2022年1月30日 『罪ある人間が神をさばく』(ヨハネ18章12-14、19-24節) | 説教      

2022年1月30日 『罪ある人間が神をさばく』(ヨハネ18章12-14、19-24節)

 12節に「一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛った」書かれています。ユダに先導されてイエスを捕らえに来た者たちは、ユダヤ人と異邦人が混じっていました。ローマの兵士たちとともに千人隊長もそこに加わっていたことが分かります。千人隊長は文字通り千人の兵士のトップですから、かなり高い地位にある人物です。そのような者までがイエスの逮捕に関わっていことから、ユダヤ教指導者側が、イエスを捕らえることをどれほど大きなことと考えていたかが分かります。主イエスがご自分の名前を言われた時に、彼らはみな後ずさりして地面に倒れ込みました。主イエスの言葉にはそれほどの力と権威がありました。12節には、彼はイエスを捕らえたと書かれていますが、実際には、主イエスがご自身を差し出して、彼らが自分を捕らえるようにさせたのが本当のところです。

 イエスを捕らえた後、彼らは、イエスをアンナスのところに連れて行きました。イエスは十字架に掛けられる前に、ユダヤ教指導者たちの前で3回の裁判をお受けになるのですが、最初に、主はアンナスの前での裁判を受けました。実は、この裁判は、ユダヤ教の律法に違反するものでした。ユダヤの律法では、裁判は日の明るい時間で行われなければなりませんでした。彼らが、夜中に、イエスを裁判したことは違法だったのですが、彼らには急ぐ理由がありました。過越しの祭りが近づいていからです。今は金曜日の早朝ですが、その日の日没が過ぎると安息日に入ります。そして過越しの祭りの日になります。彼らはどうしても、主イエスの処刑を過越しの祭りの前に行いたいと思っていました。祭り中はエルサレムは人々で大混雑します。その時に、イエスの処刑をすると、今でもイエスを慕っている者たちが暴動を起こす危険がありました。それで、彼らは何とか金曜日の日没までにイエスの処刑をすべてやり終えておきたいと思っていました。彼らは、主イエスをアンナスという人物のところへ連れて行きましたが、このアンナスは以前ユダヤ教の大祭司をした人物でした。彼は紀元前6年から紀元15年までの20年間、ユダヤ教祭司でしたが、ローマ総督ピラトの前任者によってその職を追われていて、その後は、彼の娘婿のカヤパという人が大祭司になっていました。ただ、ユダヤ教の決まりで、一度大祭司になった人は死ぬまで大祭司の役職についていることなっていたので、彼も、すでに正式な大祭司職からは退いていたのですが、人々は引退後も彼を大祭司と見ていました。アンナスは、いわば、そのころのユダヤ教の黒幕のような存在でした。現在の大祭司カヤパはアンナスの娘婿ですから、彼がカヤパの陰で大きな影響力を持っていたようです。そこで、人々は、まずイエスをアンナスのところに連れて行くことにしました。大祭司は、エルサレムの神殿の最高責任者です。神殿は礼拝に来る人々のためにいけにえの動物を販売したり、献金を捧げる外国からの参拝者のための両替ビジネスで大きな利益を得ていましたが、アンナスはその売り上げから一部を自分のものにしていました。そのため、神殿の外庭にあったいけにえを売る屋台や両替商の屋台がならぶ一角を人々は「アンナスの市場」と呼んでいたほどでした。また、主イエスは3年余りの生涯において2度、神殿の宮きよめを行っています。主イエスは、神殿が神に祈りをささげるための場所であるにもかかわらず、人々があくどい商売を行って、神殿を強盗の巣のような状態にしてしまっていることに激しい怒りを覚えて、商売をしていた人々の屋台をひっくり返したことがあったのです。アンナスのイエスに対する憎しみはとても深かったと思います。 

 14節で、ヨハネは「カヤパは、一人の人が民に代わって死んだほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」と記しています。大祭司カヤパは、自分たちにとっての都合の良い事としてイエスひとりが死ぬことを願ったのですが、彼の言葉は、彼の思いを超えて、イエスの身代わりの死を預言する言葉になりました。ヨハネがそのことをここでもう一度書いているのは、いよいよ、私たちのための身代わりの死である十字架の出来事が始まろうとしている事を知らせるためであったと思います。主イエスが元大祭司アンナスの家に連れて行かれた時に、ペテロも少し離れて、イエスについて行きました。

