2022年3月6日 『すべての人のための十字架』(ヨハネ19章17-24節) | 説教      

2022年3月6日 『すべての人のための十字架』(ヨハネ19章17-24節)

 今日は、主イエスが十字架にかけられる場面です。主イエスの十字架は聖書のメッセージのクライマックスであり、クリスチャンの信仰の中心です。そのために、キリスト教会は十字架を看板にしています。世の中では、十字架をアクセサリーだと思っている人が多いですが、もともと十字架は呪われた死刑の道具でした。したがって、十字架をアクセサリーにするのは、絞首刑のロープはギロチンの刃を飾るようなもので、十字架の本来の意味を知れば、アクセサリーにする人はいないかも知れません。しかし、クリスチャンにとっては、十字架以上に大切なものはありません。それは、十字架の中に、神様の私たちに対する大きな愛が現れているからです。

 本来、私たち人間は神のかたちに造られた素晴らしい存在でした。進化論が言うような、細胞分裂の結果誕生した偶然の存在ではありません。人間には、神様と同じような優れた性質や能力があり、全員が同じ善悪の基準を持っています。人間が単なる偶然の結果なら、なぜ、そのような共通の善悪の基準を持っているのでしょうか。進化論の世界には善も悪もありません。すべてが偶然だからです。私たちはが神に似せて作られた素晴らしい存在でしたが、神様から与えられた素晴らしい能力を間違って自分勝手な使い方をして、神様の命令に背いてしまいました。そのために、私たちは神様とともに生きることができなくなり、神様との関係から切り離されました。その結果、私たちは自己中心という性質を持って生まれるようになったのです。今、ロシアが一方的にウクライナを攻撃しています。本当に腹立たしいことが行われています。その出来事も、根本的な原因は人間が神から離れて自己中心になったことにあります。それを聖書は罪と呼びます。そして、罪は私たちの生き方を支配し、最終的には私たちを永遠の滅びへと導きます。神様にとって喜びの存在であった人間が、神の裁きを受けなければならない存在になりました。しかし、神様は、自己中心であり神を嫌う人間であっても、人間は自分が作った存在ですから、そんな人間であっても愛しておられるのです。その愛は、親が子どもを思う愛に似ています。自分の子どもが大きな罪を犯した時、親は自分が子どもの罪をかぶって代わって死んでやりたいと思います。子どもを愛していて、自分が死んでも子どもには生きてほしいと願うからです。私が子どものころ私と同じ年ぐらいの男の子が誘拐されました。「吉展ちゃん」事件として大事件になりました。犯人は村越吉展ちゃんを誘拐し、身代金を奪って、子どもを殺し、墓石の下に隠しました。この事件を起こした犯人小原保にも母親がいました。この事件を取り扱った本の中に、犯人の母親である小原トヨさんが書いた手紙が載っています。そこにはこのように書かれています。「村越様、許してください。わしが保を産んだ母親でごぜえます。死んでお詫びがしたい、それでもお詫びにはかなわねえでしょうが、そうでもしねえといられぬ気持ちです。保は体が不自由だっただけに、他の八人の子どもよりもよけいに心配もしたし、かわいがってもやりました。しかし、心が通じず、保にこんなおそろしいことをさせてしまって、、、許せる罪ではごぜえませんです。罪の恐ろしさにただただ泣いています。保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんでだめでした。ただ、針のむしろに座っている気持ちです。保よ。大それた罪を犯してくれたなあ。わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、お前をかわいがっていたつもりだ。お前はそれを考えたことはなかったのか。保よ。お前は地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする。どうか皆様許してくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし。」小原トヨさんはその後寂しく死んで行きました。ここに母親の深い愛が現れています。親は、こどもの罪のためには、自分のいのちを捨てようと思うほどに悩み苦しむものです。私たちは、凶悪事件を見ると、犯人が極悪人だと思います。プーチン大統領を見ていると、彼が悪魔のように見えます。しかし、私たちも、実は、心の奥底に、同じようなひどいことをしてしまう可能性、罪の性質を持っているのです。ただ、理性が働いて今は自分をコントロールしているだけなのです。もし、自分の目の前にどうしても許せない人間が現れたら、私たちも、何かの拍子に、人を殺さないにしても、罵倒するかなぐりかかることをやってしまう可能性を持っています。主イエス・キリストは、そのような人間の罪を、自分の責任と感じて、自分が身代わりになっていのちを捨てることによって、私たちの罪の罪滅ぼしをしてくださいました。キリストは、自分のいのちをかけて私たちを愛しておられます。あなたには、このキリストほどにあなたを愛してくれる人がいますか。

