2022年1月16日 『神の栄光を見る人々』(ヨハネ17章20-26節) | 説教      

2022年1月16日 『神の栄光を見る人々』(ヨハネ17章20-26節)

主イエスは弟子たちと最後の夕食を食べられた時に、弟子たちに最後の教えを語り、そして、その後、17章全体に記されている祈りを捧げられました。主イエスはなぜ、この時、父なる神に祈りを捧げられたのでしょうか。もちろん、それは、目前に迫った十字架で自分のいのちをささげるという使命を果たすために自分自身の心を備えるためでした。私たちは、普通、自分の死を意識するとき、心は弱ります。恐れや不安を感じます。しかし、この祈りを読むと分かりますが、主イエスの祈りには十字架から逃れたいとか、恐れや不安を感じさせる言葉は一つもありません。当時の人々は、主イエスはユダヤ教の指導者たちの陰謀に負けた者と見ていましたが、主イエスは敗北者として十字架にかかったのではありません。私たち罪人を永遠の滅びから救い出すための、勝利者として十字架にかかられました。主イエスは長い祈りの中で3つのことを祈っておられます。最初にご自分のために祈られました。自分の使命を果たしたので自分が本来持っていた栄光を現わしてくださいと祈られました。次に、主イエスは11人の弟子たちのために祈られました。主は、彼らが守られることと聖められることを祈られました。最後に、今日の箇所では、主は、今ここに集っている私たちをも含めて、あらゆる時代のすべてのクリスチャンのために、この後誕生する教会のために祈っておられます。このように、主イエスは十字架が目前に迫っている時でさえ、11人の弟子たちや、その後に生まれて来るすべてのクリスチャンたちのことを心に留めておられました。そして、主は、今もなお、天において私たち一人一人のために祈っておられます。クリスチャンとして生きる信仰生活は、決して一人の生活ではありません。クリスチャン同士で祈り合うことはもちろん、復活された主ご自身が私たちのために祈っておられるからです。主イエスが、十字架を前にしてしっかり父なる神と天国の栄光を見ておられたように、私たちも、この世の見る必要のないものに惑わされることなく、天におられる神様と天に備えられている栄光をしっかり見ながら、この世で生きて行くことが大切です。今日は、主が、私たちのために祈られた祈りを見て行きたいと思います。

(1)キリストが祈られたキリスト者の一致

 20節から26節で、主イエスが将来の教会やクリスチャンのことについて祈る時に、一番の課題とされたのは、彼らが一つになるということでした。そしてそれは、父なる神と御子イエスが一つであったのと同じように一つであることでした。主イエスの弟子たちは12人でしたが、そのような少ない人数のグループでも、みな自己中心で、ライバル心があり、一致することができずにいました。この最後の晩餐の時に至っても、弟子たちは「自分たちの中で一番偉いのは誰か」と言い争っていたほどです。これは12弟子だけの問題ではなく、すべての人間、すべての教会、クリスチャンの問題です。21節を読みましょう。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、 わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」パウロはローマのクリスチャンに書き送った手紙の中で、クリスチャンの一致について、人間の体を例えにして説明しています。彼は12章4,5節で次のように言いました。「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないのと同じように、大勢いる私たちも、キリストにあってひとつのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」このことから分かることは、クリスチャンが一つになるということは、皆が同じような姿をし、同じようなことを話し、同じような事を行うことではありません。人間の体が口だけだったらどうなるでしょう。手だけだったらどうなるでしょう。しかし、神様が造られた人間の体は本当に素晴らしくできていて、脳から出た命令に体の一つ一つの器官が自分に命じられたことを忠実に行うことによって、一つの体は素晴らしい動きをすることができます。例えば、野球のボールが飛んで来て目にぶつかりそうになったときに、脳は体の各器官に命令を出します。腰には体を低くするように命令し、顔はボールが目に当たらないように後ろに振り向きように命令し、手と腕には目を覆うように命令し、瞼にはつぶるように命令し、そして、脳からの命令を受けた各器官が、喜んでその命令に従って行動するときに、危険にさらされていた目が守られるのです。

