2021年11月28日 『救い主の到来』(イザヤ書11章1-10節) | 説教      

2021年11月28日 『救い主の到来』(イザヤ書11章1-10節)

 今日から、クリスマスを待ち望む時、アドベントという期間に入ります。アドベントとはラテン語で「到来」という意味を持つ言葉で、キリストが来られることを意味し、そこからクリスマスに主を迎える準備の期間として4週間をアドベントと呼び、クリスマスまでの4週間を主を迎える準備をする時として過ごします。今週からしばらくヨハネの福音書を離れて、クリスマスに関するメッセージを語りたいと思います。今日は、その第一週目なので、主イエスのお生まれに関する預言の言葉を取り上げたいと思います。今日は、旧約聖書の預言書の一つイザヤ書に記された主イエスの預言を取り上げます。

 イザヤ書の11章に記されているのは、救い主イエス・キリストの誕生の預言なのですが、その預言がイザヤに与えられた時の時代についてすこし話す必要があると思います。預言者イザヤが活躍したのは主イエスが生まれる700年ほど前でした。その頃、イスラエルの民はメソポタミアの大国アッシリアからの攻撃を受けて苦しんでいました。イスラエルの民は12の部族で構成されているのですが、ダビデ、ソロモンの時代が過ぎると、一つの国が北イスラエルと南ユダという2つの国に分かれてしましました。北イスラエルには12部族のうち10部族、南ユダにはユダとベニヤミンの2つの部族が住んでいました。イザヤの預言が与えらえる少し前に、実は、北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされてしまいました。北イスラエルの多くの人がアッシリアに連れて行かれ、その代わりに、北イスラエルには多くのアッシリア人が入り込んできました。そのため、イスラエルの10部族の人々はアッシリアの人と結婚することが普通になり、イスラエル民族の血に異邦人の血が混じってしまいました。この地域は、後にサマリヤ地方と呼ばれるようになり、イスラエル民族の血を守ったユダヤ人から軽蔑されることになります。また、南ユダも、アッシリアからの攻撃を受けており、南ユダ王国の人々はアッシリアの恐ろしさを知っていたので、いつも恐怖におびえていました。そのような時代に、突然、預言者イザヤに神様から預言のメッセージが届いたのです。

 1節には次のように記されています。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」根株とは、切り株のことです。それは、以前は立派な木が生えていたのに、その木が切り倒されて残っていた切り株です。これは、イザヤ書の9章10章に記されていることと関係するのですが、南ユダ王国はアッシリアの攻撃を受けていましたが、その後、アッシリアの次に現れたバビロン王国からも攻撃を受け、最終的には滅ぼされてしまいます。南ユダの人々も自分の国を失い、彼らの大部分はバビロンに連れて行かれます。南ユダの人々のはそのような厳しい将来が待ち受けていました。根株とは、アッシリアやバビロン軍の攻撃によって荒れ果ててしまったイスラエルの風景を連想させます。立派な森であった場所が、今はすべて切り倒され、切り株だけが残っている状況、実は、南ユダの人々もそのような苦しい状況の中に置かれていました。切り株だけが残る国に希望があるのでしょうか。しかし、その時に、ひとつの根株からエッサイの新芽が新芽が生え出るという預言が与えられました。エッサイとはダビデ王の父親の名前です。ダビデはしばしば「エッサイの子」と呼ばれました。ダビデ王は、イザヤよりも300年前の王様ですが、彼がイスラエルの王国を大きな帝国にまで広げました。そして、ダビデ王に対して、神様は、ダビデの子孫から救い主が生まれるという預言を与えておられました。しかし、ダビデ王国はソロモンの後南と北に分裂し、すでに北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされてしまいましたし、南ユダは、間もなくバビロン帝国によって滅ぼされてしまいます。地上ではダビデの子孫による王国はなくなってしまいあした。しかし、神様の預言が変わることはありません。ダビデの子孫から、救い主イエスが生まれることになるのです。希望がないように思える時代の南ユダの人々に与えられたのは、やがて来るべき時にメシアと呼ばれる救い主が与えられるという預言でした。イザヤ書の10章の最後の言葉34節に書かれている言葉を読んでみましょう。「主は林の茂みを切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される」と書かれています。レバノンという国は昔から立派な杉の木が生えていることで有名でした。林とかレバノンとは、イメージで言うと立派な杉の大木が生えた森のことで、それは力強さを表しています。34節の言葉は、人間的には大きな力を持っていたアッシリアを暗示しています。神様は、アッシリアを斧で切り倒すと預言しておられます。立派な杉の木の森と比べると、一つの切り株は余りにも無力に見えます。無力な切り株から出る一つの新芽として救い主が生まれるという預言です。アッシリアはレバノンの杉の木に例えられていますが、生まれて来る救い主は、ひとつの小さな新芽に例えられています。これは、主イエスは、本来、王の王、主の主であり、天においても地においても一切の権威を持っておられる方ですが、私たちのために、この世界に来てくださった時は、非常に小さく弱い新芽として現れてくださるのです。主イエスは、権威と栄光に満ち満ちておられる方ですが、それらをすべて捨てて、貧しい幼子として、都エルサレムではなく小さな田舎の村ベツレヘムで、しかも馬小屋の飼い葉おけの中で生まれてくださいました。また、預言者イザヤは、主イエスを「一本の枝」と呼びましたが、主イエスご自身はヨハネの福音書15章で、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」と言われました。本当は、主イエスはレバノン杉の木のような力と権威に満ちた方なのですが、神としての栄光をすべて捨てて、一人の小さな人間としてこの世で生活をされて、私たちのような一つの枝となって一生を過ごされました。しかし、主イエスの枝は実を結ぶと預言されています。主イエスの地上の働きによって、多くの実が結ばれることが預言されています。確かに、主イエス・キリストの十字架と復活によって多くの人が主イエスを信じました。必死になってキリスト教を滅ぼそうとしたローマ帝国も300年後にはキリスト教の国になりましたし、今もなお、世界中に多くのクリスチャンがいます。キリストの働きが実を結んだ結果です。

