2022年3月13日 『十字架の上のキリスト』(ヨハネ19章25-30節) | 説教      

2022年3月13日 『十字架の上のキリスト』(ヨハネ19章25-30節)

 主イエスが十字架にかけられた時、十字架の周りにはいろいろな人が集まっていましたが、ヨハネは、その中で2つのグループを描いて、対比させています。一つのグループはローマの兵士たちでした。当時、犯罪人が十字架刑を宣告されると、4人のローマ兵士がその犯罪人の処刑を担当しました。兵士たちはイエスの衣服を剥ぎ取り、イエスを十字架の上に寝かせて手首と足首に太いくぎを打って、十字架を起こしました。その作業が終わると、彼らは、犯罪人の所有物を皆で分け合いました。彼らの目の前には3本の十字架が立っていて、主イエスと二人の罪人が十字架の上で激しい肉体の苦しみを経験していました。手と足の激痛はもちろんですが、高熱がでてのどがカラカラになります。体は手足だけがはりつけになっているため、だんだん下がってきます。そうなると呼吸ができなくなるので、犯罪者は、息をするために足に力を入れて体を起こそうとするのですが、その時手と足のくぎが体に食い込むため、激しい痛みを感じるのでした。しかし、4人の兵士にとっては、十字架の処刑は毎日のように行っていることなので、犯罪人の苦しみにはまったく無関心でした。そして、さいころでイエスの下着を取り合うことに熱中していました。人間の心は悪や罪に対して、悔い改めないままでいると、だんだん心が麻痺して、悪にに対して罪悪感を感じなくなってしまうのです。この時の4人の兵士たちがまさにその状態になっていました。

 一方、25節にはもう一つのグループのことが記されています。十字架のそばには、主イエスを慕って集まっていた人々がいました。ヨハネは25節と26節に4人の女性と自分自身の名前を挙げています。この人々は主イエスが話しかけることができるほど近くにいました。彼らの周りにはローマの兵士たちがいましたが、自分たちが捕まる危険があるにもかかわらず、兵士たちをおそれず十字架に近づいていました。25節に4人の女性の名前が記されています。イエスの母マリアと、その姉妹、クロパの妻マリヤ、そして、マグダラのマリヤの4人です。他の福音書を読むと、イエスの母マリヤの姉妹はサロメという名前であることが分かり、また、彼女はイエスの弟子であるヨハネとヤコブの母親であることが分かります。従って、主イエスとこの福音書を書いたヨハネとは、人間的に言うといとこの関係であったことが分かります。主イエスの母マリヤはどんな思いで十字架のそばに立っていたでしょう。マリヤは、イエスが生まれた8日後にイエスに割礼を施すためにエルサレムの神殿に行ったことを思い出していたでしょう。ルカの福音書の2章を読むと、マリヤは神殿でシメオンという老人に出会います。シメオンは幼子イエスを腕に抱いて神様に感謝の祈りを捧げたのですが、その時にシメオンはマリヤに一つのことを預言していました。彼はマリヤに言いました。「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。」彼女の胸に、悲しみの剣がまさに刺し貫いていました。母親のマリヤはイエスを助けようと思えば助けられたかもしれません。マリヤにとってイエスは自分の息子ですから、ユダヤ教指導者たちに向かって、「この子は私の息子です。神の子なんかではありません。」と叫べば、イエスは釈放されたかも知れません。しかし、マリヤは何も言わずに十字架のイエスを見つめていました。マリヤはイエスが神の子であることを知っていたからです。

 十字架の上で、すべての人の罪を背負って大きな苦しみを味い、まもなく死を迎えようとしていた主イエスですが、主は自分のことよりも、愛する母マリヤのことを考えておられました。普通の人間には耐えられない苦しみの中で、主イエスはマリヤのことが心配だったのです。マリヤの夫ヨセフは早い段階で福音書から姿を消しているので、ヨセフは早くに死んだものと思われます。当時の社会では、未亡人の生活は非常に苦しいものでした。主イエスは、マリヤのことを自分の愛弟子であり、この福音書の著者でもあるヨハネに託しました。ヨセフとマリアの間には他にも子どもがいましたが、彼らは、主イエスが復活するまでは、主イエスを救い主と信ぜず、イエスは気が狂っていると思っていたので、そのような弟たちにマリアを託すことは良くないと主は思われたのでしょう。ただ、イエスの弟たちも、主イエスの十字架と復活を目撃して、イエスを救い主と信じる信仰を持つようになり、特に、ヤコブという人は、後に、エルサレム教会の指導者になりました。その時から、ヨハネはマリヤを自分の家に迎え入れ、自分の母のように受け入れました。マリヤにとっても、ヨハネの母親のサロメは自分の姉妹ですから、マリヤにとっても抵抗なくヨハネの世話を受けることができたと思われます。十字架の処刑場には、人間の罪のみにくいものがあふれていましたが、そのただ中で、主イエスの母親マリヤだけでなく、すべての人々に対する深い愛があふれる小さな出来事をヨハネはこの福音書に記しました。

