2022年1月2日 『永遠のいのちを持つためには』(ヨハネ17章1-8節) | 説教      

2022年1月2日 『永遠のいのちを持つためには』(ヨハネ17章1-8節)

 クリスマスのシーズンが終わって、今日から再びヨハネの福音書に戻ります。ヨハネの福音書の13章から16章までには、最後の晩餐の時に、主イエスが弟子たちとの別れの前に語られた最後の説教が記されています。主は、弟子たちへの教えを語り終えると、長い祈りを祈られました。その祈りが17章全体に記されています。長い祈りですが、この祈りは3つの内容が含まれています。第一は、自分自身のための祈り、第二は、地上に残していく11人の弟子たちのための祈り、そして第三は、すべての時代のすべてのクリスチャンのための祈りです。今日は、その中から最初の、主イエスがご自身のために祈られた祈りを学びたいと思います。ただ、ここでご自分のために祈っておられますが、同時にすべてのクリスチャンのためにも祈っておられます。主イエスがいつも自分を救い主と信じて生きているクリスチャンのことを心に留めておられたのです。17章の主イエスの祈りは「父よ時が来ました。」という言葉で始まっています。主イエスは、3年余り、神の子として働いておられましたが、繰り返して、「わたしの時」という表現を使っておられます。一番有名なのは、主イエスが最初の奇跡をカナという村で行われた結婚式で、客に出すブドウ酒が亡くなった時に、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われました。その時、ブドウ酒がなくなったことに気づいたイエスの母マリアは、主イエスのところへ行ってブドウ酒がなくなっていることを伝えました。しかし主イエスは母親アリアに、「私の時はまだ来ていません」と言われました。このことから分かるのは、主イエスは、私たちの身代わりとなって十字架で死ぬために、父なる神に遣わされてこの世に来られました。その時から、主イエスの頭の中には、十字架を中心としたタイムテーブルがありました。主イエスは、つねに、このタイムテーブルに従って行動しておられたので、カナの結婚式の時には、「まだ私の時は来ていません」と言われたのです。その主イエスが、ついに「わたしの時が来ました」と父なる神様に向かって言われました。いよいよ、主イエスが十字架に向かって歩みだす時が来たのです。主イエスがここで、長い祈りを父なる神様に向かって祈られた理由は、時が満ちて父なる神から委ねられた務めを果たす時が来たので、そのための心の備えをするためだったことが分かります。十字架に掛かることは、父なる神から与えられた使命でした。、罪のないキリストにとって、十字架の上であらゆる人々の罪をすべて背負って、自分のいのちを犠牲にすることは、私たちの創造を超えた、大きな使命でした。。その使命を果たすために、主はここで、長い祈りを捧げられたのです。

(1)私の栄光を表してください。

 1節で、主は続けて祈られました。「あなたの子が栄光を表すために、子の栄光を表してください。」主イエスは、1節から8節の自分のための祈りの中で5回繰り返して「栄光」という言葉使っておられます。主イエスは、1節から8節で自分の願いを祈っておられますが、主イエスが願ったことは、ただ一つ、自分の栄光を表してくださいということでした。ここで、主イエスは「神のひとり子としての栄光」を父なる神に求めておられますが、この栄光とは、自分が十字架にかかることを指していることは明らかです。4節で、主は次のように祈っておられます。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を表しました。」主は、父なる神から与えられた、私たちのために十字架にかかるという使命を果たすことが、父なる神の栄光を表すことだと言っておられるのです。言い換えると、父なる神が、永遠の昔から計画されていたこと、すなわち、罪によって神から引き離されている人間をもう一度神と共に生きることができるように、罪人に代わって十字架の刑罰を受けるという自分に与えられた使命を完全に成し遂げることができるようにしてくださいと、父なる神に向かって祈っておられるのです。主イエスは、自分が父なる神様から委ねられた使命を忠実に果たすことが、父なる神の栄光を表すことであり、それが主イエスの一番の願いでした。父なる神の栄光を表すことができるように、自分が父なる神から委ねられた使命を忠実に果たすことができるようにと、主イエスは祈られました。

主イエスが父なる神様に自分のことで祈っておられるのはこのことだけです。実は、神の栄光を表すのは、御子イエスだけがするべきことではありません。人間にとって生きる目的は神の栄光を表すことなのです。昔、クリスチャンの家族で父親が家族に信仰を教えるための参考書として、教理問答という本がありました。その本の中には信仰に関する質問が書いてあり、その答えが書いてあります。これを覚えることによって人々は神様を信じることの意味を理解して行きました。その教理問答集の第一問は「人間が生きる目的は何ですか」であり、「人が生きる主な目的は、神の栄光を表すことであり、永遠に神を喜ぶです。」というのがその答えになっています。聖書は、すべての人が生きる目的は、神様の栄光を表して生きることであり、神様を喜んで生きることだと教えているのです。私たちも、主イエスと同じように、神様の御心に従って生きることが神の栄光を表すことになります。そのことについてはエペソ人への手紙2章20節は次のように教えています。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです。」私たちは、神様から良い行いをするために造られたのですから、私たちは良い行いをすることが神様の栄光を表すことになります。