 2節には「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」と書かれています。確かに、主イエスは切り倒された木の切り株からやっと生え出た弱い新芽のように弱い者になられましたが、その上に、天地創造の神、全知全能の神の霊がとどまりました。主イエスは、神のひとり子であり罪のないお方でしたが、私たちと同じ罪人の立場に立って、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。すると、その時、天が開けて聖霊が鳩のような姿で主イエスの上にとどまりました。この出来事は、主イエスが約束の救い主であることの証拠です。主イエスの上にとどまった神の霊について7つのことが言われています。第一に「知恵の霊」です。聖書が言う知恵とは、神を知ることです。箴言の1章7節に「主を恐れることは知識の初め」と書かれています。聖書は、神を信じること、神様の御心を悟り、神様の御心に従って生きることが本当の知恵だと教えています。私たちは本を読み、勉強をすることで知識を得ることができ、いろいろな技術を身に着けることができます。それらも大切なものですが、神様を知らず、神様の御心を知らずに、神から離れて生きる人は愚か者であると教えています。「悟りの霊」とは、神様を知る知恵を悟って、それを毎日の生活の中で実践することを意味します。「はかりごと」と訳されている言葉は別の聖書では「策略」と訳されています。人間が「策略」を立てるときは自分の利益のために悪いことを企むことが多いです。ここでのはかりごととは、神様の栄光を表すために、あるいは神様から示された使命を果たすためには、何をすればよいのかと思いめぐらし、計画を立てることを意味します。特に、人々の魂が救われるためにどうすればよいか、思いめぐらすことです。「能力」とは、そのような神に栄光を表すためのはかりごとを実行に移す能力を意味します。主を知る知識とは、主の御心をはっきりと見出すことができる力です。そして、主を恐れる霊とは、神様の前に謙遜になることです。この世においては、人が知識を増やしたり、能力を高めたりすると、傲慢になることが多く、神を恐れず、自分が神であるかのように考える人がいます。神の前に高ぶる人は、神に近づくことができません。霊的な知恵や知識を得る人は、ますます神の前に謙遜になって神様を心から尊敬する人になります。主イエスには、このようにはたらく聖霊が、地上での生涯の間、ずっととどまっていました。このことこそ、主イエスが約束のメシアである証拠です。メシアというヘブル語は油を注がれた人という意味の言葉ですが、よく油は聖霊に例えられます。主イエスには、聖霊の油注ぎがあったからこそ、メシアとしての務めを完全にやり遂げることができました。それは、私たち罪人が罪の罰を受けなくても良いように、ご自分が身代わりとなって十字架でいのちを犠牲にするという務めでした。