 他の福音書を見ると、お昼の12時ごろにあたりが真っ暗になって午後3時ごろまで続いたと書かれています。この暗闇は不思議な現象ですが、罪のない神の御子が呪われた十字架にはりつけにされて、私たちの代わりに父なる神の怒りを受けようとしていることを表すシンボルだったのです。マタイの福音書は、暗闇が3時間続いた頃に主イエスが父なる神に向かって「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と言われたと記しています。主イエスはこの暗闇の中で父なる神から見捨てられるという言葉に表せない恐怖を味わっておられました。私たちは、周りの人からのけ者にされると心が非常に傷つきます。こどもが親から捨てられたら、どれほど傷つくことでしょうか。しかし、私たちにとって、神様から捨てられることほど恐ろしいことはありません。罪を持っている人間は、神からのさばきを受けなければなりません。神様から見捨てられなければならないのです。しかし、主イエスは、私たちがこの恐ろしい苦しみを受けなくても良いように、この苦しみを受けられました。主がこの言葉を言われた時、主イエスは、自分が父なる神から委ねられた務めを完了したことを知りました。そして、彼はその言葉に続いて、28節に記されているように、「わたしは渇く」と言われました。主イエスは、私たちと同じ人間の体を持っておられたので、十字架にはりつけにされて数時間の間、言葉で表せないような肉体的苦痛をずっと味わっておられました。主イエスがはりつけにされた時に、ローマの兵士たちは主イエスに苦みを混ぜたブドウ酒を飲ませようとしましたが、主はそれを飲まれませんでした。この苦みを混ぜたブドウ酒は、十字架にはりつけにされた者たちにいつも飲ませているものでした。この苦みには麻酔のような効果があり、ローマの憐みで、十字架につけられた者の苦しみを少し和らげてやろうとするためのものでした。しかし、主イエスは、すべての人の罪の罰を身代わりに受けるために十字架にかかられたので、十字架の苦しみをすべて味わうために、このブドウ酒を飲まれませんでした。詩篇には主イエスの十字架を示す言葉がいくつかあるのですが、22篇15節にはこう書かれています。「私の力は土器のかけらのように乾ききり、下は上あごに貼り付いています。死のちりの上に、あなたは私を置かれます。」主イエスののどの渇きは、主が神の裁きを受けたことの証拠なのです。その言葉を聞いて、ローマの兵士たちが、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、イエスの口元に差し出しました。主イエスは、この酸いぶどう酒を口に含みました。主イエスの口は詩篇が書いているように渇ききっていたので、言葉を出すことさえ困難でした。一口のブドウ酒は渇きをいやすほどではありませんでしたが、そのおかげで主イエスは力強く「完了した。」と宣言することができました。この「完了した」という言葉は、「やるべきことを完成した」という意味で、「もうだめだ」という絶望の言葉ではありません。父なる神様が計画された私たちの罪からの救いの計画が完成したという宣言の言葉でした。そして、同時に、主は私たちが経験するべき苦しみを全部味わって、苦しみが終わったことの宣言でもありました。

 主イエスが十字架の上で死なれたことを「あがない」と言います。あがないという言葉は、もともと経済の言葉で、「買い戻す」という意味がありました。もともと自分のものであったものが、何かの理由で、他の人のものになったとします。しかし、やはり自分のものにしたいときには、今の持ち主にお金を払うことによって、自分のものにすることができる、つまり買い戻すことができます。聖書は、私たち人間はもともと神様によって造られ神様と共に充実した生活をしていました。しかし、人間が神様の命令に背いて罪を犯したために、私たちは、神様との関係から引き離されてしまい、自己中心という罪の力に支配されるようになりました。それが人間の現実です。しかし、神様は、自分に逆らったような人間を、もう一度自分とともに生きることができるようにと、お金ではなく、主イエスのいのちをささげることによって、私たちを、罪の束縛から解放して、神様のもとへ戻ることができるようにしてくださいました。これが、私たちの買い戻しであり贖いなのです。私たちは、本当は、罪のさばきを受けて永遠の苦しみに陥らなければなりませんでした。しかし、主イエスがそのさばきを私たちに代わって十字架の上で受けてくださったことにより、私たちは、何もしていないのに、罪が許され、神の家族に戻ることができるようになったのです。そのための条件はただ一つ。イエスの十字架の死は、私の罪が赦され、私がもう一度神様のものになるためであることを信じることです。

 主イエスは、この贖いのわざを完了して、最後にご自身の霊を父なる神に委ねられました。ルカの福音書には主イエスの最後の言葉が記されています。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と主イエスは大声で叫ばれました。この言葉からも分かるように、主イエスは、自分から自分のいのちを父なる神様にささげられました。肉体的には大声が出せるほどですから、肉体的には死ぬ状態ではなかったかもしれませんが、主イエスは、この時、ご自分から魂を父なる神に委ねられたのです。主イエスが言われた「完了した」という言葉は、ギリシャ語で「テテレスタイ」と言うのですが、この言葉は、商売する人々も使っていた言葉でした。それは、借金をすべて返済した時に「テテレスタイ」と言って、借金はすべて返済した。もう取り立てられることはないという意味を持っています。従って、この言葉は、信仰的に言えば、「私たちの罪が許されるために必要なことは全部行われました。もう私たちの罪が責められることはありません。」という意味を持つ言葉になります。主イエスが十字架で贖いのわざを完了してくださったので、旧約聖書の時代に行われていた複雑ないけにえを捧げるシステムはなくなりました。必要がなくなったのです。主イエスが、一度、ご自身のいのちをささげてくださったことによって、すべての時代のすべての人の罪が赦されて神の子どもとされる道が開かれました。私たちは、もう一度、主イエスの十字架の意味をよく考え、自分が救われていることの意味を思って、神様に感謝の心を持って生きる者でありたいと思います。

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