2022年1月9日『主イエスの12弟子のための祈り』(ヨハネ17章9-19節) | 説教      

2022年1月9日『主イエスの12弟子のための祈り』(ヨハネ17章9-19節)

 ヨハネの福音書17章には、主イエスが弟子たちと最後の食事をされた後、父なる神様に向かって祈りを捧げられましたが、それが17章全体に及ぶほどに長い祈りでした。先週読んだ1節から8節には、主イエスが自分のために祈る祈りが記されています。自分のための祈りと言っても、主が祈られたのは、自分に与えられている十字架という使命を完全にやり遂げることができることを求める祈りでした。続いて、主イエスは、ご自分で選ばれた弟子たちのために祈られました。もともと主イエスの弟子は12人でしたが、イスカリオテのユダは、すでに、イエスを裏切るためにユダヤ教の指導者たちのところへ行ってしまったので、主イエスは11人の弟子たちのために祈られました。自分のためではなく他の人のために祈るいのりを「とりなし」と言いますが、主イエスは、この時だけ、とりなしの祈りを捧げられたのではありません。主は、十字架の死から三日目に復活され、その後、天に戻られて父なる神の右におられますが、今、主イエスは、天において、私たちのためにとりなしの祈りをささげておられます。そのことがローマ人への手紙8章34節に記されています。「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」この言葉は、私たちにとって大きな慰めです。私たちは、神様に祈ることで大きな助けや慰めを得ますが、それだけはないのです。主イエスが、今現在、天において、私たちのためにとりなしの祈りを捧げてくださるのです。サタンは私たちの耳元でささやきます。「お前は罪人だ。お前の罪が許されるはずがない。」と言って、私たちを罪人として裁こうとします。しかし、主イエスは、私たちのために、私たちの罪が赦されるために、父なる神様に向かって祈ってくださるのです。罪を許される資格がない人など一人もいません。主イエスはすべての人々のために、過去にどんな大きな罪を犯したとしても、主イエスはその人のためにも十字架でいのちを捨てられたので、その人の罪が赦されて救われることを願って父なる神様に祈ってくださいます。父なる神様は、私たちの罪が赦されるために、御子イエスをこの世に送り出されたのですから、主イエスのとりなしの祈りに必ず答えてくださいます。「私には救われる資格はない」なんて言わないでください。主イエスは、すべての人のために自分のいのちを差し出されたのですから。ただ、17章の9節から19節では、主イエスは、今、目の前にいる11人の弟子たちのために祈られました。主イエスは、自分が十字架にかかり、三日目に死から復活し、それから40日後に天に戻ることをすべて知っておられたので、ご自分が地上に残していく11人の弟子たちのことを強く心にかけておられました。この後、主イエスが逮捕された時に、彼らは皆、イエスを捨てて、逃げ去りました。また、ペテロは3回主イエスを知らないと言ってしまいました。また、ヨハネとヤコブの母親が主イエスの所へ行って、息子二人に特別な地位を与えるようにとお願いしたことで、弟子たちの間で論争がおきることも主イエスは知っておられたと思います。このように、11人の弟子たちの信仰はまだまだ、とても危なっかしいものだったので、主イエスの強い祈りを必要としていました。それで、主イエスは、彼らのために祈りをささげられたのです。また、主イエスが11人の弟子たちのために祈られたのにはもう一つの理由がありました。それは、11人の弟子たちは父なる神が主イエスに下さった人たちだったからです。9節で、主イエスはこう祈られました。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。」ここで、一つ注意することがあります。9節で、主イエスは11人の弟子たちのために祈っているのであって、世のために祈っているのではないと言われました。確かに、この時は、この世のすべての人のための祈りではなく、11人のために祈っておられます。しかし、主イエスがこの世の人のために全く祈らないのではありません。主イエスが十字架にはりつけにされて、ひどい体の苦痛を感じて折られた時に、最初に口から出た言葉は、この世の人々のため、とりわけ、自分に対して悪を働いた人のための祈りでした。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかが分かっていないのです。」十字架の前では、イエスをはりつけにしたローマの兵士たちが主イエスが身に着けていた服をくじ引きで分けていました。彼らは、死の前の苦しみを味わっている主イエスの前で、主イエスをばかにしてふざけていました。しかし、主イエスは、そんな人のために祈られました。主イエスは、すべての人が自分を信じて救われる事を願っておられるからです。ただ、主イエスのとりなしの祈りは基本的に、主イエスを信じるクリスチャンのためのものです。今も、私たちは気が付いていないことが多いのですが、主イエスは、私のためにも、あなたのためにも祈っておられます。そのようにして、主は、クリスチャンの一人一人を守ろうとしておられるのです。

