、なぜ、卑しいと言われているかと言うと、今の体は日々衰えていくからです。どんなに手入れをしていても、今の体は徐々に衰えて、死を迎えます。主イエスが十字架にかけられた後、復活されましたが、主の復活の体は、見た目には十字架の前の体と同じでしたので、出会った弟子たちもイエスだと分かりました。しかし、主イエスの復活の体はまったく新しい体になっていましたので、十字架の前とは主イエスの動きがまったく変わりました。扉が閉じてある部屋に突然現れたり、ある場所から、別の場所へ、瞬間的に移動したり、まったく新しい体になっていました。死んだ後の、私たちの魂は、一時的に魂だけの状態でいるのですが、意識ははっきりしています。そして、世の終わりの時に、私たちも、主イエスと同じように、栄光の体をもって復活する時が来ると聖書は約束しています。その時、私たちに与えられる体は栄光に満ちた体であり、完璧な体です。私たちは地上の体は病気をしたりしてあちらこちらが傷んでいます。私の母は、もともとぽっちゃりした体でしたが、亡くなる1年前ぐらいから食べられなくなって、どんどん痩せて行きました。亡くなる直前の母の体はかわいそうなほどに痩せて自分の力で立ち上がれなくなっていました。わたしはその体を見たときにちょっとショックでした。こんなに痩せていたのかと。しかし、母が復活するときには、神様はきっと母が一番美しかった時の体を与えてくださると信じています。主イエスを信じる者は、このように、将来に大きな希望があります。天国で、栄光に輝くからだを与えられて、永遠に神様と共に生きるのです。黙示録に書かれているように、天国では、神が彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである。」私たちよりも先に天に召されていたお一人一人が、今、このような状況に置かれています。この世のいろいろなものから解放されて、今は、本当の平安の中で生きておられます。今日、教会に集まってくださったご遺族の方々も、このことを覚えてくださって、慰めとしていただきたいと思います。それだけでなく、ここに集まるすべての人が、この永遠の安息が約束された天国に行く道が用意されています。主イエス・キリストが用意してくださいました。皆で、天国に続く道を歩んで行きたいと、私は心から願っています。

2021年11月
« 10月   12月 »
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930  

CATEGORIES

  • 礼拝説教