 19節で、元大祭司のアンナスは、主イエスに弟子たちのことあ教えについて尋問した。と書かれています。この事実も、この裁判が不当なものであることを示しています。裁判は、ある問題が生じた時に、害を与えた者、害を受けた者の話をよく聞いて、その問題の真実はどこにあるのか、誰が悪いのか、害を与えた人にどれぐらいの罰を与えるのが適当なのかということを、いろいろな人々の証言に基づいて裁判官が判断を下すことです。したがって、主イエスを裁判にかけるのであれば、主イエスがどんな悪いことをしたのか、それを裏付けるためにいろいろな人の証言を集めなければなりません。しかし、アンナスにはそのようなことをする考えは全くありません。初めから、この裁判はイエスを死刑にすることを目的にしているからです。したがって、彼は、形式的に裁判をしているような質問をしたのです。主イエスは、彼らの心の中をすべて見抜いていました。それで、主イエスは20節、21節で次のように答えられました。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人が皆が集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人に尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」主イエスには、隠すものは何もありませんでした。隠された計画や、陰謀など、ユダヤ教を妨害するような考えは何一つないことは明らかでした。主イエスは、ユダヤ教の会堂や、大勢の人々の集まりの中で、はっきりと神の国について語られました。そして、罪を悔い改めてイエスを信じるは罪から救われるという約束をはっきりと語って来られました。主イエスには、彼らから訴えられるようなことは何一つありませんでした。それで、主は彼らに質問されました。「なぜわたしに尋ねるのですか。私の話を聞いた人に尋ねなさい。」主イエスがアンナスに質問していることは、この裁判をユダヤの律法に基づいて行うようにという要求でした。もともと、この裁判は正式な訴えが提出されていませんでした。彼らが、イエスを訴えた理由は、イエスが神でもないのに自分が神の子であると言ったことでした。ユダヤ教の指導者たちが、正しい裁判をしようと思うのであれば、彼らがするべきことは、イエスが確かに旧約聖書に約束されたメシアなのかどうかを判断するために、それが真実なのか偽りなのかいろいろな証拠を調べることでした。したがって、大祭司アンナスが、イエスを前にして、尋ねるべき質問は、「あなたが神の子であることを証明するものは何ですか?どんなしるしがありますか。」という質問であったはずです。しかし、アンナスがそのような質問をしていないということこそ、この裁判が、最初から自分たちがイエスを殺すために、その本心を隠すための、見せかけだけのものであったことの証拠なのです。彼らは、訴えられているイエスが、自分のことを弁明するチャンスを一度も与えませんでした。主イエスが、自分がメシアであることの証拠を語るチャンスを与えずに、主イエスの言葉を聞くことを拒否しました。

 さらに、イエスの言葉を聞いて、アンナスに仕える一人の下役が非常に腹を立てました。イエスの言葉がアンナスを侮辱しているように感じたからなのか、それとも、アンナスのご機嫌を取るためだったのか、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、イエスを平手で打ちました。たとえイエスが裁判で訴えられている者であったとしても、下役がイエスを殴ることも律法に反することでした。しかし、イエスは冷静さを失うことなく、ペテロが第一の手紙2章の23節に書いているように、「主イエスはののしられても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」23節で、イエスは彼に言いました。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」イエスの言葉に、誰も反論できませんでした。もしもイエスが言ったことが間違っていたら、下役もアンナスもイエスに訂正するように求めれば良かったのです。また、イエスの言ったことが正しいのであれば、イエスをなぐる正当な理由はどこにもありません。主イエスは、正しい裁判が行われることを求められましたが、ユダヤ教の指導者たちには、そんな考えはまったくありませんでした。アンナスは、イエスにいろいろ尋ねても、どうすることもできなことが分かったようです。アンナスは、これ以上、イエスにいろいろ尋ねてもどうにもならないと感じて、彼を、現職の大祭司カヤパのもとへ送りました。彼こそ本当のユダヤ教トップでした。彼が正式な裁判官です。当時、ローマ帝国の支配を受けていたイスラエルは、自分たちで死刑の判決をだすことはできませんでした。死刑を宣告できたのは、イスラエルを支配していたローマ帝国の総督ピラトでした。そして、そのピラトのもとへイエスを死刑に価する者として送ることができたは、カヤパでした。

 このように、イエスの裁判は最初から、茶番劇そのものでした。ユダヤ教指導者たちが、イエスが自分のことを語る言葉を聞こうとしなかったことは大きな罪でした。しかし、今の私たちが、もし、彼らと同じようにイエスの言葉を聞こうとせずにイエスを拒否するならば、その罪は彼らの罪よりも大きいと言えるでしょう。というのは、彼らには新約聖書がなかったので、イエスが神であることをはっきりと証明するものがありませんでした。私たちは、今、新約聖書によって、主イエスが神であることをハッキリと知ることができます。私たちは、なぜ、イエスがこの世に来られたのか、なぜ十字架で死なれたのか、知っています。イエスが死から復活されたことも知っています。当時のユダヤ人と比べて、私たちには、イエスが神であることを知るための資料や証拠を彼らよりもはるかに多く持っています。したがって、もし、私たちがイエスの言葉を受け入れようとしないならば、私たちの罪は彼らよりも、大きな罪になるのです。しかし、逆に、もし、私たちが聖書を通して、あるいは、聖霊の働きによって、主イエスを信じるように導かれたなら、その祝福は、当時の人々よりもはるかに大きな祝福です。イエスこそメシアであり、生ける神の子キリストであり、あなたのために十字架で死んでくださった救い主なのです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

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