 イエスは、11人の弟子たちをどのように見ていたのでしょうか。9節で、主は11人の弟子たちについてこう言われました。「あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。」主イエスは、11人の弟子たちを、父なる神が自分に与えてくださった人と言われました。エペソ人への手紙には、「私たちはみな神の作品である」とも書かれています。主イエスは、私たちが主イエスを信じて神の子どもとなった時に、父なる神様から私たち一人一人預けられたのです。偉い人から何かを預かると、誰でも大切に扱うと思います。主イエスは、私たち一人一人を、父なる神様から預かった大切な者として見ておられるのです。

 先ほども述べたように、イエスの弟子たちは、私たちと変わらない欠点や弱さを持った人間でした。口では「イエス様のためなら喜んで死にます」と言っていましたが、いざ、主イエスが逮捕されると、誰も主イエスを守ろうとせずに、自分のいのちを守るためにイエスを置いて逃げて行きました。そんな11人の弟子たちでしたが、主イエスは彼らについてこう述べています。10節の終わりの部分です。「わたしは、彼らによって栄光を受けました。」主イエスは、どのようにして、弟子たちによって栄光を受けられたのでしょうか。それは、弟子たちが主イエスを救い主と信じた時に、そのことを主は非常に喜び、主は、そのことを自分の栄光だと考えられたのです。このことはわたしたちについても同じです。私たちが、本当に小さな信仰かもしれませんが、主イエスを信じたときに、そのことを喜びご自分にとって栄光だと思ってくださるのです。そして、私たちのことを誇りに思ってくださるのです。私たちの立場で言えば、私たちの生きる第一の目的は、神に栄光を表すことです。私たちは何をするにしても、神様に栄光を表す生き方をすることが、最も大切な生き方です。パウロはコリント教会のクリスチャンに対してこう言いました。「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」私たちは、あらゆる努力をして、神様の栄光を表す生き方を目指さなければなりません。私たちは、いつも自分の行いや行動を吟味する必要があります。この行動は神様の栄光を表しているだろうか。この言葉は神様の栄光を表す言葉だろうか。私たちが神様への愛と感謝の思いで行うことは神様の栄光を表します。親は子どもの様子をいつも見ています。子どものすることが大人の目には少し変であっても、親への愛情がこもったことであれば、親にはすぐわかるので、親は喜びます。それと同じように、神様の栄光を表す生き方とは、必ずしも見た目に立派でなくても良いのです。神様を喜び、神様に感謝する心が大切です。それを神様は喜んで下さるのです。しかも、主イエスは11人の弟子たちが、この後すぐに、自分を見捨てることを知っておられました。それでも、主イエスは、自分の弟子たちを栄光と思い、彼らを誇りに思っておられました。私たちも、しゅの御心に背いたり、主の期待を裏切るような弱い者ですが、主はそれでも、私たちを誇りに思い栄光と思ってくださるのは、本当にありがたいことです。だからこそ、私たちは主に栄光を表す者にならなければならないのです。主はそのような11人の弟子たちのために2つのことを祈られました。

