2022年2月13日『真理とは何のか』(ヨハネ18章28-40節) | 説教      

2022年2月13日『真理とは何のか』(ヨハネ18章28-40節)

 主イエスは、大祭司カヤパのもと70人のメンバーからなる最高法院で裁判を受けましたが、ヨハネの福音書には、その様子については、詳しく書かれていません。マタイの福音書には詳しく書かれているのですが、イエスの裁判は、まったく正義とはかけ離れた不当な裁判でした。そもそも、この裁判は、イエスを死刑にすることが目的でした。裁判をとおしてイエスに関する真実を見出すことなど、彼らはまったく考えていませんでした。彼らは、裁判のために、偽の証言者を集めて、イエスに不利な証言をさせたのですが、イエスを死刑にするだけの証拠を集めることができませんでした。旧約聖書の申命記には、偽の証言者は厳しく罰するように教えられているのですが、旧約聖書を教える祭司長たちや最高法院のメンバーたちは、自分たちの目的を果たすために、律法を違反して、イエスを死刑にしようとしていました。偽の証言者でイエスを死刑にすることができないのを見て、大祭司は、新しい作戦に出ました。大祭司はイエスに言いました。「私は生ける神によっておまえに命じる。お前は神の子キリストのなのか。答えよ。」(26:63)この大祭司の言葉は、イエスに、神の前に誓って答えるように命令していることを現わしています。日本人は国会なのでも、真実を語ることを誓っても、平気で嘘をつく人が多いですが、ユダヤ人の場合は、旧約聖書に誓いを破ることは重大な罪だとはっきりと教えているので、誓いを神聖なものと考えていました。またカヤパは、主イエスが自分の質問には正直に答えるだろうと思っていました。大祭司は、主イエスに自分の口で自分が神の子キリストだと言わせるために、この質問をしたのです。すると、イエスは、カヤパが予想していたように答えました。26章27節で主はこう答えられました。「あなたが言ったとおりです。」この言葉を聞いた大祭司カヤパは激怒します。神の子キリストについては旧約聖書にも預言が記されているので、本来であれば、彼らは、主イエスが本当に旧約聖書が預言している救い主なのかどうか調べなければならないのですが、彼らは、イエスの言葉を聞いてすぐに「彼は死に価する」と結論を出し、イエスの頭に唾をかけたり、拳で殴ったり、イエスを平手で打ったりしました。ただ、ユダヤの律法では、夜集まって、死刑の裁判はしてはならないことになっていました。それで、マタイの福音書の27章の1節を見ると、彼らは夜が明けると、再び集まっています。「さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員でイエスを処刑するために協議した。」そこで、彼らはイエスの死刑を決定しましたが、当時、イスラエルはローマ帝国の支配を受けていたので、彼らだけで、死刑の宣告はできませんでした。そのため、彼らは、主イエスを、ローマ総督ピラトのところに行かなければなりませんでした。

 このことがヨハネの福音書の18章28節に記されています。「さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。」イスラエルでは、明け方とは午前3時から6時の時間帯を指しますので、彼らは6時前にイエスをローマ総督ピラトの官邸に連れて行ったようです。彼らは、過越しの祭りが始まる前に、群衆に知られないようにイエスを処刑したかったため、非常に急いでいました。ユダヤ教のリーダーたちが総督官邸に着いた時、彼らは官邸の中に入ろうとしませんでした。それは、ユダヤ人が異邦人の家の中に入ると、宗教的に汚れるからです。彼らは、その日、過越しの食事を食べたかったので、宗教的に汚れることを避けました。彼らは、律法の規則を破ってまでしてイエスを死刑にしようとしていたのに、過越しの食事を食べるためには、律法の教えを守って異邦人の家の中に入ろうとしませんでした。彼らの信仰は、まったく自己中心的なもので、自分の都合に合わせて聖書を解釈していました。彼らは、宗教の儀式に関するルールは細かな部分まで守ろうとする半面、神ご自身がこの世に遣わされた御子イエスを、妬みや反感から受け入れないと言う深刻な罪を犯していました。主イエスだけが総督官邸の中に入ったので、ピラトは、官邸の中のイエスと官邸の外にいるユダヤ人指導者たちのところを行ったり来たりしなければなりませんでした。