  • 主イエスが持っておられる権威

父なる神様は、御子イエスに、私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかるという使命をお与えになり、御子イエスはその使命を忠実に果たすことをこの祈りの中で祈っておられるのですが、同時に、父なる神様は御子イエスに、権威をお与えになりました。主イエスは2節でそのことを祈っておられます。「それは子が、あなたからいただいたすべての者に永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」 多くの人は、主イエスが十字架に掛けられたのは、イエスに敵意を抱いたユダヤ教の指導者たちの陰謀に負けた結果だと考えています。しかし、主イエスはそう言ってはおられません。主イエスは、自分が十字架にはりつけにされるのは父なる神から与えられた使命であり、それを果たすことによって、父なる神の栄光を現わすのだと言っておられます。そして、その目的は、父なら神様から与えられたすべての人に永遠のいのちを与えることにあると言われました。確かに、主イエスは、ユダヤ教指導者たちの悪意に満ちた行動によって、まったく不当な裁判を受けられましたが、主イエスは彼らにそのように行動することをお許しになったのであって、実は、それは主イエスの権威のもとで行われたことでした。このことについては主イエスご人が語っておられます。ヨハネの福音書10章18節を読みましょう。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令を父から受けたのです。」イエスの十字架の死は、完全に父なる神と御子イエスの権威のもとで行われたことだったのです。主イエスは、2節で祈られたように、すべての人を支配する権威を父なる神から与えられていました。しかし、主イエスが永遠のいのちを与えるのはすべての人ではありません。2節で主イエスはこう言われました。「子が、あなたからいただいたすべての者に永遠のいのちを与えるため」この言葉を説明すると、父なる神様は、御子が永遠のいのちを与える人をあらかじめ選んでおられることを意味します。主イエスには、これらの人々に永遠のいのちを与える権威が与えられていたのですから、主イエスの十字架は、決して主イエスの敗北ではなく、主イエスの勝利であったことを意味します。ここで、主イエスが「父なる神からいただいだすべて者」とは誰のことを指すのでしょうか。確かなことは、今、この礼拝に出席しておられる方は、皆、父なる神様によって選ばれた人々です。父なる神様から永遠のいのちを受けるために選ばれているから、今、神を礼拝する場におられるのです。私たちに永遠のいのちを与える権威を持っておられるのは世界中に、主イエスお一人です。主イエスの十字架を受け入れることによって、初めて、私たちに永遠のいのちが与えられるのです。この世の中に宗教が数えきれないほどあります。そして、それらの教えは、人々が地上で悩み苦しむことにある程度の助けにはなっています。しかし、キリスト以外に、私たち人間に永遠のいのちを与える権威を持っている人は一人もいないのです。

  • 主イエスが与える永遠のいのち

 3節で、主イエスはこう言われました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」21世紀は多様性を主張する時代です。唯一の真理とか絶対的な真理という考え方を人々は嫌います。しかし、私たちが住む世界が、このように完璧に調和が取れていて、規則正しく動いているのは、様々な神によって支配されているからでしょうか。それは考えられないことです。飛行機のコックピットには操縦士と副操縦士が乗り、2つの操縦ハンドルがついています。しかし、空を飛ぶときにはどちらか一人が操縦しているのであって、二人が同時に自分勝手に操縦することは絶対にありません。そんなことをすると飛行機はすぐに墜落してしまいます。私たちの世界では、毎日1日が24時間で終わり、地球はまったく同じスピードでまったく同じコースを通って1年に1回太陽の周りを回っています。普通は、最初は早く動いていてもだんだんスピードは落ちて行きます。しかし、地球の速度はまったく変わりません。なぜでしょう。絶対的な存在である唯一の神様によってコントロールされているからです。主イエスは3節で、永遠のいのちは、唯一のまことの神、父なる神と御子イエス・キリストを知る者に与えられると言われました。知るとはただ単なる知識で知っているという意味ではありません。神様と個人的な交わりを持っているという意味です。私は、スマップのきむたくを知っていますが、それは、知識で知っているだけで、木村拓哉さんとはまったくお付き合いがありません。ここで「知る」という言葉の意味は、唯一のまことの神と親しい交わりを持っていることを意味します。私たちは、主イエスを信じたことによって、神のこどもとされ、最初の人間アダムとエバが持っていた神様との親しい交わりを回復します。私たちは誰かと親しい交わりを持つと、相手からいろいろな影響を受けます。私たちが神様と親しい交わりの中に入れられると、私たちが神様に与えられるものは何もありませんが、私たちは神様から様々な良い物を受け取ります。神様の平安や、神様の喜び、神様のきよさや、神様の愛を少しずつ受け取ります。永遠のいのちとは、ただ時間的に永遠に生きるいのちではなく、神様と、親しい交わりを持って生きることを意味します。もし、私たちが時間的な意味だけで永遠のいのちが与えられるとしたらどうでしょうか。例えば、無人島で永遠のいのちが与えられて生きることは楽しいことでしょうか。むしろ苦痛だと思います。永遠のいのちとは、生きる時間の長さではなく、素晴らしい生き方を意味します。それは、神様との交わりを喜んで生きることです。永遠のいのちは時間の長さのことを意味するのではないので、この永遠のいのちは、私たちが死ぬときに与えられるのではありません。私たちが主イエスを救い主と信じる時に与えられるのです。永遠のいのちとは、今も、将来も、そしていつまでも、神様との喜びの親しい交わりの中で生きることです。今も、私たちは、神に祈ることと神の言葉である聖書の言葉を聞くことによって神様との交わりに入っています。ただ、まだ神様を自分の目で見てはいません。それは、私たちが死んだ後に経験することです。その時、天国のおいて、私たちは、父なる神と、御子イエスをはっきりと見ながら、喜んで神様を礼拝しつつ生きるようになるのです。主イエスは、私たちにこのような永遠のいのちを与えるために、天国を離れてこの世に来て、そして、十字架に掛かってくださいました。私たちは主イエスの十字架に感謝しつつ、神様との親しい交わりの生活を喜びと感謝をもって、今からずっと生き続けるのです。

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