2021年12月5日 『神にとって不可能はない』(ルカ1章28-36) | 説教      

2021年12月5日 『神にとって不可能はない』(ルカ1章28-36)

 クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日ですが、その誕生は、本当に不思議な誕生であり、まさにありえない誕生でした。普通、歴史的な偉大な人物の誕生にはいろいろなストーリがあり、その人の偉大さを称えるために事実とはかけ離れた伝説が作られています。例えば、仏教を開いた釈迦は生まれた直後に立ち上がって7歩歩いて右手で天。左手で地を指さして、「この世界に生きる人は一人一人が尊い存在である」という教えを説いたという伝説があります。しかし、主イエスの誕生にはそのような美化した伝説はありません。むしろ非常に目立たない質素な誕生ですが、普通に考えるとありえない誕生です。ただ、それは、主イエスが神であることを一時的に捨てて、私たち同じ人間となってこの世に来られた目的のためだからこそ、ありえない誕生なのです。イエス・キリストがこの世に来られたのは、一言で言えば十字架で死ぬためでした。私たち人間は、神と共に生きるために神に似た姿と能力が与えられた素晴らしい存在として創られたのですが、そのような能力の一つが自分で選ぶ自由と力でした。神様から与えられた能力は正しく使えば大きな祝福になるのですが、使い方を間違えると、大きな損失をもたらします。最初の人間アダムとエバは、「選ぶ自由」を間違って使ったために、彼らの魂が傷を受けてしまい、彼らから生まれるすべての子孫は、神に逆らう性質を持って生まれるようになりました。それを聖書は、人は罪を持っていると言います。その罪には裁きが伴うのですが、罪の裁きは死です。体の死だけでなく魂の死です。その罰を、神であって罪がなく裁きを受ける必要がないのに私たちの完全な身代わりになって十字架の刑罰を受けるために、主イエスはこの世に来られました。神としての権威を保つためには、イエスは大人の姿で現れるほうが良いと思われますが、イエスは、私たちの完全な身代わりになるために、普通の人間とまったく同じプロセスで、この世に来られました。つまり、赤ちゃんとして生まれてくださいました。しかし、ここに問題が生じます。イエスは罪のない存在でなければなりません。借金がある人が他の借金の肩代わりをすることができないように、罪を持つ人が私たちの身代わりになって罪の刑罰を受けることはできません。たとえ、罪を持つ者が十字架について死んだとしても、それはその人の罪の罰を受けたのであって、他の人の身代わりにはなれないのです。それで、主イエスはヨセフとマリアの子どもとして生まれたのではなく、聖霊の働きによってマリアの胎内で人間として生き始めることになりました。その結果、イエス・キリストの誕生プロセスがありえないプロセスになりました。それは、主イエスの誕生に何か神秘的な雰囲気を与えるためではなく、イエスが人となってこの世に来られた目的を実行するにはどうしても必要なことだったことを理解しなければなりません。

 キリストの誕生は、御使いがマリアを訪れる事から始まります。26節に、「御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。」と記されています。神がキリストをこの世に送り出すために、ナザレに住むマリアが選ばれました。ナザレは、エルサレムから120キロほど北のガリラヤ地方の山の中腹にある町でした。ギリシャ語ではポリスという言葉が使われています。当時、町が大きいか小さいかは、その町が城壁で囲まれているかどうかによって決まりました。大きな都市には必ず城壁がありました。ポリスとはそのような大きな町を意味する言葉なので、ナザレはガリラヤ地方では大きな町であり、エジプトとメソポタミア地方を結ぶ幹線道路に面していました。また、ナザレにはローマの軍隊の基地がありました。基地がある町にはありがちなことですが、当時のナザレには犯罪や不道徳なことが多く起こっていました。当時のユダヤ人でナザレを良い町だと考える人はいなかったでしょう。しかし、そんなナザレにも、本当に神様を信頼して生きているマリアやヨセフのような人たちも住んでいました。神様は、イエスをこの世に送り出すための器としてマリアという女性を選ばれました。きっと、都のエルサレムにはマリアよりもずっと身分の高い、裕福で、教育を受けた女性が数多くいたはずです。しかし、神様は人のうわべを見ることはなく、心の中を見ておられます。マリアは、心が純真だったので、神様に特別に選ばれたのでしょう。

 マリアに御使いガブリエルがメッセージを伝えます。28節で御使いはマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられます。」御使いは、マリアを「恵まれた方」と呼びました。」「恵む」という言葉は、「人を恵みで取り囲む」という意味を持っています。神様がマリアを恵みで取り囲もうと思われたのは、マリアがイエスをこの世に送り出すのに最適な女性であると見なされたからです。そして、神様は彼女を恵みで包み込もうと決心されたのですが、このことから分かることは、神様は地上で生きる人間一人一人をよく見ておられて、私たちがどのような人間であり、どのような生き方をしているのかすべてご存知だということです。神様は私たちをいつも見守っておられます。マリアは御使いの言葉を聞いてひどく戸惑いました。マリアの年齢は10代半ばだと思われますので、彼女が戸惑ったのも無理はありません。もちろん、自分の目の前に御使いが現れたことにも彼女は驚いていますが、それ以上に、マリアには、神様が自分のことを「恵まれた方」と呼んだことが不思議でした。彼女は、自分が罪人であることを知っていたので、自分はそのように呼ばれるのは相応しくないと考えたからです。