 第一に、主イエスは弟子たちが守られることを祈られました。11節の後半を読みましょう。「聖なる父よ。わたしにくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください。私たちと同じように、彼らが一つとなるためです。」人間的に見ると、11人の弟子たちは私たち変わらない普通の人間でした。しかし、彼らには、主イエスが天に帰られた後、全世界にキリストの十字架の福音を宣べ伝えるという大きな使命が与えられていました。それだけでなく、彼らは、その後に誕生する教会のクリスチャンたちを指導し、監督するという責任も委ねられていました。彼らの働きがなければ、教会が誕生することはなかったでしょう。主イエスは、彼らに与えられた責任の大きさをよく分かっておられたので、彼は全力を尽くして11人のために祈られました。主イエスは弟子たちの信仰、彼らの決断だけでは、彼らが直面する様々な困難や問題を乗り越えることができないことを知っておられましたが、同時、父なる神様には彼らを守る力があることも知っておられました。弟子たちは父なる神によって選ばれた者たちであり、主イエスに委ねられた者たちでした。主イエスは父なる神が自分の祈りに答えてくれることを確信して、この祈りをささげました。主イエスは、弟子たちの前で声に出してこれらの祈りを捧げられたと思います。弟子たちは、イエスの祈りを聞きました。主が自分たちのために祈っておられることを知りました。弟子たちは主イエスが自分たちのために力を込めて祈る姿を見て力づけられたことでしょう。

 主イエスが弟子たちが守られるようにと祈られたのは何のためだったでしょうか。11節の終わりのところで、主イエスは、「わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」と言われました。主イエスは、弟子たちが主から与えられた使命を果たすためには、彼らが一つになることが大切であることが分かっていました。神に敵対する世の中の人々と戦う時に、弟子たちの間に争いや分裂があれば、敵に勝つことはできません。主イエスは弟子たちが一つになることを願っておられました。それは、今も同じです。教会が一つなって初めて、この世の中に対して福音を力強く宣べ伝えることができます。教会にはいろいろな人がいて、いろいろな考えがあります。しかし、教会の使命は一つです。この世に主イエスの福音を宣べ伝えることです。主イエスがそのことを天に帰られる前に弟子たちへの命令として語られました。私たちも、主イエスから同じ使命を受けた喪のとして、一つとなってこの世に出て行くことが必要です。

 主イエスは、弟子たちのためにもう一つのことを祈られました。それは17節に記されています。「真理によって、彼らを聖別してください。あなたのみ言葉は真理です。」聖別するというのは、神様の働きのために区別するという意味ですが、ただ区別するだけでなく、神様のためにささげるという意味を持っています。弟子たちにとって、主イエスから委ねられた全世界に福音を宣べ伝えるという使命を果たすためには、彼らが外側の敵から守られるだけでは不十分でした。彼らの内側が、キリストに似た者へと変えられて行く必要がありました。サタンは、弟子たちの働きを妨げるために、弟子たちに様々な攻撃や誘惑を与えてくるはずです。それを乗り越えるためには、彼らが主イエスと同じ姿に変えられなければなりません。その時に初めて主イエスは弟子たちをこの世に遣わすことができるのです。主イエスは弟子たちを「真理によって」聖別してくださいと祈り、その後で、「あなたのみ言葉は真理です。」と言われました。真理とみ言葉は同じものです。神様の言葉はすべて真実です。永遠に変わることがありませんん。私たちがキリストの姿に変えられて行くために必要なのはみ言葉の働きと聖霊の働きです。み言葉を読むとき、その言葉をとおして聖霊が働くと、私たちに大きな影響力を与えます。私たちが聖別されるためにはみ言葉を読まなければなりません。ペテロが新しくクリスチャンになった人々に次のような言葉を書いています。ペテロの手紙第一2章2節です。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」私たちは、真理のみ言葉を蓄え、そのみ言葉に教えられながら生きる時に、主に栄光を表す者となることができるのです。

 そして、最後に主イエスは19節でこう言われました。「わたしは彼らのため、私自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」弟子たちが与えられた使命を十分に果たして生けるように、主イエスはご自身を十字架に捧げようとしておられるのです。主イエスは、十字架で贖いのわざを完了することによって、弟子たちを聖別し、彼らを世に遣わされるのです。十字架の死は、弟子たちに新しいモチベーションと力を与えることになります。彼らは、実際に、主イエスが天に帰られた後、どんな困難にもめげずに福音を述べ伝え続けました。それによって多くの教会が生まれました。主イエスの祈りが、将来の弟子たちの働きの現動力となったのです。

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