2021年12月12日 『馬小屋で生まれた救い主』(ルカ2章1-7節) | 説教      

2021年12月12日 『馬小屋で生まれた救い主』(ルカ2章1-7節)

 ルカの福音書の2章に約2000年前のクリスマスの出来事が記されています。ルカは、福音書を書くように神様から示された時に、できるだけ、当時の世界の情勢を描くことによって、この出来事が作り話ではなく、実際に起こった出来事であることを強調しています。1節にはこう書かれています。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。」当時のイスラエルはローマ帝国に支配されていましたが、時の皇帝はアウグストゥスという人物でした。彼は紀元前27年から約40年間、ローマ皇帝として世界を支配しました。彼のもとでローマ帝国の領土は最も大きくなり、当時の世界のほとんどがローマ帝国に支配されていました。ただ、アウグストゥスというのは名前ではありません。その皇帝の名前はオクタビアヌスと言います。アウグストゥスというタイトルには「いと高き者」とか「聖なる者」という意味があります。彼は非常に傲慢な人物で、ローマ帝国の人々に自分を神としてあがめることを求めたのです。ある時、皇帝がローマ帝国全土に住民登録をせよとの命令を出しました。当時のローマ帝国では14年に1度、このような住民登録が行われていましたが、その目的は2つです。登録する人から税金を集めることと、軍隊に入る男を集めることでした。ローマは、人々にかなり重い税金を課していたので、ユダヤの人々の生活はかなり苦しかったようです。しかし、ローマ皇帝が出した命令には、すべての人が従わなければなりませんでした。住民登録は、自分が属する部族の町、先祖が住んでいた町で行うことになっていました。ヨセフもマリヤもともにダビデの家系の子孫であったので、二人とも住んでいたナザレの町からベツレヘムまで行って登録しなければなりませんでした。ナザレからベツレヘムまで約150キロ、出産の時が迫っていたマリヤにとっても、ヨセフにとっても、結婚早々、かなり大変な旅をしなければなりませんでした。

 表面的に見ると、税金と兵隊を集めるために、ローマ皇帝が自分の利益のために行った住民登録に、若い二人が振り回されているように見えます。しかし、実は、この出来事は神様の計画に従って起きた出来事でした。神様が救い主を決められた時に決められた場所で生まれるようにするために、神様がアウグストゥスの勅令を用いられたのです。もちろん皇帝自身は神様の計画について何も知りません。皇帝は、自分が神と同じ権威と力を持っていることを示すために、この勅令を出したのですが、実際には、彼の行動は神様に用いられていたのです。旧約聖書には、救い主が生まれる場所がはっきりと預言されていました。旧約聖書のミカ書という預言書の中に次のような預言が記されていました。「ベツレヘム、エフラタよ。あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」エフラタというのはベツレヘムの古い名前です。神様のご計画の中で、救い主は、ダビデ王の子孫から生まれることが決まっていましたが、ベツレヘムはダビデ王のふるさとでした。すべてのことは、全能の神の支配の中で行われたのです。もし、この時に、アウグストゥスが住民登録をしなかったら、救い主はナザレで生まれていたかも知れません。しかし、歴史は、神様の計画どおりに動いて行きました。

 住民登録の命令が発表されてから、ローマ帝国では、人々の大移動が始まりました。誰もが、自分のふるさとに行かなければならなかったからです。3節に「人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。」と書かれています。ベツレヘムは小さな村ですが、かつてのイスラエルの英雄ダビデ王の出身地でした。ナザレはガリラヤ地方の山の中腹にある町でした。ナザレからベツレヘムに行くためには、いったん山をおりて平地に行き、またベツレヘムの近くで山を上って行かなければなりません。出産の時が近づいていたマリヤにとっては大変辛い旅であったに違いありません。若い二人が旅をする姿は、一般の人の目には哀れに見えます。二人は、あまり評判の良くない町ナザレ出身の貧しい夫婦であり、ローマ皇帝が出した勅令のために、マリヤの出産の時が近づいているのに、大変な旅をしなければなりませんでした。しかし、この旅の間、二人はどのような気持ちだったでしょうか。二人は、世の中の人が誰も知らない秘密を知っていました。それは、マリヤのお腹の中にいるのは、自分たちの子どもではなく、神様から遣わされた救い主であることでした。したがって、人の目には大変そうに見える二人の旅ですが、二人は意外と、救い主の誕生に対して大きな希望と期待を抱いていたかもしれません。特にマリヤは、自分がイエスをこの世に送り出す器となったことを光栄なことと受け止めていました。ルカの福音書1章46節から、マリアの賛歌と呼ばれるマリヤの言葉が記されていますが、彼女は自分のことについてこう言っています。「私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために、目を留めてくださったからです。ご覧ください。今からの後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。」彼女は、神様が救い主の誕生のために自分を選んで下さったことを喜んで歌っています。実際には、マリアは大変な時間を過ごしたはずです。周りの人々は、マリアのお腹の中にいるのが救い主であることを信じてはいないので、マリアを罵ったりのけ者にしたりしていたはずです。しかし、彼女は、そのような状況の中でも、自分は幸いな者であると歌っているのです。マリアの信仰は本当にすごい信仰だと思います。従って、ベツレヘムまでの旅も、周りの人々から見ると大変な旅ですが、彼女は、自分が救い主の誕生に関わっていることを喜んでいたと思います。