 キリストの生涯を音楽で現わしたヘンデルのメサイヤの中にハレルヤコーラスがありますが、その歌詞の中で、キリストのことを何度も繰り返して「王の王、主の主」と歌います。キリストはそのようなお方なのですが、私たちを救い出すためにご自分の栄光をすべて捨てて、私たちと同じ姿を取ってくださいました。聖書は、神から離れて生きている人は、体が死んだ後、魂が永遠の滅びに陥ると教えています。私たちは体が死んでも、魂は生き続け地上の生活の記憶と意識は残ります。その状態で、永遠の滅びに陥ることは恐ろしいことです。そのような私たちを永遠の滅びに陥ることのないように救い出すために、神の栄光の場所を離れてこの世に来てくださったのが救い主イエスなのです。救い主イエスはどのような方でしょうか。3節4節には「この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決をくだす。」と書かれています。主イエスは、決して人を外見、その人の地位、学歴、仕事、財産、住んでいる家、そのようなその人の外側を見て判断することはありません。私たちは、どうしても、人を評価するときに、その人の外側や、その人が持っているもので判断しがちです。しかし、それらのものは、その人そのものではありません。主イエスは、その人の心の中にあるものを見られます。また、その人が言った言葉だけで判断することもありません。私たちは、時々、自分の本当の気持ちではないことを言うことがあります。しかし、主イエスはそれらをすべて見通しておられます。

 また、主イエスは正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下されます。わたしはたまたま昨日NHKの大河ドラマの土曜日の再放送を見たのですが、その中で、貧しい子供を預かっている養育院に対する予算について政治家が議論している場面がありました。当時、まだまだ国としても貧しかった日本が、貧しい子供のために使うお金などないと多くの政治家が主張する場面がありました。政府が、国の力を強くするために、弱い人々を犠牲にして産業や経済にお金をかけることがよくあります。しかし、主イエスはそうではありません。主イエスは何度も奇跡を行われましたが、ほとんどが、貧しい人、苦しんでいる人を助けるための奇跡でした。地上では、本当に公平な政治を行うことは不可能です。社会主義や共産主義など、いろいろな考え方が生まれましたが、どこの国にも、どのような政治体制にも裕福な人と貧しい人の格差があります。本当に公平な政治は、キリストが支配してはじめて可能になるのです。5節に「正義が腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。」と言われています。帯とは、すべての衣服に必要なもので、どんなに美しい服を身に着けても、最後に帯をつけないと、ひどい姿になってしまいます。また、帯を着けないと自由に体を動かすこともできません。この世の中に、いろいろな能力や才能を持っていながら、正義と真実の帯をつけていないために、その力を十分に発揮できない人がいますが、それは、最後にそれをまとめるキリストという帯を身に着けていないからです。正義と真実の帯、それが主イエス・キリストです。私たちが生きる時に、必ず身につけなければならない帯です。

 6節から9節までには、キリストがこの世界を支配するときの様子が描かれています。聖書は、世の終わりの時に、キリストがこの世界を支配する時が来ると預言しています。その時、この世界は、今は互いに殺しあう動物も殺しあうことを止め、楽しく共存する様子が描かれています。赤ちゃんが毒蛇と遊んでもなんの問題もなりません。災いや呪いはすべて消え去り、天国が地上で実現するのです。9節に結論として、「主を知ることが海をおおう水のように地に満ちるからである」と言われています。今日、世界中に様々な問題があるのは、人間の文明がどれほど発達していても、人々が神を知らないために、文明が人間に災いをもたらしているからです。しかし、世の終わりの時に、すべての人が神様を自分の神として知るようになる時、6節から9節までに描かれている世界が実現します。その時、人々は、本当の幸せを経験します。主イエスが、この世に来られたのは、私たちを罪の裁きから救うためですが、その救いの目的は何かというと、私たちが神を知ることなのです。主イエスは、最終的に、人間が本当の幸福を持つことができるように、私たちに神を知らせる者として来られたのです。だからこそ、クリスマスの時に、私たちは主イエスのお生まれを喜ぶのです。 

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