2022年2月20日「教会に与えられた使命」(マタイ福音書28章16-20節) | 説教      

2022年2月20日「教会に与えられた使命」(マタイ福音書28章16-20節)

 日本語の聖書で「教会」と訳されているギリシャ語の言葉は「エクレシア」と言います。この言葉は2つの言葉が組み合わされています。「エク」と「クレシア」なのですが、「エク」は「外に」という意味で、「クレシア」は「呼ばれた」という意味です。従って、「エクレシア」とは「外に来るように呼ばれた人々」という意味になります。この言葉の意味から、教会とは、神様によって、罪に支配されたこの世から出て来るように呼び出された人々の集まりと言うことができます。よく考えて見ると、本当に不思議です。私たちの教会も、世界中にある他の教会も、そこに集っている人は様々な背景を持ち、いろいろな人がいます。人種や文化、生活や考え方など、みな違います。しかし、私たちは、神様にそれぞれの所から呼び出されて、今、一つの群れを作っているのです。その教会の特徴について3つのことを考えたいと思います。

 第一は「信仰を土台とする集まり」ということです。「エクレシア」という言葉を聖書で最初に使ったのは主イエスです。ある時、主は12人の弟子たちに尋ねました。「あなたはわたしを誰だと言いますか。」すると弟子の一人ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えました。ペテロの信仰告白を喜ばれた主はペテロに言いました。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」と言われました。この時に主が初めて「教会・エクレシア」という言葉を使われました。ご存知のようにペテロの意味は岩です。主がここで、この岩、つまりペテロの上にわたしの教会を建てる」と言われたのは、ペテロという人間の上に教会を建てるという意味ではなく、ペテロの信仰告白のうえに教会を建てると言われたのです。つまり、教会の土台は何かというと、「主イエスは、私たちの罪を赦すために十字架にかかられたイエス、三日後に復活され、今は天において生きておられるイエスが、神の子であり救い主である」と信じる信仰なのです。教会とは、その信仰を持ってこの世から呼び出された人々が集まっている場所なのです。私が毎年奉仕している日本ケズィックという集いがありますが、モットーとしているみ言葉はガラテヤ書3章28節です。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」教会の唯一の共通点は「イエスは生ける神の子、救い主である」という信仰告白なのです。

 教会の第二の特徴は交わりです。パウロはエペソやコリントの教会に書き送った手紙の中で、「教会はキリストの体」と言いました。それは、私たちが主イエス・キリストを私たちを罪の束縛と裁きから解放する救い主である」と信じて、ほとんどの人は洗礼を受けますが、その洗礼は、「イエス・キリストに繋がる洗礼」だからです。洗礼を受けた人はみなイエスキリストに繋がる家族の一員になるのです。キリストは教会の頭で、私たちは、その体の一つの部分です。体を作り上げる一つ一つの部分はどれもみな無くてはならない存在で、そして、それらの部分が協力し合って体は動いて行きます。エルサレムで、はじめて教会が誕生した時から、教会ではメンバーを兄弟と呼び合い、彼らは互いに助け合っていました。使徒の働き2章44章から46節に、エルサレムの町に誕生したばかりの教会の様子が描かれていますが、彼らは財産や持ち物を皆で分かち合っていました。彼らは、教会を一つの家族だと考えていたからです。最初は、物質的な交わりが目立ちますが、次第に教会も成長して、例えば、異邦人中心のコリント教会の人々は、貧しさに苦しんでいたユダヤ人中心のエルサレム教会を援助する奉仕に自分たちも加わりたいと、指導者パウロに申し出ていました。互いの教会が奉仕という交わりを持っていたことが分かります。また、使徒の働きの2章には、エルサレム教会の人たちがともに集まってパンを裂いていたと書かれていますが、これは聖餐式を行っていたことを現わしています。聖餐式を意味する言葉は「communion」というのですが、これは心を通い合わせる親しい交わりを意味する言葉です。聖餐式は、主イエスの十字架によって罪赦された私たちが、キリストへの感謝を現わすとともに、お互いに愛の交わりの時として持つものなのです。