 マリヤとヨセフが150キロの旅を終えてベツレヘムに着いた時、二人は心身ともに疲れ果てていたことでしょう。特に、出産を控えていたマリヤはすでにお腹の痛みを感じていたかも知れません。世の人々を罪から救う救い主の誕生でしたが、その様子には何の栄光も、輝きも、ファンファーレもありませんでした。誰に知られることもなく、しかも誰からも歓迎されない、そんな誕生でした。ルカは、その様子を、ひどく簡単に述べています。6,7節を読みましょう。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」7節に「宿屋」という言葉がありますが、当時の宿屋は、非常に粗末なものでした。本当に粗末な小屋が並んでいて、外には、旅に連れて来た家畜をつないでおく場所が用意されているだけでした。ある日の夜、長旅を終えたヨセフとマリヤが、ベツレヘムに着いた時、そのような粗末な宿屋もすべて一杯になっていました。、救い主の誕生を迎える場所は用意されていなかったのです。ヨハネの福音書の1章に、救い主イエスがこの世に来られたことが書かれていますが、11節にはこう書かれています。「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」主イエスがこの世に誕生する時、イエスを受け入れる人もなく場所もありませんでした。当時の家畜小屋は、建物というよりも、岩をくりぬいて作った洞穴のようなものが多かったようです。汚く、不衛生で、動物のおしっこや糞のにおいがひどくハエがぶんぶん飛んでいるような場所です。主イエスは、王の王、主の主と呼ばれるお方であり、天においても地においてもすべての権威を持っておられる方です。神であるお方が天の栄光を捨てて、この世に来られたのですが、誰も主を迎える者はなく、本当に哀れな誕生でした。ヨセフは、きっと、震える手で生まれて来た赤ちゃんイエスを取り上げたことでしょう。ヨセフの手の中にあったのは、本当に弱々しく人の助けがなければ生きて行けない赤ちゃんでした。この世界のすべてを支配しておられる方が、普通の赤ちゃんと同じように泣き声を上げました。

 7節に、マリアは男の子を産んで、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせたと書かれています。当時、人々は生まれたばかりの赤ちゃんの体全体を、布でしっかりとくるんでいたので、小さなミイラのようになっていました。手も足も腕もすべて布でしっかりと巻きつけられていました。それは、赤ちゃんを守るためでした。お母さんの胎内にいる時には、赤ちゃんは安全でしたが、外に出ると、赤ちゃんにとって危険なものがたくさんありましたから、赤ちゃんは布でぐるぐる巻きにされたのです。ちょっとおかしな感じがしますが、赤ちゃんの体を包むのと、死んだ人の体を包むのはほとんど同じだったのです。イエス様は、私たちの身代わりとなって十字架で死ぬために生まれたので、主イエスが布にくるまれた姿は、イエスの十字架を連想させるものでした。 この日、世界中で生まれた赤ちゃんの中で、主イエスの誕生は、最も哀れな誕生だったでしょう。神のひとり子である主イエスは、ローマ皇帝のような権力も栄光もなく、本当に貧しい家庭の赤ちゃんとして生まれてくださいました。キリスト教の信仰はここから始まりました。このキリストの誕生の姿こそ、私たちの信仰の始まりを表しています。赤ちゃんは、自分一人では生きて行くことができません。誰かの助けを受けて初めて生きることができます。信仰の第一歩は、自分一人では生きて行かないことを認めることから始まります。主イエスは、心の中に神様の助けが必要だと感じている人、言い換えると、心の貧しい人の心の中に生まれてくださるのです。黙示録の3章20節に次のような主イエスの言葉が記されています。「見よ。わたしは戸の外の立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って、彼と共に食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」主イエスは、私たちの心の中に入ろうとノックしておられます。しかし、2000年前の人々も、今の人々も、主イエスを自分の生活の中に迎え入れようとしません。多くの人々は、自分の仕事、自分の能力、自分の財産に満足していて、神様が必要だと感じていません。人々は、これらのものを持っていれば安心だと考えているからです。しかし、この世のものはすべて一時的なものであり、いつどうなるか分かりません。神様を自分の生活から外に追い出している人は、その危険性に気づいていません。人は、神様から離れて生きていると、永遠の滅びに向かって生きていることになります。主イエスは、そのような人々の心の中に入るために、この世に来てくださいました。主イエスは、私たちの心の扉を無理やり開いて入り込むことはされません。「入ってもいいか」と尋ねながらノックし続けておられます。人は神と共に生きるように造られました。神から離れて生きることが、私たちに様々な問題を引き起こしているのです。主イエスは、あなたが自分から心の扉を開くのを待ち続けて、ノックをし続けておられます。あなたは、主イエスを扉の外に追い出されますか、それとも、心の戸を開いて中に迎えらえるでしょうか。

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