2022年1月23日『人の罪と神の恵み』(ヨハネの福音書18章1-11節) | 説教      

2022年1月23日『人の罪と神の恵み』(ヨハネの福音書18章1-11節)

 ヨハネの福音書で13章からずっと続いていた主イエスと弟子たちの最後の晩餐がイエスの祈りで終わり、いよいよ、主イエスは11人の弟子たちと共に十字架にかかるために、エルサレムの町を出て、オリーブ山のふもとにあったオリーブ畑に行かれました。その場所は「ゲッセマネ」と呼ばれていましたがそれは「油絞りの場所」という意味でした。18章の1節に「主は弟子たちとケデロンの谷の向こうに行かれた。」と書かれていますが、エルサレムの東側にケデロンの谷と呼ばれた谷があり、谷の向こう側にはオリーブの木が茂る山がありました。その山のふもとの人目に着かないところにゲッセマネの園はありました。主イエスがゲッセマネの園に行かれたのにはいくつかの理由がありました。そして、2節を見ると、主イエスを裏切ることを決心していたイスカリオテのユダもその場所を知っていたと書かれています。イエスが弟子たちとたびたびそこに集まっていたからです。そこはエルサレムの町から近い場所でしたが、山のふもとの畑で人目をさけて静かに集まれる場所でした。主イエスはエルサレムに来るたびに、この場所で弟子たちに教えたり弟子たちと祈ったりしておられたようです。ただ、この日、主イエスがゲッセマネの園に行かれたことにはもう一つ別の理由がありました。それは、ユダが自分をゲッセマネの園に探しに来て捕まえようとしていることを主が知っておられたからです。主は、自ら、ユダが連れて来る人々に捕まるために、時間を考えて、そこに行かれたのです。それまでも、ユダヤ教の指導者たちは何度もイエスを捕まえようとしましたが、その時は、まだ十字架の時ではなかったので、彼らはイエスを捕まえることはできませんでした。しかし、今、永遠の神のご計画の中で、主イエスが捕まる時が来たのです。主イエスは捕まったのではなく、彼らが自分を逮捕できるように、自分から時間と場所を決めて、ゲッセマネの園に行かれました。主イエスはヨハネの福音書10章18節で、次のように言われました。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。」すべてのことは神様の計画通りに進んでいました。

 3節にはこう書かれています。「ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」イエス一人を逮捕するために、非常に多くの人がやって来ました。ローマの軍隊の一隊は、おそらく200人くらいだったと思います。また、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちがいましたが、彼らは神殿を警備する警察のような人たちでした。ルカの福音書によれば、祭司長たちもそこにいましたが、彼らは下役たちの仕事ぶりを監督していました。それにしても一人の人を捕まえるにはあまりも人数が多すぎます。彼らは手に明かりとたいまつと武器を持っていました。明かりとたいまつは、その日には必要のないものでした。というのは、過越しの祭りは満月の時に行われますので、彼らは、たいまつを持つ必要がないほど、あたりは明るかったはずです。恐らく彼らは、主イエスがどこかに逃げて隠れるのではないかと予測して、イエスを探すための道具を持って行っていたのです。もちろん、主イエスには彼らから逃げ隠れするつもりはまったくありませんでした。イエスは、堂々とした態度で、彼らが来るのを待っていました。ヨハネの福音書には書かれていないのですが、イエスを逮捕するために、イスカリオテのユダとユダヤ教指導者たちの間で合図が決められていました。それは、ユダがキリストに口づけするという合図でした。ユダヤ人の社会では、このような口づけは、単なる愛情や尊敬のしるしという以上の、相手に対する最高の敬意を現わすものでした。ユダが、キリストへの口づけを裏切りの合図にしたことは、本当に卑劣な行為でした。

 主イエスは、ユダが自分を見つけやすいように、ゲッセマネの園に来ていました。主イエスは、自分から、自分を逮捕するためにやって来た人に向かって尋ねました。「誰を探しているのか。」イエスが逮捕された時も、その状況を支配していたのは主イエスでした。彼らは、「彼らが、ナザレ人イエスを」と答えると、主は「わたしがそれだ。」と言われました。日本語では、イエスの答えが「わたしがそれだ」と訳されています。英語では、「I am He」となっていますが、ギリシャ語には、「それ」という言葉、「He」という言葉はありません。「I am」とだけ言われましたが、これはモーセが初めて神様と出会った時に、神様から聞いた神の名前です。神様の名前は「わたしはある」という意味なのです。これは、聖書の神は、何にも依存しない、永遠に生きておられる神という意味を持っている名前です。したがって、主イエスは、ここでも、自分が全知全能の神、永遠に存在する神であることを主張されたのです。主イエスが、自分が神であることを宣言する言葉「わたしがそれだ」と言われた瞬間、イエスを捉えようと集まっていた者たちが後ずさりして地面に倒れ込みました。主イエスはこれまでも、言葉によって、嵐を静め、病人を癒し、死んでいた人を蘇らせました。主イエスが自分の名前を言っただけで、イエスの敵たちは全く無力になり倒れ込んだのです。このことからも、主イエスはユダヤ教の指導者たちによって逮捕されたのではないということは明らかです。主イエスは、彼らがやりたいことを実行できるように、彼らについて行ったのです。それは、主イエスが自分に与えられた使命を果たすためでした。