 しかし、彼女はさらに驚くメッセージを聞くことになります。31節から33節に、御使いガブリエルのメッセージが記されています。あいさつに続いて御使いがマリアに語った言葉は、完全にマリアの理解力を超えるものでした。御使いのメッセージは、マリアが近いうちに身ごもって、男の子を産むというものだったからです。10代半ばのマリアにも、赤ちゃんがどのように生まれるかということは知っていたはずです。そして、自分が婚約者のヨセフと肉体的な関係を持っていないかったので、自分が男の子を宿すというガブリエルの言葉の意味が全く理解できませんでした。しかし、さきほど述べたように、主イエスは私たちと全く同じ肉体を持つ人となられましたが、罪を犯さない神としてのあり方を保つためには、イエスの血に父親の血も母親の血も混じり合うことは許されません。イエスの血に人間の血が混ざると罪の性質が入ってしまうからです。イエスの体は、マリアの胎内で、神様によって創造されるのです。このありえない奇跡をマリアが理解できないことは当然のことでした。ガブリエルはマリアに、生まれて来る男の子に「イエス」と名づけるように命じています。「イエス」という名前は、ユダヤ人の男の子によくある名前「ヨシュア」をギリシャ語で表したものです。ヘブル語の「ヨシュア」という名前には、「エホバの神は救い」という意味があります。この名前は、生まれて来る赤ちゃんの働きを表す名前でした。ガブリエルはイエスがどのような救い主であるかを32、33節で語っています。「その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」完成した聖書を持っている私たちには、イエスがどういうお方であるのか、ガブリエルの言葉の意味も、ある程度なるほどとうなづくことができますが、マリアには、この言葉の持つ意味を理解することは到底不可能でした。「大いなる者」「いと高き方の子」「父ダビデの王位」「その支配に終わりはない」これら一つ一つの言葉が、生まれて来る幼子を表すには、余りにもスケールが大きいからです。神であるイエスを人間の言葉では十分に表現することはできません。神が人となるということは言葉では表せないことなのです。

 マリアはガブリエルに質問しています。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」マリアの質問は、ガブリエルの言葉を信じないから尋ねた質問ではありません。彼女は自分が男の子を産むことを信じたのですが、それがどのように起きるのかが分からずに質問しました。それに対して、ガブリエルは答えました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」聖霊があなたの上に臨むと御使いは言いました。この世の始まりの時、創世記1章を見ると、「この地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」と記されています。世界が始まる前に、神の霊が動いていました。神様は何もないところから天と地とその中にあるすべてのものをお創りになりましたが、聖霊がその働きに深く関わっていました。今回、マリアのお腹の中にイエスのいのちが創られた時も、その時と同じように、聖霊がマリアを覆って、マリアの胎内に新しいイエスのいのちが創造されました。聖霊の働きによって、マリアの体の中で神の大きな奇跡が起こるのです。最後に御使いはマリアに言いました。「神にとって不可能なことは何もありません。」全知全能の神にとって、不可能なこと、ありえないことは何もないのです。

 御使いの言葉を聞いてマリアは答えました。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。」マリアは自分のことを「はしため」と呼んでいます。「はしため」と訳されたギリシャ語は「奴隷」という言葉です。彼女は、自分をこのように呼ぶことによって、神様の命令には何でも従いますという決意を言い表しています。彼女は、自分に関わる神様の計画をすべて受け入れることを決心していました。だから、彼女は「どうぞ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように」と答えているのです。しかし、これは本当に勇気のいる決断です。彼女は、御使いに対して何一つ質問していませんが、彼女のこれから数日、あるいは数か月の生活を考えると、マリアは御使いに質問したいことは山ほどあったと思います。自分の婚約者のヨセフが神の子どもを宿した自分のことをどのように思うだろうか、自分の親はどう思うか、近所の人はどういうだろうか。ユダヤ教の先生は何と思うだろうか、彼女には、数えきれないほど多くの心配事がありました。マリアが神の子どもを宿したと言っても、他の人の目には、マリアが不倫をしたとしか見えません。当時の律法では、婚約中に不倫をして妊娠した女性は石打の刑で死刑になりました。しかし、彼女は、騒ぐことなく、神様に文句を言うこともなく、すべてを受け入れ、すべてを神様に委ねました。マリアにはそれだけの信仰、神様への絶対的な信頼がありました。それが彼女の素晴らしさです。カトリック教会のように私たちはマリアを神としてあがめることはしませんが、彼女がイエスをこの世に送り出す女性に選ばれたのは、彼女の素晴らしい信仰を神様がご覧になったからです。私たちは、マリアのように、神様を信頼し、神様の御心に従うことができるでしょうか。

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