 そして、教会の第三の特徴は一致です。キリストが天に帰られた後、信者たちに聖霊が下ったことによって、最初のキリスト教会が誕生しました。初代教会の信者たちの証しによって、さらにはユダヤ教から回心したパウロの宣教によって、あっと言う間に、キリスト教会はエルサレムという一つの町からローマ帝国一帯に次々と広がって行きました。しかしやがてユダヤ人の教会と異邦人の教会の間に壁ができたり、教会の中に分裂が生じたり、いろいろな問題が生じました。パウロは、ピリピやコリントの教会に分裂が起きていることを知って、彼らに手紙を書いて教会の中の一致を促しました。教会が一致しなければならないのは、教会が父と子と聖霊が一つとなって存在する三位一体の神を信じる者たちの共同体だからです。パウロがエペソ人への手紙で言っているように、私たちにとって、神は一人、信仰は一つ、イエスにつながるバプテスマも一つです。私たちが一つであることは、この世の人々にも見えるものでなければなりません。だから、主イエスは、十字架にかかる直前に信者たちが一つなるようにと祈られたのです。また、主イエスは12弟子に言われました。「あなたがの間に愛があるなら、この世の人々はあなたがたが本当に私の弟子であることを知るでしょう。」教会の一致はルールを決めて外から強制的に作るものではありません。一人一人が主イエスのようにへりくだり、互いに周りの人々に愛を実践することで築き上げられるのです。私たちを一つにしているのは、イエス・キリストの福音です。その点においては私たちは一致できるはずです。それ以外のものはすべて二次的なものです。この世の生活のいろいろな部分で、私たちは他の人と異なる意見を持つことがあります。意見が分かれた時に、それぞれが自分の意見を強く主張すると、教会は分裂してしまいます。キリストの福音以外のことで、教会の中で意見が別れた場合には、互いにそれぞれの立場を理解することが大切です。ローマ人への手紙によると、ローマの教会では市場で売られていた肉に関して教会内に意見の違いがあり、分裂しそうになっていました。当時市場で売られていた肉は、一度偶像に捧げられていました。そのため、教会の中には、肉を食べても良いと考える人と、食べてはいけないと考える人がいたのです。パウロは14章3節で、こう言っています。「食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。」肉の問題は、キリストの福音とは何の関係もありません。私たちも、福音以外のことについては意見の違いがあるとしても、一人一人が相手の立場を尊重して、教会の一致を求め、愛のわざに励むことが大切です。

 さて、今日読みましたマタイの福音書28章16節以降の出来事は、主イエスが復活された後、40日間、弟子たちに姿を現わされたのですが、主イエスが天に帰られる少し前の時の事だと思われます。主イエスは、十字架に掛けられる前に、弟子たちに「わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤに行きます。」(マタイ26:32)と言っておられました。26節には書かれていませんが、16節には、彼らはイエスが指示された山に登ったと書かれているので、イエスはどの場所に行くべきか弟子たちに教えておられたようです。11人の弟子たちは他の信者たちとともに主イエスに指示されたガリラヤの山に向いました。彼らは、その山でイエスを見ると、主の前にひれ伏して礼拝しています。11人の弟子たちについて行った者たちの中には復活された主イエスを見ても疑う者がいました。復活の主イエスの姿を肉眼で見ても疑う人がいたことは驚きですが、人の心は、何かを思い込んでしまうと、何を見ても疑ってしまう性質があると思います。