 主イエスが、神の力を現わされた後、自分を捕まえに来た者たちに再び尋ねられました。「だれを捜すのか」そして、彼らが「ナザレ人イエスを。」と答えると、次のように答えられました。「それは、わたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」イエスはなぜ、繰り返して「だれを捜すのか」と尋ねたのでしょうか。それは、彼らに、自分たちが逮捕しに来たのは「ナザレのイエス」いう一人の人物であると2回、口ではっきりと言わせるだめでした。つまり、イエスを捉えるために集まって来た者たちは、イエスを逮捕する命令を受けて来ているが、11人の弟子たちを逮捕する命令は受けていないことを自分の口で言わせるためでした。そして、主は彼らに「この人たちは去らせなさい」と言って、彼らが弟子たちを逮捕するのを防いだのです。彼らは、主イエスが「それはわたしだ」と言った瞬間に強烈な力を感じて倒れたことを覚えていますから、主イエスの「この人たちを去らせなさい」という言葉に逆らうことはできませんでした。主イエスは、そのようにして、11人の弟子たちも自分と一緒に逮捕される事のないように守られたのでした。主はヨハネの福音書10章で11節で言われました。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」当時、2種類の羊飼いがいました。羊を自分のものとして所有している羊飼いと、羊の持ち主に雇われて働いている羊飼いがいました。羊を所有している羊飼いは、羊は自分のものですから、自分のいのちをかけて羊を守ります。しかし、雇われた羊飼いにとって、羊は自分のものでありませんから、狼が羊を襲ってきたら、自分のいのちを守るために、羊を置き去りにして、さっさと逃げてしまいます。イエスの弟子たちは、雇われた羊飼いのように、主イエスが逮捕された時に、みんな逃げて行きましたが、主イエスは、自分がこれから十字架にかけられるという重大な時も、弟子たちを守ることを第一とされました。9節には、これは「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」とイエスが言われたことばが成就するためであったと書かれていますが、このイエスの言葉は、主イエスが何度か繰り返して言われていたことです。そして、17章に記されている最後の晩餐の後のイエスの祈りの中でも、主イエスは父なる神に「私は彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました」と言われています。主イエスは、ご自分が言われたことをこの時に実現されました。この時の主イエスは、神の栄光を捨てて低い姿をとり、私たちと同じ人間になっておられました。それでも、11人の弟子たちが逮捕されないように守られました。とすれば、今は天に帰られて栄光と権威と力を持っておられる主イエスは、私たちを必ず守ってくださることを私たちは確信することができます。

 ルカの福音書を見ると、主イエスの弟子たちは、イエスが逮捕されそうになっているのを感じて主イエスに向かって叫びました。こう書かれています。「イエスの周りにいた者たちは、「主よ

、剣で切りつけましょうか」と言った。」弟子の一人ペテロは、イエスの答えを待たずに、行動に出ました。ペテロは、イエスが「わたしがそれだ」と言った瞬間に、イエスを捉えに来ていた者たちが一斉に倒れるのを見て、自分たちが強くなったように感じていたのかも知れません。主イエスが必要としていなかったことを彼は行ってしまいました。彼は隠し持っていた刀を抜いて、大祭司のしもべのマルカスという男に襲い掛かりました。彼は恐らくマルコスの頭を狙ったと思いますが、マルコスが頭をよけたので、ペテロの刀はマルコスの耳を切り落とす結果になりました。彼の行為は、弟子たちとユダヤ教指導者たちとの間の戦いを引き起こしていたかもしれないもので、最悪の場合、弟子たちはみな、ローマの兵士によって殺されていたかもしれません。イエスは弟子たちを守ろうとしておられたのに、主の努力を壊すようなことをペテロはしてしまいました。主イエスは、この危機的状況を乗り越えるために、まず、ペテロを厳しく叱りました。「剣をさやに収めなさい。」

マタイの福音書を見ると、主イエスは加えて次のように言っておられます。「剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くのみ使いをいますぐわたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」(26章52-53節)主イエスは、自分のいのちを守ろうと思えば、ペテロの助けを得なくても、大勢のみ使いが働いて、目の前にいる大勢の人々や兵士たちを一瞬にして滅ぼすことができたのです。ペテロはそのことを知りませんでした。イエスは、切り落とされたマルコスの耳を拾って、彼の耳を元通りに直してあげました。もし、イエスがマルコスの耳を癒されなかったら、確実に、ペテロも捉えられて、その日ゴルゴダの丘には4本の十字架が立っていたことでしょう。しかし、主イエスは、衝動的な行動をしてしまったペテロを守るために、マルコスの耳を癒されました。以前、主イエスが人々に福音を宣べ伝え、多くの人々を癒しておられた時、人々は、イエスの教えや奇跡に驚いて、イエスをほめたたえていました。しかし、今は罪のために霊の目が閉ざされて心が頑なになっていたので、人々は、マルコスの耳が癒される奇跡を見てもイエスを逮捕しました。

 そんな中で、主イエスはペテロに言われました。「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」ペテロは、この時点にいたっても、主イエスは、私たちの罪が赦されるために、身代わりの死を遂げなければならないということを理解していませんでした。そこで、主イエスは、もう一度、自分は死ななければならないこと、まさに、死ぬことが自分の使命であることをペテロに伝えられたのです。ここで主が言われた杯を飲むというのは、神の裁きを受けるという意味です。父なる神様は、罪人を赦すために、罪のないお方を十字架につけて、私たちの罪の裁きを行われました。主イエスは、自分に与えられた父なる神からの命令に完全に従われました。主イエスが父なる神様にまったく従順に従われた結果、私たちは、罪赦され、神の子とされて、今、永遠のいのちに向かって一歩一歩歩んでいます。主イエスが十字架に向かって真っすぐに進んで行かれたように、私たちも、主イエスの十字架の死によって、罪から救われ永遠のいのちが与えられたのですから、主イエスと同じように、信仰の道を真っすぐに進んで行きたいと思います。

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