 パウロは、聖霊によって誕生した教会が一つであることについて、エペソ人への手紙4章4節―6節で7つのことを教えています。「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つ、主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。」日本語の訳はもともとのギリシャ語と順番が少し違うのですが、パウロはここで7つのものが一つであると述べています。第一はからだは一つです。からだとはキリストの体である教会のことです。ペンテコステの日に、最初の教会が生まれた時から、教会は、自分の罪を認めてイエスを罪からの救い主と信じる者たちが集まった一つのからだです。第二はひとつの御霊です。私たちが「イエスを救い主と信じますという信仰告白ができるのは聖霊の働きです。第三は、一つの望みです。聖霊は、主イエスを信じるすべてのクリスチャンに天国に繋がる一つの希望を私たちに確信させます。第四に、主は一人です。キリストの体の唯一の頭はキリストです。私たちの体と同じように、キリストの体である教会は、キリストの命令に教会のあらゆる部分が従って行く時に素晴らしい働きをすることができます。第五が一つの信仰です。私たちは、聖書に教えられている教えを信じ、主イエス・キリストの十字架は自分の罪が赦されるためものだと信じています。私たちは、一つの同じ信仰によって教会に組み入れられました。第六がバプテスマが一つです。私たちは、人々の前で自分の信仰を告白して、洗礼を受けることによって神の家族の一員になりました。洗礼のやり方はさまざまですが、私たちは、皆、同じ一つの洗礼、つまり神の家族に加えられる洗礼を受けたのです。そして、最後に、すべてのすべてである父なる神様は、唯一の神であり、教会だけでなく、この世のすべてを支配しておられる方です。主イエスが祈りの中で求めておられた「クリスチャンが一つ」になるというのは、パウロが述べた7つの点で、一人一人がそのことを正しく理解し、自分のものとしていることなのです。一人一人が主イエスを救い主と信じる信仰にしっかり立つことが、クリスチャンの一致、教会の一致の土台になります。

(2)キリスト者の一致はどのように現れるのか

 主イエスが祈り求められたクリスチャンの一致、教会の一致はどのように現れるのでしょうか。22節を読みましょう。「またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」キリストが求めたクリスチャンが一つになることは、父なる神と御子イエスが一つであるのと同じように一つとなることでした。父なる神と御子イエスが一つであることにはいくつかの特徴があると思います。第一に、父なる神と御子イエスは福音を伝えるという点で一つになっていました。主イエスは、2節で、父なる神が自分にすべての人を支配する権威を与えたのは、父なる神から委ねられたすべての人に永遠のいのちを与えるためであると言われました。父なる神は、アダムとエバが罪を犯す前から、人を罪から解放する計画を持ち、そのために、決められた時に御子イエスを遣わされました。父なる神も御子イエスも、人々を罪から救い、永遠のいのちを与えることを第1の働きとしておられました。私たち教会も同じ使命が委ねられています。神様が、群馬大学の聖書研究会の仲間たちにビジョンを与えて、北本に教会が建てられたのは、この教会の地域に住む人々に福音を宣べ伝えて、人々を罪から救い永遠のいのちを与えるためでした。教会には様々な働きがありますが、神様から委ねられた第一の使命は、福音を宣べ伝えることです。教会の一人一人が、この使命を自分自身の使命として受け取ることによって、教会に、主イエスが祈り求められたような一致が与えられます。私たちには真理の言葉として聖書が与えられています。福音を宣べ伝えることは、言い換えれば、人々に真理の教えを伝えることです。聖書は、人間は知識や訓練で一致することはできないと教えています。一人一人が主イエスを救い主と信じ、聖書の言葉を真理の言葉として受け入れ、その言葉に従って生きようとするときに、この世の中の問題は解決していきます。教会がするべきことは、主イエスによる救いを宣べ伝えることであり、真理の言葉を人々に伝えることなのです。