 主イエスは18節で、集まっていた人々に言われました。「わたしには、天においても地においても、すべての権威が与えられています。」マタイの福音書は、イエスの権威について繰り返して語っています。7章では、イエスの教えを聞いた群衆がイエスの教えに驚いているのですが、それは、イエスの教えが権威ある者の教えであったからです。また、主イエスが中風で寝たきりだった人を癒されたのですが、それは、主イエスが地上で罪を赦す権威を持っていることを人々に知らせるための癒しでした。また、マタイは、主イエスが汚れた霊やサタンに対する権威を持っておられると記しています。そして、今日の個所で、主イエスは天においても地においてもすべてのものに勝る権威を持っていると言われたのです。主イエスが一切の権威を持っておられるので、私たちは何も恐れる必要はありません。私たちがどんな状況に直面しているとしても、主イエスはその状況を最善に導く権威と力を持っておられます。主イエスは十字架と復活によって、私たちにとって最大の敵である死に対する勝利をも宣言されました。だから、主イエスを信じる者は死ぬことも恐れる必要がないのです。死は永遠の滅びではなく、永遠のいのちに入るための入口だからです。主イエスは今も生きておられるので、主イエスの権威は今も働いています。使徒の働きの時代の教会が、主イエスの権威のもとで大きく広がりましたが、今の教会にも主イエスの権威と力は働いています。イエスの弟子たちは、主イエスの御名によってと宣言して、イエスの権威を用いて働きました。私たちの教会にも同じ主イエスの権威と力が注がれています。私たちは、自分の力に頼るのではなく、主イエスの権威と力に頼る時、わたしたちの力を超えた力がこの教会に働きます。

 主イエスは、弟子たちに、イエスの権威と力を何に用いるように言われたでしょうか。19節で、イエスは次のように言われました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。」この命令は、この時の弟子たちだけでなく、今日の教会にも同じように与えられている命令だと思います。キリスト教会は主イエスの弟子たちから同じ命令を受け継いでいるからです。主イエスの命令の中心は「弟子をつくりなさい」という部分です。教会の使命は主イエスの弟子をつくることです。日本にはいろいろな弟子がいます。落語家の弟子、生け花の弟子、料理人の弟子。誰かの先生や師匠の弟子になるという場合、その人は、先生と同じようになりたいという強い願いがあって、先生と生活を共にして、先生から指導を受け、ただ教えを聞くだけでなく、その教えを実践して行きます。それが弟子です。主イエスの弟子になるというのは、イエスを救い主と信じ、主イエスの弟子として生きる決意を現わすために洗礼を受け、他の信者たちとの交わりを持ち、生活の中で主イエスから教えられたことを実践する人のことです。私たちは、皆一人一人、キリストの弟子であり、そして、主イエスから同じ命令を受けています。一人一人が、自分のいる所から主イエスを知らない人がいるところへ出て行って、その人たちをキリストに導くことを、使命として与えられています。私たちは教会の中にとどまるのではなく、外へと出て行かなければなりません。ただし、私たちは、地の果てにまで行く必要はありません。すべての人は主イエスの救いを必要としているのですから、隣の人のところへ出て行くことも必要なのです。一人一人が、自分のいるところから一歩外に出て、主イエスの十字架の福音を伝えて行くことが、主の命令に答えていくことなのです。

 山に集まっていた弟子たちは主イエスからそのような命令を受けて、すこし恐れを感じたかもしれません。私たちも、この主イエスから与えられた大きな使命を考えると、自分に十分な力がないことが分かっているので、おじけづいてしまいます。しかし、主イエスは私たちのためにすばらしい約束を与えてくださいました。それは20節の主イエスの言葉です。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」天においても地においてもすべての権威が与えられている方が、私たちの弱さを知っておられるので、この素晴らしい約束を私たちに与えてくださいました。今、この瞬間も、主イエスは、目には見えませんが、私たちの助け主として私たちとともにおられるのです。これは当時の弟子たちにとっては約束でしたが、今の私たちにとっては事実となっています。私たちが主を忘れそうになっても、主から離れそうになっても、主イエスは、いつも私たちとともにいてくださいます。私たちがたとえ迫害されても、周りの人々からからかわれても、のけ者にされても、主イエスは、決して私たちから離れることはありません。しかも、世の終わる時まで、永遠に、主イエスは私たちとともにおられるのです。そのことを知っているなら私たちは何も恐れる必要はありません。むしろ、この素晴らしい主イエスを。他の人々に知らせてあげましょう。私たちの周りに、苦しみや悩みを抱えている人がたくさんいます。その人たちに、主イエスが十字架で示してくださったいのちがけの愛を伝えることができるのは、主イエスを信じている私たちです。

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