 ヨハネの福音書には、ローマ総督ピラトがイエスを死刑にすることを求めていたユダヤ人たちの叫びに負けて、イエスを彼らに手渡したあと、イエスがどれほどの苦しみを受けたのか、あまり詳しく書かれていません。十字架刑を受けた犯罪人が十字架を担いで処刑場まで歩いていく様子は、当時、よく見られた光景であったので、書く必要がなかったからかも知れません。主イエスは、十字架を担いで処刑場に向かって行きましたが、途中で体に限界が来て、途中からクレネ人のシモンという人が代わりに担ぐことになるのですが、ヨハネはその出来事をはぶいて、主イエスが最後まで十字架をかついで行ったように書いています。ヨハネは、主イエスが私たちの身代わりとなって、十字架をかつぎ、私たちの身代わりとなって十字架にはりつけになったことを強調したかったからだと思います。十字架の処刑場は、エルサレムの街の外側にありました。その場所は、形がドクロに似ていたので、ヘブル語で「ゴルゴタ」と呼ばれていました。ドクロはローマの言葉ラテン語では「カルバリア」と言い、そこから英語の「カルバリー」という言葉が生まれました。主イエスは、ゴルゴタの丘に着くと、そこで十字架にはりつけにされました。その時、二人の犯罪人も十字架につけられ、主イエスの十字架を真ん中にして、三本の十字架が立てられました。

 実は、この一連の出来事は、主イエスよりも800年も前に活躍した預言者イザヤによって詳しく預言されていました。その預言があまりにも正確なので、ある人はイザヤ書は、イエスの時代の後に書かれたのではないかと疑う人もいましたが、第二次世界大戦後にイスラエルの死海の近くの洞窟に隠されていた壺の中から「死海文書」と呼ばれた巻き物が見つかり、時代側定で紀元前1世紀のものと分かりました。死海文書の巻き物の中にはイザヤ書66章もすべてが入っていたので、イザヤの預言はイエスの前に書かれていたことが証明されました。イザヤの時代に十字架刑は存在しませんでした。十字架を知らないイザヤが53章の預言を書くことができたのは神からのインスピレーションが与えられたとしか考えられません。

 イザヤの預言はびっくりするほど正確な預言です。誰が、救い主が十字架の苦しみを受けなければならないなどと考えることができたでしょうか。救い主としてこの世に来る方は、普通なら栄光と力に満ちた王のような人物を思い浮かべます。しかし、救い主には見るべき姿も、輝きもなく、人が顔をそむけるほどに、救い主は蔑まれるのです。神様は、預言者イザヤをとおして、救い主が私たちの身代わりに苦しみを受けることによって、私たちの罪が許されることを私たちに教えています。6節に記されているように、イザヤは、人々が神から離れて自分勝手な方向に向かって行く姿を、道に迷う羊に例えました。勝手な道に進んで行った私たち人間の罪をすべて背負って主イエスは十字架にかかられました。主イエスは、十字架を抱えて処刑場まで歩いて行きました。多くの犯罪人は、十字架に掛けられることを恐れて、神を呪い、人々を呪いました。しかし、主イエスは一言も話しませんでした。それは屠り場に引かれて行く羊のようだとイザヤは言いました。旧約聖書の時代、人々は、自分の罪を許してもらうために、いけにえの動物として羊を捧げていました。人々は自分の手を動物の上において祈りました。それは、自分の罪を羊に移すことを表していました。屠られた羊が流した血のゆえに、人々の罪が許されたのですが、それと同じように、主イエスが十字架で流した血潮によって、私たちのすべての罪は許されたのです。十字架は、主イエスにとって大きな苦しみでした。しかし、11節を見ると、彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する」と書かれています。それは、十字架によって、多くの人々が罪赦されて、神の裁きから逃れることができる道が開かれたからです。主イエスは、十字架の苦しみをすべて体で体験されました。人間の罪の醜い行動や言葉をたくさん経験しました。しかし、主イエスの人間に対する愛は変わりませんでした。主イエスが十字架に掛けられた後、7つの言葉を言われるのですが、最初に言われた言葉は祈りの言葉でした。「父なる神よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」という祈りです。主イエスの目の前では、イエスの苦しみにはまったく無関心なローマの兵士たちがいました。彼らは、イエスの下着を取って、それをくじ引きで誰のものにするのかを決めようとしていました。主イエスは、自分を蔑み、嘲り、自分を憎みいのちを奪おうとする人々を、なおも愛して彼らの救いのために祈られました。ここに十字架の愛があるのです。イザヤの預言から分かるように、主イエスは、ユダヤ人たちの陰謀によって十字架にかけられたのではありません。主イエスの十字架は、神様の永遠の計画によるものであって、主イエスは自分から進んで十字架にかかられたのです。人が友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。主イエスは、この言葉を十字架で自ら実行されました。