 ピラトは祭司長たちに質問しました。「この人に対して何を告発するのか。」ここで、少し時間を遡りますが、イエスが捕まった時に、ローマの兵士たちもユダヤ教のの指導者たちと一緒だったことを考えると、彼らとローマ総督の間には、イエスに関して何らかの話し合いがあったと思います。ユダヤ教の指導者たちは、主イエスをピラトのところへ連れて行けば、すぐにイエスを死刑にする許可をもられると思っていたようです。彼らは、イエスについてピラトに裁判をしてもらうつもりはまったくありませんでした。彼らは、ただ、ピラトからイエスを死刑にする許可をもらいたかったのです。というのは、ユダヤ教指導者たちが主張する、イエスの死刑の理由は、神でもない人間が自分を神だと言って神を冒涜したというものですが、この理由ではローマ人総督は死刑を許可しないことが分かっていたからです。ピラトの質問に対して祭司長たちは、あいまいな答えをしました。「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。」彼らは、ユダヤ教の神を信じないローマ人の前で、イエスを訴えることのできるものを何一つ持っていなかったからです。彼らは、ピラトが彼らの決断を受け入れて、すぐに死刑の許可を出してくれることを期待していました。

 ところが、ピラトは、彼らの期待に反して、「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」と言いました。ピラトは、彼らがイエスを処刑したいと思っていることは分かっていましたが、その理由が理解できませんでした。それで、彼らの律法に従って彼らが裁判するべきだと思いました。ところが、ユダヤ教の指導者たちは、「私たちはだれも死刑にすることができません。」と主張して、ピラトにその宣告をするように迫りました。実は、彼らはは明らかに律法に違反した者に対しては死刑を行うことができました。例えば、使徒の働きの7章に出て来ますが、初代教会のリーダーだったステパノは、クリスチャンとして自分の信仰を大胆に告白した時に、彼らの怒りを買ったために、彼は石打ちの刑によって殺されました。この時、ユダヤ教の指導者たちは、イエスを処刑したことで人々から批判されることを避けるために、ローマ総督のピラトが死刑を宣告することにしたかったのです。このように、ユダヤ教の指導者たちは、律法をいつでも自分の都合のいいように解釈して、使っていました。しかし、人間はいつも自分勝手な動機でじ行動しているのですが、すべてのことは神様の支配の中で行われたことでした。というのは、主イエスは、十字架にかかる前に、自分が死ぬときには異邦人が関わることを預言しておられたからです。マルコの福音書10章33節を読みましょう。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。」主イエスの十字架の死は、すべて神様のご計画のまま進んでいたのです。

 ピラトは、総督官邸の中に入ろうとしないユダヤ教指導者たちを外に残して、官邸の中に入り、イエスを呼び出し、イエスに質問しました。「あなたはユダヤ人の王なのか。」なぜ、ピラトがこのような質問をしたのでしょうか。ヨハネの福音書には記されていないのですが、ルカの福音書を見ると、ユダヤ教指導者たちがイエスをピラトのところに連れて来たときに、彼らはイエスを訴えて、ピラトに向かってこう言いました。「この者はわが民を惑わし、ローマ皇帝に税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っています。」この訴えにも、嘘が含まれています。主イエスは人々にローマ皇帝に税金を納めることを禁じてはおらず、むしろ税金をローマ帝国にきちんと払うように言われました。彼らは、ピラトにイエスの死刑を宣告してもらうために必死でしたので、嘘でも何でも、できる限りの知恵を使ってピラトに訴えました。彼らがもともとイエスに死刑の判決を下したのは、イエスが神を冒涜したからです。しかし、ピラトの前ではその訴えは通用しないので、彼らは訴えを変えて、イエスがローマ帝国の支配を打ち壊す反乱者だと訴えたのです。ピラトにとっては、イエスがローマ帝国の支配を脅かす者であれば、それは問題です。そこで、ピラトは「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねました。ピラトは、イエスが本当にローマ帝国を倒そうとしている反乱者なのかどうか確かめるためにこのような質問をしました。このピラトの質問は4つの福音書すべてに書かれています。そして、すべての質問は、「あなたは」という部分を強調する質問になっています。ここをもう少し詳しく訳すと、「あなたは、あなたは本当にユダヤ人の王なのか」と言った感じの質問です。というのは、これまでにも、イスラエルにはローマ帝国に対して暴動を起こそうとした人物が何人もいたのですが、ピラトには、どう見てもイエスが暴動を起こすような人物に見えなかったのです。