 第二に、父なる神と御子イエスは愛において一つとなっていました。24節で、主イエスは「父なる神が世界の基が据えられる前から自分を愛しくださった。」と言われました。また、主イエスが洗礼を受けられた時も、主イエスが3人の弟子たちと高い山に上られて、その時にイエスの姿がすっかり変わった時も、天から父なる神の声が聞こえました。「これは、私の愛する子である。」これと同じように、教会につながる私たちを一つにするのは愛です。そして、私たちが互いに愛し合う時に、それが、神の愛を知らないこの世の人々に対して最も大きな証しになるのです。教会に愛がないと言う人がいます。言うことは簡単です。しかしその人は、ある事実を忘れています。その人も教会に属する一人です。教会の愛は、誰か他の人が出して満ちるものではありません。一人一人が出し合って教会の愛が増えるのです。もし、愛がないことに気づいたら、気づいた人が愛を補充することが大切です。何かイベントをする時に、何かが足らないことに気づいたら、その人が誰かに頼むなり、自分が何とかするなりして、その問題を解決しようとします。足らないと言うだけでは何の解決にもなりません。イエスの母マリアは、カナの結婚式の途中で客に出すブドウ酒がなくなった時、新郎新婦に、なぜブドウ酒をちゃんと準備しておかなかったのかと責めることはせずに、何とか二人を助けるために主イエスに助けを求めました。また、主イエスは、ある時、自分が正しい生き方をしていると思い込んでいる若者から何をすれば永遠のいのちが与えらるかと質問された時に、その答えとして「精一杯神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われました。するとその若者は自分の正しさを示すために「隣人とは誰ですか」と質問しました。彼は自分の周りにいるどこまでの人を愛すれば良いのか、と隣人の線を引こうと思いました。その時に語られた話が「よきサマリア人」の話です。強盗に襲われて意識を失って倒れているユダヤ人がいました。そのそばをユダヤ教の祭司、ユダヤ人のレビ人が通りましたが、通り過ぎました。関わると自分の仕事ができなくなったからです。その後に、ユダヤ人から嫌われていたサマリヤの人が通りかかり、その人のために精一杯の助けをしてあげました。そして、その話の後で、イエスが言われた言葉は、「通りかかった3人の中で誰がその人の隣人になりましたか。」という質問でした。だれが隣人なのかと線を引く人は、隣人を愛していません。イエスは言われたのです。「あなたも行って、すべての人の隣人になりなさい。」誰が隣人なのかではなく、私たちはすべての人の隣人になるよに命じられています。先週の日曜日第三礼拝が始まった時に、松澤兄が駐車場の入口で自転車で倒れて頭から出血しました。たとえ話のユダヤ人と同じような状況になりました。わたしがメッセージをしている間、受付の人たち、呼ばれた優子先生など、いろいろな人が行ったり来たりしていました。そのうち救急車が到着し、警察官も到着しました。講壇からその様子が見えたのですが、すでに説教が始まっていたので私は何もすることができませんでした。実を言うと、先週の第三礼拝のメッセージは、胸の中ではらはらしながらのメッセージでした。松澤兄は、その後、北里メディカルセンターに運ばれましたが、3日で退院することができました。まだ痛みや症状が残っているので、ぜひお祈りください。でも、その様子を見て、私は、教会に愛がないなんてことは絶対にないと確信しました。皆、松澤兄を助けるために一生懸命でした。もちろん、神様の目には、足りないところはあるかも知れません。でも、その足りないところを埋めるのは誰か他の人ではなく、私たち一人一人、あなた自身であることを覚えてください。

  • キリスト者がキリストの栄光を見るように

 キリストは24節でこう祈られました。「父よ。わたしにくださったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を彼らが見るためです。世界の基が据えられる前から、わたしを愛されたように、あなたがわたしに下さった栄光を。」ここで、主イエスは私たちが栄光を見るようにと祈られました。主イエスが人となってこの世に来られた時、当時の人々はイエスの栄光の姿を見ました。ヨハネは福音書の1章で、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」と書いています。ただ、この世に来られたイエスは、もともと持っておられた天での栄光を捨てて、自分を低くしてこの世に来られたので、その時人々が見た栄光は覆いが掛けられたようなもので、本来の栄光の姿ではありませんでした。ここで、主イエスが祈られたのは、主イエスが本来持っておられる光り輝く栄光のことです。イエスキリストを信じる者は、死んだ後、天においてキリストの満ち満ちた栄光の姿を見ることになります。黙示録には、「神のしもべたちは、神に仕え、御顔を仰ぎ見る。」と書かれており、また、天国には夜はないと書かれています。神である主が人々を照らすので、ともしびの光も太陽の光もいらないのです。キリストは、すべて救われた者が、信仰の生涯を全うして、天国で、いつもイエスとともにいて、父なる神と御子イエスの栄光の輝きをみてほしいと願っておられるのです。私たちの地上生活には、これからも厳しいことがいろいろあるかもしれませんが、キリストが私たちのために祈ってくださったように、信仰を守り続ければ、私たちは必ずイエスの栄光を見るのです。ですから、私たちは、イエスの祈りの力を信じて、栄光の将来を目指して、イエス様が願っておられるような一致を保ち続けたいと思います。

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