 19節によると、ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げました。そこには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていました。そして、その言葉はへブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていました。ヘブル語はユダヤ人の言葉、ラテン語はローマ人の言葉、ギリシャ語は当時の国際語でした。この3つの言葉で書かれていれば、ほとんどすべての人がその意味を理解することができました。当時の習慣で、十字架にかけられる犯罪人が処刑場に向かう時に、先頭にプラカードを持った兵士が罪状書きを持って歩いていました。主イエスには罪がなかったので、罪状書きに何も書くことがありませんでした。ピラトは元々主イエスに罪を認めていなかったのですが、ユダヤ人たちの脅迫によってキリストを彼らに引き渡していたので、ユダヤ人たちに復讐がしたかったのだと思います。ピラトは、ユダヤ教の指導者たちが、この罪状書きを嫌うことは分かっていました。十字架刑は、人々への見せしめのために行われたので、処刑場は人通りの多い場所になっていました。罪状書きは十字架の一番高いところにつけられることになっていて、多くの人が見ることができました。ユダヤ教の指導者たちは、イエスを極悪人として殺したかったので、この罪状書きは人々に間違ったメッセージを与えると思い、彼らはピラトに罪状書きの変更を求めました。しかし、今回はピラトが彼らの要求をつっぱねました。彼は「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」と言いました。ピラトの言葉は、直訳すると、「私が書いたものは私が書いた。」という文章で、そこには、「私が書いたものはいつまでもそのまま残るのだ。」というニュアンスが含まれています。ピラトは、ある意味、ユダヤ人たちへの復讐の意味で、この罪状書きを書いたのですが、キリストがユダヤ人の王であり、また、全人類の王であることは真実です。ピラトは、自分が書いたものはいつまでも残るのだと言いましたが、確かに、キリストが王であるという真実は永遠に変わることはありません。主イエスの十字架の出来事は醜い人間の感情が入り乱れて起こっていますが、実は、そのすべては神様のご計画どおりに進んでいたのでした。人間たちの醜さの中で、主イエスの聖さが輝く出来事でした。

 十字架の処刑に慣れていたローマの兵士たちは、囚人が持っていたものをもらうことが一つの喜びでした。一人の犯罪人には4人のローマ兵士がついたのですが、彼らは、イエスの着物を4つに分けました。ただ、下着は一枚の布からできていたので、彼らはくじ引きでもらう人間を決めていました。すぐそばで主イエスと他の二人に犯罪人は十字架の上で極限の肉体の苦しみを感じて、呻いていました。しかし、彼らは、苦しむ囚人たちには全く無関心で、自分の楽しみだけを考えていました。ローマ兵士の姿は、今の世の中の人々の姿と変わりません。多くの人は、主イエスが十字架にかけられたことの意味を知りませんし、知ろうともしません。多くの人は、自分の罪のことを真剣に考えません。罪には将来裁きが伴うことについても考えようとしません。ひとりひとり、自分のことだけを考え、自分さえよければよいと考えて毎日を過ごしています。しかし、私たちの明日はどうなるのか分かりません。ウクライナで起こっていることが日本でも起こる可能性はいくらでもあります。主イエスは言われましたが、この世はいつか消えて行きます。しかし、キリストの言葉、約束は永遠に消えることがありません。永遠に消えることのないものをあなたは持っておられますか。主イエスを私たちを罪から救う救い主と信じる時、私たちは永遠に失われることのないいのちの世界に入る者となります。あなたもこの世界に入りませんか。

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