 このピラトの質問に対して、イエスは、彼の質問の意味を確認する必要がありました。イエスはピラトに言いました。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを他の人々があなたに話したのですか。」もし、ピラトが自分で言っているのであれば、ピラトが考えているユダヤ人の王とは、ローマ帝国に対して暴動を起こそうとする者という意味ですから、イエスの答えは「ノー」です。しかし、ユダヤ教の指導者たちの話を聞いて尋ねているのであれば、主イエスは、イスラエルの王であり救い主メシアですから、答えは「イエス」になります。しかし、イエスの言葉を聞いたピラトは激怒します。彼にとってユダヤ人はローマ帝国に支配された奴隷のような民族です。イエスの言葉がピラトには上から目線の自分を侮辱するような言葉に聞こえました。彼は吐き捨てるように言いました。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちがあなたをわたしに引き渡したのだ。」この言葉からも、ピラトはなぜイエスが死刑になるように訴えられているのか理解していないことが分かります。それで、ピラトは改めてイエスに尋ねました。「あなたは何をしたのか。」ピラトは、祭司長たちがイエスに対する妬みや憎しみから、イエスを死刑にするように訴えていることは分かっていましたが、なぜ、イエスが彼らからそのような憎しみを受けているのか、イエスが彼らに何をしたのか分からなかったので、こう尋ねました。主イエスは、ピラトが祭司長たちの訴えを繰り返しているだけであることを見抜いて、自分がこの世の政治的な王ではないことをはっきりとピラトに語りました。36節を読みましょう。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちがわたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしはこの世のものではありません。」

 ピラトはイエスの言葉の意味を理解することができず、もう一度イエスに尋ねました。「それでは、あなたは王なのか。」それに対して主イエスは次のように答えられました。「わたしが王であることはあなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」イエスはどのような国の王であるのかをこの言葉で説明されました。主イエスが王として支配する国は、真理を土台としている国であり、真理に聞き従う人がその国の国民ということになります。主イエスが王として支配する国は、この世の政治や権力によって造られる国とは違い、民族や国籍の区別がなく、一つの真理に聞き従う人々によって造られている国です。主イエスは「わたしは道であり真理でありいのちなのです。わたしを通してでなければだれも父のみもとに行くことはできません。」と言われましたが、主イエスにとって真理とは、私たちを父なる神のみもとに導く真理であり、それは、神について、人間について、罪について、さばきについて、永遠のいのちについて、つまり、私たちの永遠の運命を決定することに関する真理です。主イエスは、ローマ総督のピラトに向かって、「あなたも真理の国の国民とならないか。」と言って、ピラトが真理を受け入れるように招かれたと思います。しかし、ピラトはイエスの招きを拒みました。彼は「真理とは何のか」と尋ねていますが、彼は、真剣にその真理を求めたのではありません。彼は心の中で、「真理というものなど捜しても見つかるはずがない」と思っていたのです。これは質問というよりも、彼の皮肉を込めた捨て台詞みたいなものです。彼は、突然、イエスに質問するのを止めて、イエスが示した真理を求めることを拒みました。

 イエスのうちに死刑に価するものが何も見つけられなかったピラトは、ユダヤ人指導者たちに「あの人に何の罪も認めない。」と言いました。ただ、ピラトは、イエスを無罪にすると彼らが激怒することが分かっていたので、彼らに提案をします。自分が罪がないと認めたイエスを有罪にすることで、祭司長たちの機嫌を取っておいて、同時に、過越しの祭りに行われていた犯罪者を釈放する習慣を利用して、イエスが死刑にならないように道を作って、自分の気持ちを満たそうとしました。しかし、ユダヤ教の指導者たちの周りには、お金で買収されていた群衆たちが集まって来ていました。彼らの声の大きさに押されて、ピラトは結局、自分が罪がないと認めた人を十字架のはりつけにすることを宣言させられてしまうのです。

 「真理とは何ですか」ピラトは、真理を求める気持ちを持とうとせず、真理そのものを軽蔑しました。しかし、聖書は、私たちにこの真理を受け入れるように教えています。主イエスが言われた真理とは、抽象的な概念ではなく、神の御子が、自分の栄光を捨ててこの世に来てくださり、私たちのような、自分のことしか考えない罪人のために、自分が身代わりとなって十字架で死ぬことによって、私たちに永遠のいのちを与えてくださる、キリストの真理です。私たちを永遠の滅びから救い出そうとして、いのちを捨てるほどに私たちを愛されたキリストの愛の真理です。この真理を受け入れる者は、永遠に生きるいのちが与えられるのです。

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